自覚

 紙の捲れる乾いた音とペンの走る小さな音だけが、不規則に響いていた。

 呪術高専の資料室は校舎のすぐ隣にあって、貴重な文献が数多く保管されていることから、そのセキュリティはとても厳重なものだった。

 誰しもが中に入れるわけではなかった。現にわたしが入室許可をもらうまでには十日も必要とした。書いた用紙はたった一枚の小さな紙きれだったが、紙は五枚になって戻ってきた。入室許可証と資料室の案内、それから書物の取り扱いについての注意事項が記された用紙。五条先生からクリアファイルごと手渡された。

 資料室には古い紙と墨の匂いが充満していた。入口に屈強な男性警備員が一人いたくらいで、放課後だというのに中には司書も生徒も呪術師もいなかった。

 所狭しと並ぶ本棚には、呪術に関する書物がみっちりと詰め込まれていた。日本だけではなく世界各地の呪術にまつわる本が置かれていたし、日本の歴史や民俗学のコーナーもとても充実していた。

 蔵書数は非常に豊富で、これだけの資料があるなら何かしらの情報が得られそうだと思った。

 資料室の書物は全てコピー禁止だった。写真を撮ることも禁じられていた。わたしはノートに気になった情報を渋々書き写していた。面倒だったが仕方なかった。ルールは守らなければならない。

 イザナミさんが暮らしていた山、つまりわたしが迷い込んでしまったあの山のことは、すぐに見つけることができた。

「日本各地の“呪い”……しかも現在進行形で僕らの監視下に置かれている“呪い”をまとめた一覧表があるから、そこから辿ってみたらどうかな」

 五条先生のアドバイスのおかげだった。

 一覧表には名前の付いている呪いも数多く存在したが、イザナミさんは名を付けられていなかった。名称欄は空白だった。彼女の棲む山はやはり近畿に存在していた。その山の名を突き止めると、今度は民俗学のコーナーでその地方の文献を片っ端から調べた。

 わたしは探し当てることができた。あの山の歴史も、“ちぎり祭り”のことも。けれど、欲しい情報はどこにもなかった。

 そもそも“ちぎり祭り”の内容が大きく変わっていた。一年に一度、選ばれた村の若い娘が神と契るために髪を千切って奉納する祭りだと記されていた。千切られるのは手足ではなかったし、着物が赤く染まることも神様に連れていかれることも書かれていなかった。

 情報が新しいのかもしれないと思った。本の最後のページに印字された出版年月日は比較的最近のものだった。もっと古い文献を調べてみようと民俗学のコーナーに再び移動した。

 わたしは明治以前に書かれたらしい資料を見つけた。胸を高鳴らせつつその場で開き、絶句してしまった。

「読めない……」

 文字が達筆すぎるのだ。書道を習っていたわけでもないわたしには、読むことすら難しかった。これは解読から始めなければならないだろう。眩暈がしそうになっていたら、後ろから声をかけられた。

「こんぶ」

 狗巻くんが立っていた。わたしは瞬きを繰り返した。

 二年生は午後からペアでの呪術実習だった。狗巻くんと乙骨くん、真希ちゃんとパンダ君のペアで実習に向かった。わたしはたった一人で高専に残って、ずっとこの資料室にいた。今のわたしには何もできないから。

「おかえり、お疲れ様。どうだった?」
「ツナマヨ」

 上手くいったことを示すように、狗巻くんが頷いた。しかし彼の纏う空気は朝よりも気だるげだったし、表情にもどこか疲れが現れていた。口にはしないだけで、きっと大変な実習だったのだろう。

 わたしは訊いた。

「どうしてここに?」
「すじこ」
「手伝ってくれるの?」
「しゃけ」

 狗巻くんは首肯したが、わたしは顔の前で何度も手を振った。断るためだった。

「さすがに悪いよ。今日は疲れただろうし、部屋でゆっくり休んで?」
「おかか」
「えっと……それじゃあ、明日お願いしてもいい?」
「しゃけ。おかか。こんぶ」

 その言葉にわたしは眉間に皺を寄せた。わたしの解釈が正しければ、どうやら狗巻くんは今日も明日も手伝うつもりでいるらしい。

 彼はすでにわたしが開いたままの本に、薄茶色の視線を送っていた。わたしは咄嗟に本を閉じた。巻き込みたくない気持ちが強くて。

「でも、迷惑になるし」
「おかか」
「狗巻くんだって、他に何かしたいこととか」
「明太子」

 狗巻くんが本を指差した。とても真剣な顔をしていた。自分のしたいことはヒントを探すことだと、言葉以上にその表情が物語っていた。

 それでもわたしは頷けなかった。呪術高専に来て十日が経過したが、何かと狗巻くんに世話になり続けている。本人はそれでいいと言うし、真希ちゃん達も狗巻くんを頼れと口酸っぱく言う。しかし申し訳ない気持ちは積み重なる一方だった。これ以上迷惑はかけたくなかった。

