間奏
棘の意識が覚醒したのは、スマホの目覚ましアプリが鳴り出す一時間前だった。
昨夜は早く寝たわけではなかった。むしろ眠りについたのはいつもよりずっと遅かった。
との出来事が頭の中をぐるぐる巡ったせいで、心も体もひどい興奮状態に陥ってしまったから。
の体の柔らかさだとか漂う甘い匂いだとか潤んだ瞳だとか――列挙すればきりがないのだが――それら全てが棘の心を掻き乱したし、体に熱を持たせていた。そんな状態で眠るほうが難しかった。
しかし想定外の出来事が立て続けに起こったためか、心身は棘の自覚していた以上に疲弊していたらしく、半ば気を失うように眠りに誘われたのだった。
睡眠時間は非常に短かったが、眠りが浅かったような感覚はなかった。二度寝しようかとも思ったが、しばらく悩んでもう一眠りすることはやめた。
少しだけ眠気の残る体を起こして、シャワーを浴びた。そしていつもよりうんと時間をかけて身支度をした。好感を抱いてもらうには、清潔感が何よりも重要な気がして。
階下の食堂に下りれば、一足早くパンダと憂太が朝食を食べていた。
「おはよう、棘」
「おはよう。ちゃんと眠れた?」
「しゃけ」
棘はパンダに近づくなり、自分の髪を指でつまんだ。普段より入念に髪を洗った甲斐あってか、何となく指通りがいいような気がした。
「すじこ」
「変なところ?」
パンダがにやにやと笑いながら箸を置いた。
「ははーん、好きな子には格好つけたいわけか。いつもなら髪が爆発してようが制服が皺だらけだろうが何も気にしないくせに、ついに棘にも春が」
「おかか!」
「はいはい。じゃあその場でくるっと一周してよ……うん、完璧だ」
腕を組んで棘を観察していたパンダが深く頷いた。パンダは頼めばはっきりと物を言ってくれる性格だった。パンダが言うなら大丈夫だろうと安堵しながら、棘は憂太の隣に座った。
棘の腹はぺこぺこだった。さっさと空腹を埋めたかったが、パンダと憂太から次々と飛んでくる質問に答えながらの食事だったから、いつもより時間を要してしまった。
二人は喜々として訊いた。棘と
との出会いから、棘が
に恋愛感情を抱くに至るまでを事細かに。棘が答えるたびにパンダは大袈裟な声を上げ、憂太は表情で話の続きを促した。
棘が食べ終わる頃には、パンダは食後のコーヒーを優雅に嗜んでいた。棘の話を一通り聞き終えると、不思議そうに首を傾げた。
「ただの吊り橋効果じゃないか、それ」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
棘の代わりに答えたのは憂太だった。パンダがついでに淹れたコーヒーを少量飲んだ後、小さく笑った。
「誰かを好きになることに理由なんていらないよ。科学的根拠なんて無粋だと思う」
どこまでも優しい声だった。棘は憂太の言う通りかもしれないと思った。
を好きになった理由を探していたのは、棘も同じだった。一晩考えてみたものの、これといった理由を手にすることはできなかった。
しかし理由などは些細なことで、大切なのは今の自分の気持ちであるような気がした。理由が何であれ、
が好きなことは覆せない事実なのだから。
丁寧に両手を合わせ、棘はやっと食事を終えた。もうすぐ
に会えるのだと考えただけで、心臓が大きく脈打ち始めた。
落ち着かない様子の棘を見たパンダが、ぽつっと呟いた。
「その子、どんな制服だろうな」
呪術高専の制服は黒を基調としているが、カスタマイズ自由であるため誰一人として同じ制服を着ている生徒はいなかった。
の入学が決まったのは昨日のことだから、
専用の制服が用意されているかはわからないが、あの五条が何のカスタマイズもせずに制服を与えるとは思えなかった。
とはいえ、さすがに教師という立場は弁えているだろう。妙なカスタマイズはしないはずだ。
棘は唯一の同級生女子である真希の制服を思い出した。真希の制服は体のラインがわかるほどタイトだった。
