選択
「気分はどう?昨日より顔色は良さそうだけど」
「うん、今日は調子がいいの。痛み止めがよく効いているみたい」
ベッドに横たわる母の言葉に、わたしは笑顔を返した。洗ったばかりのタオルと着替えが入ったトートバッグを、使用済のそれらが入ったバッグと入れ替えた。その様子を見つめていた母は、申し訳なさそうに言った。
「毎日ごめんね。遠いのに。明日からはもう来なくていいからね。洗濯くらい自分でできるし」
「でも」
「いいのいいの。やりたいこと、たくさんあるんでしょ?」
「……うん」
わたしが小さく笑うと、母は微笑んだ。そのはにかんだ笑みに、少しくすぐったさを覚えた。
母の手術から三日が経った。病理検査の結果はまだ出ていないが、おそらく良性だろうという話だった。手術後すぐ、担当した医師から摘出した子宮を見せてもらったが、片側が大きく膨張していて驚いた。「ここまで大きいとは思っていませんでした」と医師は言った。とても痛かっただろうなと思ったし、もっと早く見つかっていればという後悔が静かに押し寄せていた。
取り出した臓器の説明をする医師の声に耳を傾けながら、自分の腹の中にも同じ臓器があることに感動を覚えた。手が自然と腹に伸びていた。まやかしではない本物の臓器がそこにあることを確かめるように。とはいえ見た目には何も変わっていないから、あまり実感が湧かなくて少し変な感じだった。
プラスチック容器に入れられた赤い臓器を、何度も目に焼き付けた。こんな小さな場所で命が育まれていたとは信じ難かった。生命の神秘を見たような気がした。
無事手術が終了したことに安堵したその足で新幹線に飛び乗り、海外へ旅立つ乙骨くんを見送った。他学年の生徒たちとはタイミングが合わなかったので、わたしたち二年生のみで見送りパーティーを開いた。近場の喫茶店を貸し切って。
それからわたしたちは成田空港まで同行した。乙骨くんはほとんど荷物を持っていなかった。しばらく海外に滞在するとは思えぬほど身軽な乙骨くんは「狗巻君と仲良くね」と穏やかに笑いかけてくれた。欠かさず連絡しようと思いながら、搭乗口に向かう背中が見えなくなるまで見送った。
肉体を取り戻したわたしは、呪術高専に通い続けることに決めた。もちろんイザナミさんとの交渉はそのためだったので当然なのだが。ずっと黙っていたことを面白がったのは五条先生だけで、皆は揃って呆れていた。
当初の目的を達成したこともあり、学長と再度面談することになった。「これからは何のために呪術高専で学ぶのか」と問われ、わたしはきっぱりと答えた。
「わたしの選択が間違いではないことを証明するためです」
学長から許しを得られたことを、棘くんは自分のことのように喜んでいた。
驚いたことに、棘くんは以前のように嫉妬しなくなった。その頻度が劇的に減ったのだ。わたしが刀祢樹の話を出しても不機嫌にならなくなったし、伏黒くんに頬を緩ませていても後ろから余裕たっぷりの視線を送られるだけになった。むしろ逆に怖かった。
真希ちゃん曰く、「
の選択は棘にとって最高の愛情表現だったんだろ。惚気か?」ということらしい。断じて惚気ではないと否定したが、真希ちゃんは信じてくれなかった。
わたしの姿は誰からも認識されるようになったものの、まだその現実に慣れてはいなかった。人とすれ違うときに避けてしまう癖は抜けず、棘くんと繋いだ手を離そうとするたび叱られるようになった。仕方がないと理解してほしいものだが。
全てがいい方向に変わったわけではなかった。わたしは領域を使用できなくなったのだ。五条先生はさも当然という様子で頷いていた。
「当たり前でしょ?ランプの魔人でもあるまいし。“神様”だからこそ、何でもかんでも願いを叶えてくれるわけじゃないんだ」
