鼻から深く息を吸い込み、肺を大きく膨らませる。唇を僅かに開いて、送り込んだ空気をそこからゆっくりと吐き出していく。絶えず鼓膜を叩くテレビの音声にはできるだけ意識を割かないようにして、波立つ気持ちが目の前に注がれたことを静かに確認する。

「よし」と小さく気合いを入れると、細い筆ペンの先端を写経用紙にそっと添えた。何度も書くことですっかり覚えてしまった摩訶般若波羅蜜多心経――つまり般若心経を、表題から丁寧に書き写していく。

 全ての邪念を払って無心になれるほどの集中力はない。けれど、ぽつぽつと浮かび上がる雑念をただ受け止めながら、一字ずつ心を込めて書写するこの時間が好きだった。肯定も否定もしないうちに、気持ちが少しずつ凪いでいく。お兄ちゃんが死んですぐ、「多少は気分転換になるかもね」と言って写経を教えてくれた悟くんには感謝しかないだろう。

「うん!今日も完璧!」

 筆文字で埋まった写経用紙を眼前に掲げ、にんまりと笑みを浮かべる。誰が褒めてくれるわけでもないので自分で自分を褒めたあと、いつものように手早く後片付けを済ませた。

「伏黒んとこ帰んの?」
「お邪魔しました。毎晩ごめんね、ありがとう」

 小さく笑んで謝罪と感謝を告げると、ソファから身を乗り出すようにして虎杖くんがこちらを振り返る。テレビに映し出された過激なスプラッター映画がちょうど金色の頭で見えなくなったので、わたしはちょっと安堵した。

 いくら高専内とはいえひとりになるのは危険だということで、夜ごと部屋の隅を貸してくれる気前の良い虎杖くんだけれど、もちろん表向きは亡くなったことになっている。灯台下暗し、両面宿儺の器故に高専でひっそり匿われている虎杖くんは、ソファの背もたれに片腕を引っ掛けた。

「ずっと訊きたかったんだけどさ、何のために写経やってんの?」
「心頭滅却、恵くんに必要以上に甘えないために心を律しています」

 わたしは堂々と胸を張って答えた。“心頭滅却”とは少し違うような気がするけれど、言いたいことはだいたいそんな感じだった。理由なんて適当で良かった。だって、半分は本当で半分は嘘だから。

 本心をはぐらかしていることに勘付いた虎杖くんは、「ふたりっきりだもんなぁ」と当たり障りのない感想を言った。察しが良くて人の心に入り込むことが上手で、けれどもちゃんと適度な距離感を保ってくれる虎杖くんと過ごしていると、わたしは無理なく自然体でいられた。周りに嘘を吐いてまで虎杖くんの部屋で写経するのは、そういう理由も大きいだろう。

 心頭滅却といえば、ついこの間「四文字熟語を使うだけで頭が良くなったような気がする」と恵くんに言ったら鼻で笑われた。ムッとしたのでわざと薄着で、ぎゅうぎゅう胸を押し当てながら彼を抱き枕にするようして眠ってみた。翌朝、やけに顔色の悪い彼を指差して野薔薇ちゃんは大爆笑していた。仕返しとはいえ厳しい心頭滅却を強いたのだ、恵くんにはちょっと悪いことをしたかもしれない。

「明日の法要の準備、どんな感じ?」
「ばっちりだよ」

 虎杖くんの問いに、わたしは自信を持って答えた。なんとなく悟くんに似た軽薄さを含んだ、ひどく穏やかな笑みが脳裏に浮かび上がる。

「ネットで知り合ったお坊さんに、色々教えてもらってるんだ」
「ネット?……え、それ何か怪しくない?」

 胡乱げな問いが投げ返される。わたしは数秒の間を挟んで、小さく微笑んでみせた。

「虎杖くんは、死んだおじいさんに会える方法があるとしたら、どうする?」
「……どうする、って」
「その方法を使って、おじいさんにもう一度会いたいと思う?」

 言葉を選びながら丁寧に言い替えると、虎杖くんはきつく眉根を寄せた。全く意味がわからない、と言うみたいに。

 わたしは虎杖くんから視線を外し、手に掴んだままの写経用紙に目を落とした。

「君が生きたまま、死んだお兄さんに会える方法があるとしたら――って言われたときは、さすがに“このひとちょっと怪しいかも”って思ったよ」

 ネットで見つけた読経講座を運良く受講できることになり、ここ数日は毎日指導を受けている。講師である夏油先生に対して抱く、わたしの感想を聞いた虎杖くんは、どこか様子を伺うようにゆっくりと切り出した。

「……その質問、はなんて答えたの?」
「まやかしに縋るより、正しく復讐したい」

 夏油先生に告げた答えを、一言一句違うことなく紡ぐ。虎杖くんはひどく真剣な面持ちでこちらを見ていた。わたしの本心を見定めようとする視線に僅かな気まずさを覚える。

 鎮痛なほどの深刻さを帯びつつある空気を破るように、わたしはぎこちなく笑んでみせた。

「お坊さんには、“君のそれは緩やかな自殺だよ”って叱られちゃったけどね」

 わたしは胸の前で荷物を抱えた。それ以上、肋骨の向こうを見透かされることを拒むみたいに。何か言葉が欲しいわけではなかった。わたしが正しく復讐することに対する虎杖くんの感情は、何も求めていなかった。

「じゃあね。また明日」

 言うと、わたしは地上へ繋がる階段に爪先を乗せる。虎杖くんはこちらを見つめたまま、最後まで真面目な表情をしていた。眉ひとつ動かさず、けれど一言も言葉を発することはなかった。