もタイトな制服なのだろうか。曲線をそのままなぞるようなデザインだったら――
そこまで考えた時、ふと満員電車での出来事が頭を過ぎっていった。
ひどく邪な思考が一瞬で頭を埋め尽くし、棘は思わず項垂れた。
と普通に接することすら、今の自分には難しいのではないだろうか。そう考えるだけでひどく気が滅入った。
様子のおかしくなった棘を見た二人が、困ったように笑って顔を見合わせた。
「ちょっと気になるね。狗巻君がどんな子を好きになったのか」
「話を聞く限り、相当肝の座った子って感じだけどな」
「真希さん、寮で会ったりしてないかな?」
「訊いてみようぜ」
に会う決心がつかない棘は、二人に引きずられるようにして教室に向かった。
教室にはすでに真希がいた。自分の席に座って窓の外を眺めていた。
パンダが
のことを尋ねると、真希はあからさまに嫌そうな顔をした。
「訊かなくたってそのうち来るだろ」
「気になるんだよ」
「何で?」
「それはだって……」
パンダは最後まで言わずに棘に目をやった。何となく嫌な予感がして、棘は身を強張らせた。教室の空気がどんどん鋭利になっていくのを肌で感じた。
真希は全てを察したように、棘を厳しく睨み付けた。
「私達が殺すべき相手を好きになってどうすんだよ」
それはパンダが昨夜言っていた言葉と同じだった。パンダは顔を覆ったし、憂太は眉尻を下げた。棘が口を開くより先に、真希は語気を強めて言った。
「人間に戻れる保証なんてどこにもねえんだろ」
「真希さんそんな言い方」
憂太が慌てて止めに入ったが、
「ちゃんとわからせたほうがいい。自分がどれだけ馬鹿なこと言ってんのか」
と真希は真顔で告げた。棘を貫く視線はますます鋭くなり、弁舌の勢いが増した。
「棘は古いしがらみだらけのここで、術師として生きていくんだよな?呪いが好きだとか付き合ってるだとか知られてみろ。私みたいに昇級を邪魔されるだけならまだマシ、それどころか消される可能性だってあるんだぞ。実力に合わねえ無茶苦茶な仕事吹っかけられてな。上でのさばってる連中なんてそんな奴ばっかだって、お前もよく知ってんだろ」
「……しゃけ」
「自分の立場、もっとよく考えろよ」
棘は顔を伏せた。その通りだった。真希の言葉は正しかった。棘は両手をきつく握りしめた。爪が食い込むほど。間違いなく正論だったが、納得はできなかった。噛みしめた奥歯がぎりっと音を立てた。
“呪言師”の狗巻棘として“呪い”の
を好きになったわけではなかった。
ただの一人の男である狗巻棘として、ただの一人の女である
を好きになったのだ。
立場なんてものは後から付いてきただけで、計算ずくで
に恋をしたのではない。そんな器用なことが、不器用な自分にできるはずないではないか。
そう思うと同時に、棘は真希の言葉をある意味で認めていた。
を好きであることが公になれば害を被るのは確実だったから。
損得と保身のことしか頭にない厄介なあの連中が、自らの意に沿わない術師に嫌がらせをしないわけがない。意に沿わない術師の筆頭である五条は、いつだって上から妨害を受けている。
五条のように飄然とかわせばいいだけの話だが、今の棘には五条ほどの実力が伴っていなかった。何をされても返り討ちにできるだけの力がないことは理解していた。
それに自分のせいで
を巻き込んでしまったら――そう思うと身がすくんだ。
が人間に戻ることすら、平然と邪魔をしてくる可能性は充分にあり得るのだ。
の希望を潰すような真似だけはしたくなかった。
ほんの一瞬のうちに、棘の頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。ほら見ろと言わんばかりに鼻を鳴らした真希に、たったの一言も言い返せない悔しさだけが募った。
ずっしりと重い空気を裂いたのは、憂太の優しい声音だった。