「つまり今までは“呪い”だったから、簡単に領域が使えたってことですか?」
「そういうこと。イザナミの膨大な呪力と切り離されていなかったからね」
「じゃあ今後、術師の仕事はどうすれば……」
「あ、そこは安心していいよ。
の仕事にはほどほどに手を貸すっていう誓約だから」
「ほどほど……ですか?」
「
が使える領域は略式のみ、尚且つ呼べる呪霊は一級以下を一体まで、他にもあれも駄目これも駄目っていう細かな縛りがたくさんあるんだけど……まあ、ほどほどだとそうなるよね。それでも
には今まで通り、“特級術師(仮)”として働いてもらうつもりだから頑張って」
「それなら等級を下げて頂きたいのですが」
五条先生にわたしの文句が聞き届けられることはなかった。特級呪霊を相手にしなければならない現在の等級で、一級呪霊を呼び出すだけで精一杯というのは、正直なところ不安が募るばかりだった。しかし、こればかりはどうにもならないだろう。この結果を選んだのはわたしだ。潔く受け入れるつもりだったし、何かしらの対処法を考えていくつもりだった。
丸椅子に腰掛けながら、わたしは言った。
「昨日から塾に通い始めたの。やっぱり大学にも行こうと思って。平日の夜は毎日授業入れちゃった。あ、塾代は術師のお給料で何とかできるよ。そこは大丈夫だからね」
母が途端に顔をしかめた。
「駄目。全部お母さんが出すから。お給料は
の好きなことに使ってよ」
「使った結果が塾なんだけど」
「そういう屁理屈は聞いてないの。遊ぶために使いなさい」
「でも」
「
」
厳しい声がわたしから全ての言葉を取り上げた。もう何を言っても聞く耳を持たないと確信していた。母が今後振り込むであろう塾代は、大学進学の諸費用として貯金しようと決めた。
「大学で何を学びたいの?呪術師だから歴史とか?」
「ううん、前と変わらないよ。工学部に入って情報工学の道に進むつもり」
すると母は心配そうな視線を寄越した。
「大丈夫なの?」
「両立なんて前例がないから、偉い人達にはいい顔はされないだろうって五条先生は言ってた。だから大学に入るまでに術師としての信頼を勝ち取って、誰にも文句を言われないようにするよ」
日本は少子高齢化が進み、総人口も減少の一途を辿っていた。それに伴い人間が生み出す負の感情の総量も減り続けている現状で、一生涯の職業として呪術師のみを選択することは到底不可能だった。できることなら楽をして暮らしたいし、余計な不安に苛まれたくもなかったから。
その特殊性から潰しがきかない呪術師という仕事は、例え国家公務員扱いだとしても職業としてはそれほど魅力的ではない。そして何より、わたしは他の呪術師とは根本的に違うから。
イザナミさんに愛想を尽かされた時点で、呪術師ではいられなくなるのだ。呪術師として生きていけなくなったときの保険は、絶対に用意しておく必要があった。
「何を選んでも、どの道に進んでも、きっと面白いと思うんだ。うまく両立してみせるよ。前例がないのは大変なことも多いけど、その分とても自由だってわかったから」
わたしの言葉に母は笑った。昨日の塾での出来事を頭の中でなぞりながら、声を少しだけ弾ませた。
「昨日早速友達ができたんだ。悪霊退治がきっかけで!」
「悪霊退治?」
「そう!……って言っても、ほとんど棘くんのおかげなんだけど」
母を見据えながら、ぽつぽつと言った。
「わたしにできることがあるなら、少しでも力になりたいなって。“呪い”になったわたしを皆が助けてくれたように、今度はわたしが“呪い”に苦しんでいる誰かを助けたいの」
「うん、とても素敵なことだと思う。
の選んだことなら、お母さん全力で応援するからね」
「ありがとう。すごく嬉しい」
