ふたりっきりのチャンス到来
教室の鉄格子で覆われた窓から、凍りついた白い空を見上げる。昼間だというのに太陽はちっとも顔をださなくて、雲行きが明らかに怪しい。さっきスマホで調べてみたら、なんと夕方から雪がちらつくらしい。
ホワイトクリスマスの予報に浮立つ気持ちを、ぐっと心の底に押しこめる。今年ばかりはクリスマスらしいことはできそうにないから。
2017年12月24日―――つまり昨日、呪詛師“夏油”による“百鬼夜行”が行われた。
百鬼夜行の標的になった新宿と京都は千の呪いに穢されて、すべての呪術師が駆りだされての総力戦を繰り広げることとなった。
真希ちゃんと狗巻くんとパンダくん、そしてわたしは、首謀者である夏油に半殺しにされた。わたしたちを助けてくれたのは乙骨くんで、その夏油を退けたのも乙骨くんだった。乙骨くんのもっとも大切なひと、里香ちゃんを朝焼けの空に見送る形で、百鬼夜行はようやく終わりを告げたのだ。
とはいえ、百鬼夜行が与えた影響はすさまじかった。呪術師たちは事後処理に追われて、未だにてんやわんやの状態だ。猫の手だって借りたいくらいだろう。
呪術師でありながらも本分は学生であるわたしたちは、その喧騒からすこしだけ遠ざけられていた。たぶん、五条先生のおかげだ。五条先生といい、七海さんといい、呪術高専には子どもであるわたしたちを守ってくれる大人が多い。とても恵まれていると思う。
窓の外をじいっと見入る。夏油に関する報告書をなんとか書きあげて、やっと一段落ついたところだった。
このあとは家入先生の診察が待っている。乙骨くんが反転術式で元通りにしてくれたけれど、半殺しにされているのだ。一応、心身に異常がないかを調べておくらしい。ついさっき狗巻くんが呼ばれていったから、次はおそらくわたしの番だろう。
寒空を見つめながら、ほうっと息を吐きだす。今日という日に想いを馳せていた。だって、今日は12月25日―――つまり、クリスマス当日なのだから。
「クリスマスっぽいこと、したかったなあ」
はたと我に返って青ざめる。心の声が無意識に口からこぼれ落ちていた。呪術高専に漂う空気はピリピリとしていて、当たり前だけれどクリスマスどころではない。
空気をまるで読んでいないつぶやきを、みんなに聞かれてしまったかもしれない。
おそるおそる振り返ると、わたしのちょうど真後ろに五条先生がいた。あまりのことにびっくりして、のどが笛のように鳴った。
いつからそこに。というか、音もなく忍び寄るのはやめてほしい。ものすごく心臓に悪い。
わたしが文句を言う前に、五条先生が口を開いていた。
「いいね、クリスマスっぽいこと!」
五条先生の声は無邪気に弾んでいた。
「ほら、百鬼夜行も終わったわけじゃない?打ち上げって感じでさ、クリスマスパーティーしようよ!」
「いいんですか?まだ昨夜の残穢は残ってるって……」
特級や一級レベルの呪霊がうじゃうじゃ跋扈したせいで、新宿にも京都にも呪いの残穢が至るところにこびりついている。そのまま放っておけば、残穢に引き寄せられて新たな呪いが生まれてしまうだろう。
人手不足は火を見るより明らかだった。いつわたしたちに事後処理が回ってきたっておかしくはない。
けれど、五条先生はそんな危惧を軽々と跳ねのけた。
「そんなの大人に任せておけばいいって。若人から青春を取りあげるなんて許されていないんだよ。何人たりともね」
五条先生の唇がくっきりと弧を描く。
「ってことで、
。ケーキ買ってきて。人数分ね」
「……え?」
「言いだしっぺの法則って知ってる?」
言いだしたのは五条先生ではないだろうか。いや、この場合はわたしということになるのか。
わたしが答えをだすより早く、五条先生の鼻先はイスに座る真希ちゃんたちに向けられていた。