「真希さんはああ言ってるけど、僕は応援するよ」
棘の顔に驚きが浮かんだ。憂太の言葉に真希が苛立った声を上げた。
「憂太お前な」
「里香ちゃんも呪いだった。でも僕は大好きだったし、今でも大好きだ」
きっぱりと言い切ると、憂太が真希に体を向けた。言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
「やめろって言われてやめられるくらいなら、最初から好きになってないと思う。その子を好きだっていう気持ちは狗巻君だけの物だ。そこについてくる色々な問題はこれから狗巻君が考えていけばいい。それは狗巻君自身が一番よくわかっているはずだろ。僕達がとやかく言うことじゃないし、言ってどうにかなるならそもそも本気じゃないよ」
憂太はそこで言葉を切った。まっすぐに棘を見つめた。何かを確認するような目だった。棘は憂太に応えるように、真剣な眼差しを返した。
「本気なんだよね?」
憂太の問いかけに、棘は即座に頷いた。考える時間など必要なかった。
「好きで好きでどうしようもないんだよね?」
再び深く頷いた。好きだと自覚してからそれほど時間は経っていないが、この感情は一秒ごとに大きくなっている。一過性の気の迷いではなかった。心の奥深くで確かに根づいた感情だった。
「その感情を後ろめたいって思う?“呪い”の彼女を好きになったことを後悔してる?」
「おかか!」
棘は声を上げて否定した。腹の底から出た声に自分でも驚いてしまった。
すると憂太が小さく笑いながら肩をすくめた。同意を求めるように。
「――だって、真希さん」
真希はふいっと顔を逸らした。ずっと黙っていたパンダが急に笑い声を漏らした。
「憂太と棘で“彼女は呪霊同盟”結成だな」
「え、何それ。狗巻君、まだ付き合ってもないのに」
「突っ込む所はそこじゃねえだろ」
憂太の気の抜けるような言葉に、真希が大きなため息を吐き出した。棘は真希の机に近づいた。真希は一瞬だけ棘を目でなぞった後、またすぐに目を背けて、窓の外に広がる晴れた空をじっと見つめた。
棘は真希にも認めてほしかった。大切な仲間に反対されたからといって
を諦められるわけもないが、できることなら受け入れてほしかった。棘の
に対する感情をそうあるものなのだと、ただ受け止めてほしいだけだった。
「明太子」
「……棘の気持ちはわかったよ」
「明太子!」
「ああもう!わかったって言ってんだろ!」
ひどく苛立った声がして、棘の肩がびくっと震えた。そう言われたものの、真希が心から納得してくれたような感じはしなかった。
棘が何とか理解してもらおうと言葉を重ねようとしたとき、真希が小さく吐き捨てた。
「下らねえこと言ってくる奴がいたら連れてこい。全員ぶっ殺してやるから」
窓の外を見つめたままの真希に、棘は頷いてみせた。真希がいてくれるなら心強いなと思いながら。
ふと思い出したように、憂太が言った。
「ねえ、これってもう付き合わなきゃ駄目な流れになってない?」
パンダと棘は互いに顔を見合わせて、あんぐりと口を開けた。
「そうしたの憂太だぞ」
「しゃけしゃけ」
「え、僕?!」
どう考えても憂太が焚きつけたせいだった。
と付き合っている自分がうまく想像できずに棘が渋い顔をしていたら、パンダが考え込むように首を傾げた。
「脈アリか?」
「おかか」
「彼氏は?」
「おかか」
「男慣れしてそうか?」
「……しゃけ」
ずんと重い空気が教室を満たした。真希から厳しい言葉を投げつけられたときよりも重い空気だった。パンダと憂太から向けられる同情の目線に、棘は途端に居心地が悪くなった。
しばらく黙っていた真希が、パンダに鼻先を向けた。
「棘とはタイプが違いすぎるぞ、アイツ」
「そうなの?まさか不良少女?」
「逆だ。しかもスクールカースト上位だよ。恋も勉強も部活も全力で頑張ってます、毎日がキラキラしていて楽しいですって感じの」