「解読から始めないといけないんだよ?」

 早く諦めてほしくて、蚯蚓が走ったような文字ばかりが並ぶ本を開いて見せた。すると狗巻くんが薄っすらと笑った。自分の胸を手で軽く叩きながら。

「ツナマヨ」
「もしかして、読めるの?」
「しゃけ」

 すぐには答えられなかった。解読の手間と狗巻くんへの申し訳ない気持ちを天秤にかける必要があったから。

 天秤は大きく揺れて、すぐに一方に傾いた。わたしは手に持っていた本を、狗巻くんにそうっと差し出した。

「よろしくお願いします」
「しゃけ!」

 任せておけと言うように、狗巻くんが本を受け取って机に向かった。わたしの隣の席に座って、渡された本を読み始めた。

 わたしは読めそうな書物を探し出すと、再びペンを片手にページを捲る作業に戻った。

 互いに無言だった。時々わたしが意見を求めたり、狗巻くんが情報を教えてくれたりするくらいで。とても静かだったが、その静寂は決して嫌なものではなかった。むしろ心地いいとすら思うほどだった。穏やかで柔らかな空気が資料室に流れていた。

 先に読み終わったのは、わたしのほうだった。

「目ぼしい情報はなかったよ。次の本、取ってくるね」
「しゃけ」

 立ち上がって、読み終えた本を元の場所に戻した。

 次の資料を探して本棚の上から順番に目を滑らせていたとき、ふと気になる書籍を見つけた。とても分厚いその背表紙には“贄の歴史”と書かれていた。

 わたしは腕を伸ばしてみたが、なかなか手が届かなかった。つま先立ちになると、指の腹が本の端に引っかかった。もう少し頑張れば取り出せそうだった。

 つま先に力を入れて、膝をぐっと伸ばした。右腕を思い切り高く掲げた。本の背表紙に指が確かに触れて、わたしはより背伸びをした。

 そのまま本を引っ張り出そうとしたとき、突然つま先が揺れた。体のバランスが大きく崩れ、伸ばしていた指が中途半端に滑った。重量感のある赤い本が、本棚から抜け落ちるのが見えた。

 当たると思った。わたしが咄嗟にきつく目を閉じたのと、後ろから抱きすくめられる感覚がしたのは、ほぼ同時だった。

 本が何かにぶつかる鈍い音が二回した。耳元から小さく呻く声が聞こえて、はっとなった。目を開くと、足元に本が広がって落ちていた。腹に回された腕は、狗巻くんのものだった。

 わたしは首をひねった。狗巻くんが顔を深く伏せていた。猫背になるくらいに。わたしの肩に砥粉色の前髪が触れているが、じっとしたままで動かなかった。

 慌てて無事を確認した。

「だ、大丈夫?」
「……しゃけ」

 低く唸るような声だった。落下した書籍の背表紙の幅は、五センチを優に超えていた。この高さから落ちてきたのだから、相当な痛みを受けているはずだった。

 わたしは謝罪と感謝を繰り返す他なかった。

「ごめん。ごめんね。庇ってくれてありがとう」
「おかか……」

 痛みが尾を引いているのか、狗巻くんはわたしを腕の中に閉じ込めたまま、しばらく俯いていた。

 狗巻くんの腕の力が緩くなった瞬間、わたしはその腕を両手で掴んでいた。腰から離れていかないように、強く。

 息を吐きながら彼に尋ねた。

「どうしてそんなに優しくしてくれるの?」

 狗巻くんが息を呑んだような気がした。わたしは本音を引き出すために、すぐに質問を続けた。抑揚のない声で畳み掛けた。

「わたしを助けられなかったから?死刑を認めてしまった罪悪感のせい?それとも、五条先生にそうしろって言われたの?」
「おかか」
「嘘なんてつかなくていいよ」
「おかか!」