「クリスマスツリーの手配と飾りつけは、僕たちがやるからさ。ね、真希?」
「勝手に決めんなって言いたいとこだけど……乗った。気分転換したいところだったしな」
真希ちゃんはそう言うと、隣にいたパンダくんに目をやる。
「ツリーって言えばモミだよな?ここって生えてたか?」
「生えてるよ、端のほうだけど。でも、勝手に切るのってどうなんだろうな?」
「一本くらいならバレねェだろ」
クリスマスツリーの相談をはじめたふたりを尻目に、五条先生が財布から一万円札を取りだした。
「はい、これで買ってきてね。足りなかったらあとで請求してよ」
「ありがとうございます。あの……ひとりで、ですか?」
わたしの独断と偏見で、みんなで食べるケーキを決めてしまってもいいのだろうか。疑問が顔にでていたのか、五条先生はやわらかく笑う。
「
のセンスは信用してるし、べつになにを買ってきてもいいよ。アレなケーキでもパンダが食べちゃうから」
「おう、任せろ!なんでも食べるぞ!」
勢いのあるパンダくんの言葉に笑っていると、五条先生がこっそり耳打ちしてきた。
「おつかいに行ってくれる
には特別に、ケーキを二個食べてもいい権利をあげちゃいます!どう?!」
「いってきます!」
善は急げと足を踏みだしたのに、五条先生に行く手を阻まれてしまった。
「とは言ったものの……このクリスマスにたったひとり、カップルがひしめくキラキラの街に放りだすのはさすがに可哀想だよねえ……」
「あの……僕でよければ、一緒に行きますよ」
ずっと黙っていた乙骨くんが、そうっと小さく挙手する。五条先生は大きくかぶりをふった。
「憂太はダメ。このあとたくさんのお偉方の前で今回の説明をするんだから。大人しく僕と一緒に怒られようね」
「……うっ」
一蹴された乙骨くんが苦い顔をしたとき、教室の扉が開かれた。暖房がガンガンにきいている教室に、外気がびゅうっと入ってくる。ああ、風が冷たい。
戻ってきたのは狗巻くんだった。ぱちりと目が合って、わたしは笑いかける。
「どうだった?」
「おかか」
にっこり笑い返してくれたことに安堵する。怪我はなんともなかったみたいだ。よかったと思っていると、
「そこにいるじゃないか、適任が!」
五条先生の高らかな叫びが脳をぐらぐら揺さぶった。五条先生はとてもうれしそうに、狗巻くんに声を飛ばした。
「
にクリスマスケーキのおつかいを頼んだんだ。棘、悪いけど一緒に行ってあげてくれない?」
「しゃけ」
狗巻くんがあっさりうなずくものだから、わたしの心臓は大きく跳ねた。顔をこわばらせたわたしの前に、一万円札が差しだされる。
「棘も一緒に行ってくれるから、ついでにクリスマスチキンも頼もうかな。はい、これ追加で渡しておくよ」
「……はい」
「じゃあ
は今から家入のところに行って、怪我を診てもらってきて。戻ってきたらふたりでおつかいね」
五条先生に背中をぽんと押され、促されるようにわたしは教室をでた。すきま風が入らないように扉をきっちりと閉めて、家入先生のいる医務室へ向かう。
風通しのいい廊下には、ひんやりとした空気が満ちていた。いつもなら体を縮こませて歩くのに、今のわたしは寒さをまるで感じていなかった。手にはちょっと汗がにじんでいるくらいだ。
狗巻くんとふたりっきりで、買い物に行く。たったそれだけのことなのに、わたしの鼓動はひどくうるさくなる。
ふたりっきりになれるチャンスが、ずっとほしかった。狗巻くんとゆっくり話せる時間が、ずっとほしかった。
どうしても、伝えたいことがあるから。
汗ばんだ手をぎゅうっと拳に変えて、わたしは息を大きく吸いこむ。廊下を進む足音が、ちょっとだけ大きくなった。
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