間奏 -前-
「――なるほどね」
そう言って、五条は頷いた。片田舎の寂れた無人駅のベンチに腰掛け、すぐ目の前で展開されている
の大規模な領域を見つめながら。
五条はいつもと変わらぬ喰えない雰囲気を纏ったままで、棘の話を聞き終えても少しも驚いた様子はなかった。棘はこの男がいったいどこまで予測していたのかを、ずっと計りかねていた。
「棘の助力があったとはいえ、この作戦の立案は
によるものなんだ?」
「しゃけ」
「うーん、やっぱり惜しいな。ものすごく惜しい。どうしても人間に戻っちゃうの?高専も辞めて一般人になるって?」
「しゃけしゃけ」
「呪いが見えないからって術式が消えるわけじゃない。あれを悪用されるのが怖いし、今回のことで
が呪詛師向きの性格だって思い知らされた。できればこちら側に付いていてほしいんだよ。棘が何とか説得してくれない?」
「おかか……」
無茶を言うなと棘は顔をしかめた。これはすでに
が決めたことだった。棘の懇願でどうにかなるような話ではなかった。
が今回の作戦を棘に明かしたときにはもう、
の決心は隙間なく固まっていたのだから。
イザナミに“契約違反”の罪を被せ、“契約”を破綻させたペナルティとして、自らを人間に戻させる――それが
の企てた謀略だった。
は呪術高専に転入してきた時点からその謀に手を付けていた。他でもない今日のこの瞬間のために。
周囲には自身の目的を“体を取り戻すこと”だと言いふらしていた。イザナミを謀るために必要なことだった。棘もすっかり騙されていた。
に会えない間ずっと棘が調べていた両面宿儺とイザナミの関係性など、
には端からどうでもいいことだった。
が本当に知りたかったことは、イザナミと直接会話する方法とイザナミを確実に貶める方法、たったそれだけだった。
は長期戦の腹積もりだったようだが、母親の手術という想定外に見舞われて、どうしても計画を前倒しにせざるを得なくなったらしい。呪言師である棘に助力を求めようにも、会話が筒抜けになれば今までの努力が全て水の泡になってしまうと憂慮した。
しかし、
が完全に行き詰まっていたそのときには、棘はすでにイザナミから体の一部を取り返しており、イザナミに勘付かれず会話する算段にも辿り着いていた。
にとってはこの上ない朗報だったことだろう。
棘は
から謀略を聞かされたとき、運が味方に付いていると確信した。運は
に味方していたし、おそらく最後まで裏切られることはないだろうと直感した。
五条の言いたいことは棘にも理解できた。
の奸計には度肝を抜かれたし、敵に回してはいけないと思った。そしてそれ以上に、尊敬の念を抱いた。呪いになったという己の現状に絶望することなく計略を企て、虎視眈々とその機会を窺っていたのだ。自らの悲願を果たすために。それは並大抵の精神でできることではなかった。
だからこそ、棘は
のことがよくわからなくなっていた。棘自身も騙されていたせいだった。不安の種が芽吹くには充分すぎた。
に感じた熱は確かなものだったし、棘が一番であることが間違いないし、その点に関しては疑ってなどいない。
棘が案じているのはこれからのことだった。
が人間に戻ったとき、あっさりと捨てられるような気がした。棘は人間に戻った
との未来を夢見ていたが、
も棘と同じ気持ちであるとは信じきれなかった。夢で終わってしまうのではないかという不安に、ずっと付き纏われていた。
「体を取り戻して、普通に生きていきたいの」
あの言葉の裏には“演技を真に受けないでよ”という意味が隠されていたのだが、棘には
の本音のように思えてならなかった。
はこれから呪術と関わりのない世界で生きていくのだ。呪いになる前がそうであったように。
はたしてそこに、狗巻棘は必要とされているのだろうか。
“契約”を破綻させるために解呪してほしいと、
に頼まれていた。だから棘は呪いを解いた。本当に欲しいのは呪いの
ではなく、人間の
なのだと、己の心に言い聞かせるようにして。決して解けないと思っていた歪んだ呪いを、
との約束の時間までにゆっくり解いていった。
恐ろしかった。棘と
を繋ぐものがなくなったと感じた。曖昧で不確かだったものが、今度こそ冷たい空気に溶けて霧散していくようだった。必要とされなくなるのではないかという憂いだけが心に蔓延って、棘の気持ちをどこまでも沈ませていった。