 否定を重ねた狗巻くんが、腕に力を入れたり抜いたりを繰り返した。何かを迷ってるようだった。

 しかし、数秒後にはその迷いは晴れていた。わたしをきつく抱きしめたのだ。落ちてくる本から庇ったときよりも強く、それでいて優しく。

「……おかか」

 すぐ耳元で聞こえた声は、ひどく掠れていた。腹から必死に振り絞ったような声だった。

「じゃあそれって……」

 その先は言葉にならなかった。狗巻くんの腕の力が弱くなった隙を見て、わたしは逃れるように体をひねった。彼から数歩離れると、体ごと振り返った。

 狗巻くんは苦しそうな顔をわたしに向けていた。剥き出しの感情を向けていた。他の誰でもないわたしに。意味するところがわかって、顔に熱が集中するのを感じた。

 わたしはすぐに目を伏せて、無理に笑みを作った。

「女の子相手に軽々しくこういうことしちゃ駄目だよ。勘違いするから」

 必死で平静を装った。明るい声に聞こえるよう、腹に力を入れて言葉を続けた。

「本当にびっくりしたんだからね。狗巻くんのこと、うっかり好きになっちゃうところだったよ」

 手をうちわのようにして、ぱたぱたと顔をあおいだ。集まった熱を下げたくて。

「五条先生はわたしのことを悪い女って言ったけど、狗巻くんも負けてないよね。わたしよりもうんと質が悪いよ?そんな手には引っかからないし、他の女の子だって」
「ツナ!」

 狗巻くんが言葉を強く遮った。熱を帯びた瞳がわたしを貫いていた。逃げられないことを悟ったわたしは、気持ちを示すように肩をすくめた。

「わたしは乙骨くんみたいに強くなれない。好きな人の迷惑にはなりたくないの。呪いのままで、呪術師を好きになれると思う?」

 問いかけると、狗巻くんは静かに目を落とした。

 これで彼がわたしに優しくすることは二度とないだろうと思った。寂しさとは違う鋭利な痛みが体の内側に広がって、わたしは下唇を軽く噛んだ。わたしの判断は正しかったのだと言い聞かせながら。

 居心地の悪い沈黙は、そう長く続かなかった。狗巻くんがぱっと顔を上げたから。

 狗巻くんは落ちたままの分厚い本を素早く拾い上げると、何も言わず机に戻ってしまった。

 あまりのことに、わたしは手で口を覆った。そうでもしないと、込み上げた感情が声になって溢れてしまいそうだった。しかし、すでに手のひらの下では口角がぐっと持ち上がっていた。誤魔化しのきかない感情が、体を支配しようとしていた。

 黙々とページを目でなぞる狗巻くんの表情には、いつもの気だるさはなかった。胸が圧迫されていった。極上の甘さを含んだ苦しみが、手足の末端にまで広がっていった。

 狗巻くんの下した結論は、わたしを諦めることではなかった。むしろ、その逆だった。わたしの言葉を受け止めた上での決意だった。

 なんて可愛い人なんだろうと思ってしまった。わたしは小さく肩を震わせた。もう後戻りできないところに立っている。ここからは真っ逆さまに落ちていくだけだった。

 文字と向かい合う真剣な眼差しをしばらく遠目から見つめた後、わたしは適当な本を手に取り、何食わぬ顔で椅子に座り直した。

 狗巻くんはわたしに目をやると、文字の並んだページの一部分を指で示した。

「こんぶ」
「えっと、どれ?」

 わたしは体を寄せて、本を覗き込んだ。わざと必要以上に距離を詰めて。軽く肩が触れて、狗巻くんの体が少しだけ強張ったのがわかった。嘘のない感情を感じた。たったそれだけがくすぐったくて、嬉しくて、幸せで、たまらなくなった。

「“贄”の選定方法はその土地によって様々であり――」

 感情を押し込めて、わたしは淡々と読み上げた。狗巻くんの指がわたしの声に沿って次の文字を踏んでいく。

 一文が終わっても、彼の骨張った指は次の文字を示し続けた。こうしていたいのは狗巻くんも同じなのだとわかって、わたしはにやついた笑みを噛み殺しながら音読し続けた。

 内容など、ちっとも頭に入って来なかった。


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