今度はわたしが笑った。以前よりも母との距離が近づいているような気がする。胸の奥に、ほっとするような温かい感情が広がっていった。
病室の扉が開く音がして目をやれば、黒い制服姿の棘くんが立っていた。その腕にフラワーバスケットを抱えたまま、少し緊張した面持ちでこちらに歩いてきた。
見舞いに来るという話は聞いていなかった。わたしが驚いていると、棘くんは色とりどりの花でいっぱいのバスケットをこちらに差し出した。どこか落ち着かない様子で。
「しゃけ」
「こんなに綺麗なお花……本当にいいの?」
「しゃけしゃけ」
「ありがとう、棘くん」
受け取ったそれを母に見せびらかした。母は恐縮しながら頭を深々と下げた。
「お気遣い痛み入ります」
「おかかっ」
棘くんは否定の言葉を口にした後、すぐにはっとなった。慌ててかぶりを振って、言葉の意味を身振りで示そうとした。おにぎりの具を口にするのは、母の混乱を招くだけだと気にかけているらしかった。
「狗巻君の言葉で話してもらって大丈夫ですよ」
母に笑いかけられた棘くんは、驚いた様子で目を見開いた。母は棘くんからわたしに視線を移すと、思い出すように訊いた。
「“おかか”が否定で合ってる?」
「うん、合ってる。“しゃけ”が肯定的な意味かな。あとは感覚で」
わたしが言うと、母はやる気に満ちた表情になった。ポカンとしている棘くんに再び目をやった。
「私も狗巻君と話せるようになりたくて。
のことはもちろんだけど、狗巻君のことも教えてほしいんです。できれば、貴方自身の口から」
その言葉に何かを察した棘くんが居住まいを正した。母の頭がゆっくりと垂れ下がった。
「とても甘え下手な子ですが、どうかよろしくお願いします」
「しゃけ」
棘くんは応えるように、腰を深く折った。とても真剣な表情に、わたしは少し恥ずかしくなった。居心地の悪さを感じながら、左手の薬指に嵌った指輪を右手で何度もなぞった。
わたしは棘くんとともに病室を後にした。扉が閉まると、棘くんは肩の荷が下りたような顔をしていた。どうやら相当緊張していたらしい。母と穏やかに談笑していたときは、そこまでだとは思いもしなかったのだが。
「おかか……」
失敗したと呟く声を拾って、わたしは首を振って否定した。しかし棘くんは後悔している様子だった。わたしから見れば、一貫して礼儀正しく、とても好感を持てる振る舞いだった。採点基準が厳しいなと思ったが、下手な励ましは追い打ちをかけるだけのような気がした。話の矛先を少しずらすだけに留めておいた。
「うちの親公認だね」
「しゃけ。すじこ」
「うん、いつか会わせてね」
わたしが頷くと、棘くんは少し恥ずかしそうに顔を伏せた。
病院の廊下から見える景色は、爽やかな夏の香りを漂わせていた。先月異例の梅雨明け宣言が出された東京は、今日もきっと夏らしい気候なのだろう。早く衣替えをしたいなと思いながら、誰もいない静かな廊下をゆっくり歩いた。熱気を孕んだ青空を、視界の端に収めて。
「コンビニ寄っていい?アイス買って帰りたい」
「しゃけ」
「え、やだ。棘くんの部屋クーラー壊れてるじゃん」
「おかかっ」
「仕方ないなあ。何もしないって約束なら、いいよ?」
どちらともなく、互いの手がするりと重なった。ぬくもりの灯った指が深く絡められていく。
わたしたちは視線を交わして笑い合った。たったそれだけで春の陽気が立ち込める。ようやく取り戻すことができた、人としての肉体に。赤い血が巡るように、隅々まで。
相変わらず“呪い”は見えないし、残穢はおろか“神様”の気配すら感じられない。
それでもわたしは呪術師として生きていく。優しくて温かいこの手が、わたしを確かに繋ぎ止めてくれる限り。
第三章 了
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