鬱屈した感情を抱えた棘は、ベンチで足を組んだまま、
の領域をじっと見つめていた。黒い制服の下で、汗がぽつぽつと浮いているのがわかった。本格的な夏が近づいている。最も気温が上がる時間帯は過ぎたものの、降り注ぐ日差しはまだ充分な熱を帯びていた。その証拠に、足元に置いた黒いリュックは驚くほど熱くなっていた。
持参したペットボトル飲料が空になったとき、棘のスマホが軽快な着信音を奏でた。退屈そうにスマホで何かのゲームをしていた五条が、顎で“うるさいから早く出ろ”と言っていた。この非常事態にいったい誰だと思いながら画面を見れば、“
”の名が表示されていて心底驚いた。
領域の中では、スマホの電波は繋がらないのではなかったのだろうか。疑念を覚えたものの、棘はすぐに応答した。あの狡猾な呪いの罠ではないことを祈りながら。
「あ、棘くん?」
「高菜っ!」
「うん、大丈夫だよ。作戦大成功。全部うまくいったんだ」
それは間違いなく
の声だったが、にわかに信じ難かった。棘は前方を見つめた。人間に戻ったというなら、何故領域が消失していないのだろう。呪力をほとんど持たない
が領域を展開し続けていること、それ自体が妙だった。呪いが
の声を騙っている可能性も充分に考えられた。
棘は注意深く言葉を続けた。
「すじこ」
「え、クイズ?別にいいけど……どうしてこのタイミングなの?後じゃ駄目?」
「おかか」
今でなければ駄目だと言うと、
は「わかった」とすぐに了承した。そのさっぱりとした態度は
に違いなかったが、棘は確信を得るために唇を割った。
「ツナマヨ」
「“まほらは月の向こう”でしょ。超簡単じゃん。時間がなくて最終回はまだ観てないの。早く観たいなあ、帰ったら観なくちゃ。パンダくんは最高だったって連絡くれたけど」
「しゃけしゃけ」
「ちょっと待って!それ以上ネタバレしたら怒るからね?!……っていうか、あれ?棘くん、いつの間に観たの?まさかずっと観てたの?あんなに刀祢くんのこと嫌いだって言ってたのに」
「……こんぶ」
「ふうん……へえ、そうなんだ……ふふっ」
「おかかっ!」
羞恥で顔に熱が集まっていた。問題を間違えたとひどく後悔した。
を夢中にさせている刀祢樹がどんな男なのかを確かめてやろうと思ったら、案外ドラマが面白くて最終回まで観続けてしまったのだ。墓穴を掘ってしまった。きっとしばらくは
に茶化されるだろうなと、ちょっと気が重くなった。
ともあれ、棘とここまで複雑な会話ができるのであれば
本人で間違いないだろう。少年の姿をしたあの呪いは、棘の単純な言葉の意味さえ掴めなかったのだから。
「高菜」
「そう、困ったことがあって連絡したんだ。無事に人間に戻ったけど帰れなくて」
「明太子」
「よろしくお願いします」
スマホを手に持って、棘は使用する呪言を考えた。
には生半可な呪言を使いたくなかったが、今はどの言葉を選んでも歪んだ呪いになるような気がした。それなら、自らの想いをありったけ注ぎ込んだものにしようと思った。
腹の底で芽吹いた不安を拭い去る呪縛を、
に与えようと決めた。棘は口元のジッパーに手をかけた。
「――離れるな」
その途端、咽喉に猛烈な痛みが走った。驚く暇もなかった。激痛は瞬く間に内臓へと伝染し、棘は慌てて通話を切った。スマホが沈黙したことを確認するよりずっと早く、棘はその場に大量の血液を吐き散らしていた。
くっくっと喉を鳴らす声がすぐ隣から聞こえて、視線だけで確かめた。
「そうか。
は最初からそのつもりだったんだ。いやあ、相当な策士だね。いっそ呪詛師になったところを見てみたいよ」
五条は棘を心配する素振りを見せず、ベンチからやっとその腰を上げた。吐き気に襲われた棘は何も言えず、二度三度と吐血を繰り返した。真っ赤に染まった足元を見つめた。視界がぼんやりと歪んでいた。
がまだ人間に戻っていないことを、棘はようやく受け止めた。五条が棘を見下ろしていた。
「棘、行こう。君を騙くらかした
に文句を言いに」
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