「なんでそんな真逆の子に初恋を捧げちゃうのかなあ!棘の馬鹿っ!」
叫びながら両手で頭を抱えたパンダが、ややあって顔を上げた。大きく頷くと、腕まくりをするような仕草をした。
「よし、ここは俺が一肌脱いでやる」
しらっとした表情で真希が呟いた。
「脱いでもその下は綿しかねえだろ」
即座にパンダが片足を大きく踏みつけた。重量感のある音が教室いっぱいに鳴り響いた。
「うわっ!うっわ!何その発言!傷ついた、すっごい傷ついた!そういう発言は人としてどうかと思うぞ真希!」
「人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死ね」
「応援だっつーの!ついさっきまで反対してた奴に言われたかないね!」
パンダと真希の応酬に、憂太と棘は勢いよく吹き出した。棘は声が漏れないように笑うので必死だったし、憂太に至っては体を折ってひいひい笑っていた。パンダと真希もつられるように笑った。
四人がひとしきり笑った頃合いで、扉の外から五条の声が聞こえてきた。
「はーい、二年生諸君。可愛い転入生を連れてきたよ!」
慌てて席に着こうとした棘の肩を、憂太が掴んでいた。
「狗巻君は、今日から僕の席に座って」
言い終えるや否や、憂太は棘の席に座った。棘の本来の席は前列で、真希の左隣だった。憂太の席は後列だった。ちなみにパンダの席は前列で真希の右隣だ。
言われるがままに棘は憂太の席に座って、そこでやっと気がついた。振り返った憂太が笑った。
「たくさん話せるでしょ?」
誰も使っていない机と椅子が、棘のちょうど左隣に並んでいた。
あんなに静かだった心臓が大きく跳ねたのがわかった。どくどくと音を立てて血液を循環させ始めた。体温が上がっていくような気がして、顔を深く制服に埋めた。
勿体ぶるように扉が開かれた。緩慢な動きで教室に入ってきた五条に続いて、
がとうとう現れた。
は呪術高専のものらしき制服を着ていた。確信が持てないのは、
が黒い制服の上からカーディガンを羽織っているせいだった。
だぼっとしたグレーのカーディガンは裾も長く、丈の短い黒のプリーツスカートが見えている面積は僅かだった。そこから伸びる白い太ももに、膝下丈の黒いソックス。黒の革靴は新品らしく、艶々と輝いていた。
誰もが思い描く女子高生を体現した
に、棘の呼吸が止まった。
暴力だと思った。慌てふためくしかなかった。目の前の現実を受け入れるための時間がもっと欲しいとすら思った。
顔に熱が集まっていく気配を感じたとき、五条とばっちり目が合ってしまった。五条が意地の悪い笑みを浮かべていた。
そういうことかと合点がいった。
が最も可愛く映る制服を選んだのだろう。棘のためではなく、狼狽する棘を見たいがために。
が真希に目をやって、小さな声で囁いた。
「制服、結構可愛いよ」
嬉しそうにはにかんで、真希に対して小さく手を振った。カーディガンのサイズが大きすぎるのか、袖から見えている手は半分以上隠れていた。
教科書通りのあざとさだとわかっていても、棘の理性はぶんぶんと揺さぶられた。面白いくらいに五条の術中に嵌っていた。悔しいのか嬉しいのかわからないくらい、棘の感情は複雑なものと化していた。
「これはダメージがでかい……」
と、パンダがしみじみ呟いた。うるさいと思いながら
から視線を外そうとした瞬間、
と視線が交わってしまった。
は棘に柔らかな笑みを向けた。胸が一気に締めつけられていく。棘は思わず顔を背けて、耳元でうるさく鳴り響く鼓動を静めようとした。
告白だとか付き合うだとか、それ以前の問題だった。こんな状態でうまく話せるのだろうか。挙動不審にならなければいいが、あまり自信はなかった。
棘は深呼吸を繰り返しながら、
の自己紹介に耳を傾けようと必死で努めた。
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