 虎杖くんのそういうところに、察しの良い無類の優しさにまた今日も甘えてしまったのだと、男子寮へ至る短い帰路を辿りながら、少しだけ反省した。



* * *




 お兄ちゃんの初盆の法要は、つつがなく終わった。無論、虎杖くんのおじいさんの法要も。

 迎え火を焚いてからというもの、時間は淡々と過ぎていった。気づけば全てが終わっていた。あっという間だったというより、心がついていかなかったというほうが正しい。

 死者を悼むということ。それは否応なく死を突き付ける行為に等しい。

 どれだけ月日が流れようと、深い喪失に穿たれた心はあの四月に取り残されたままだ。正しい復讐を誓っても、恵くんと付き合い始めても、ふとした瞬間に心は連れ戻されてしまう。

 死者を弔うこの数日は言わずもがなで、数分前の記憶でさえもひどく曖昧だった。きっと何ひとつ覚えていたくないのだろう。お兄ちゃんが死んだことを、未だに受け入れられないからこそ。

「手伝ってくれてありがとう」

 簡素で慎ましい、お兄ちゃんの祭壇の前でわたしはぽつんと言った。法要のために借りた高専の寺院に残っているのは、わたしと恵くんのふたりだけだった。

 可惜夜の静寂が小さな寺院をひたひたと満たしている。他のみんなはずいぶん前に帰ってしまった。修行の傍ら、法要の準備を手伝ってくれた彼は、相槌もなくわたしの隣に佇立していた。怜悧な瞳はお兄ちゃんの祭壇だけをじっと映している。

 沈黙が多くなったわたしと比例するように、恵くんの口数もうんと減っていた。口には出さないだけで、互いに思うところがあるのは明白だった。自責か後悔か懺悔か、はたまた別の感情か。彼が何を思っているかなど、どうでも良かった。今は自分のことだけでいっぱいいっぱいだったから。

 とはいえ、そんな余裕のない自分を気取られたくない気持ちもあった。虎杖くんにはこの弱さを曝せても、恵くんに対してはどうしてもそれができなかった。虎杖くんが友だちで、恵くんが恋人だからではない。恵くんが恵くんだからこそ、それがすごく難しかった。

 いつもと変わらない声と調子で、わたしは彼に問いかけた。

「お兄ちゃんになんて言ったの?」
「妹さんとお付き合いさせて頂いてます、って」

 意外にも返答は淀みなく返ってきて、思わず彼の顔を覗き込んでしまう。恵くんは少しばつが悪そうに、「……まだ言ってなかったからな」と付け足した。そこに滲むたしかな愛情に言葉が詰まる。

 恵くんから向けられるそれに、わたしは相応しくないと思った。お兄ちゃんのことを考えるだけで心が止まってしまう今のわたしには、同じくらいの愛情を返すことは叶わない。ますます弱さを隠す他なくなって、「そっか」と小さく頷くだけで精一杯だった。

 わたしが黙り込んでも、彼は変わらず隣にいてくれた。初めて出会ったときと同じように。それが彼なりの優しさと償いなのだとわかっていても、息苦しかった。ひとりになりたかった。今だけは、誰よりも弱いわたしでいさせてほしかった。

「わたし、今夜はここにいたい」

 絞り出すように本音を告げると、彼の怜悧なかんばせに影が差した。恵くんは何も悪くないし、わたしたちを隔てるものは出会ったときから何も変わらない。いくら関係性が変容しようと、付いてこないものだって少なからず存在するのだ。

「お願い。今夜だけはお兄ちゃんとふたりにして」

 有無を言わさぬ強い語気で懇願を重ねる。引くつもりがないことを察したのだろう、恵くんはそっと目を伏せた。

「……わかった」
「ありがとう」

 やがて彼は踵を返した。視界から消えた彼を追うような真似はしなかった。ぼんやりと祭壇を見つめていると、耳朶を打つ足音が突として止まった。


「なに?」

 呼ばれたわたしは、屈託ない笑顔とともに振り返ってみせる。すると彼は逃げるように視線を落とした。

「……いや、何でもない」

 言葉を奪ったのはわたしだった。発言の隙を見出せなかった恵くんは、重い足取りで寺院を出て行った。彼の背を見送ったわたしは、膝を抱えてその場にしゃがみ込んだ。

「……わたし、最低だね」

 恵くんが好きだ。わたしと本気で向き合って、わたしを本気で叱ってくれる恵くんのことがどうしようもなく好きだ。けれど、そんな感情もこの喪失感の前では霞んでしまう。そこに在る感情が揺らぐことはなくとも、霧に覆われたように見えなくなってしまう。

 未だにどう折り合いを付けたらいいのかわからなかった。事実を受け止めようとしないことに起因しているとわかっていても、お兄ちゃんの理不尽な死を現実として認めたくなかった。一方的に奪われたというこの不条理を受け入れることは、わたしにとって何の救いでもなかった。

 だから、お兄ちゃんが死んだ悲しみも、恵くんが大好きだという気持ちも――全ての感情を憎悪に変換するほうが、ずっとずっと楽だった。

 復讐すること。“正しく”復讐すること。心が止まっているうちは、目の前のことだけに囚われていたい。たとえそれが緩やかな自殺だとしても。いつまで経っても歩き出せない自分を赦す方法は、もう、これしかないのだから。

「ねぇ、お兄ちゃん。もうちょっとだからね」

 わたしはゆっくりと顔を上げて、僅かに口角を持ち上げる。

「そろそろわたしもそっちに行くから、もうちょっとだけ待ってて?」


葉月 了