間奏
狗巻棘がそこから無事に出られたのは、ほとんど奇跡のようなものだった。
と名乗った少女と別れた途端、棘の視界は一変していた。瞬きをした一瞬にも満たぬうちに。
棘は
と出会った場所で棒立ちになっていた。棘の目と鼻の先に黒い幕が降りている。舞台の緞帳のように重たく降りた分厚い闇は、山の景色をすっかり覆い隠していた。
それは“帳”と呼ばれる呪術師や呪詛師が使う結界だった。ほんの少し前までその中にいた棘には、“帳”のどこかに呪詛師がいるような気配は感じ取れなかった。
気づかなかっただけでどこかにいたのだろうか。棘はそう思いながら、“帳”に手を伸ばした。電気が走るようにバチッと激しく弾かれる。遅れて襲った鋭い痛みは手を握りしめることで誤魔化した。
棘が望んで外へ出たわけではない。つまり、追い出されたのだ。
“帳”を展開している敵の狙いは
たった一人であり、棘は眼中になどなかった。無傷で追い出しても何の影響もないと判断されるほどに。
――あんたとちゃう。あんたはいらん。
しわがれた声を思い出しながら、棘は急いで連絡をした。まずはここまで棘を送り届けた上で仕事内容を説明した補助監督に。それからこういうときだけは誰よりも頼りになる男に。
その男はすぐにやってきた。黒いアイマスクを着けた銀髪の男だった。遠目からでもわかるくらい縦に体が長いのに、不思議なほど威圧感がなかった。男から漏れ出している軽薄さのせいかもしれない。
やってくるなり、男は漆黒に塗り潰された山の奥を射るように見つめた。
「自動展開式だね」
自他共に認める呪術師最強の男――五条悟は飄々とした口振りでそう言った。
「条件が揃うと勝手に発動するんだ。“帳”も“領域”も両方ね。遠隔操作みたいなものかな」
「すじこ」
「うん。相当腕の立つ呪詛師が絡んでると思っていい。と言っても、この“呪い”の年季と規模を考えると、そんな奴たったひとりしかいないんだけど」
五条は棘に鼻先を向けた。棘の無事を確かめるように顔を上下させると、口元に笑みを結んだ。
「五体満足で出られたのは幸運以外の何物でもないよ。いやあ、死ななくてよかったね!」
この男に言われずとも、それはよくわかっていた。
相手は圧倒的な力で棘を捻じ伏せてきた。呪術自体の得体の知れなさもそうだが、そもそもの呪力量が棘とは比べ物にならなかった。いくら攻撃しても呪力はまったく減っていなかった。むしろ湯水のように沸き続けていた。そこに底があるのか疑問が浮かぶほどだった。
「それで?この百年間だんまりだった子がいきなり起きた理由は?」
寝た子を起こした理由を訊かれた棘は、自分に任された仕事について思い返していた。
呪言師である棘が依頼された仕事は調査だった。千年前からこの山奥の地に住み着いている“呪い”に何か変化がないかを調べる仕事だった。呪力に乱れはないか、規模は大きくなっていないかなどといった、百に近い項目が並んだチェックリストに従って調査を行う簡単な仕事だった。
それは簡単だが、非常に危険な仕事でもあった。
長い年月をかけて膨れあがったこの“呪い”は、腕の立つ呪術師が束になっても祓えない代物になっていた。その呪力も規模も桁違いだった。“呪い”としては最高クラスの“特級”に振り分けられるほどに。
とはいえ、この“呪い”は百年もの間ずっと沈黙を貫いていた。ただそこに在るだけだった。だから呪術師ができることは見張ることだけだった。現状この“呪い”に対しては二十四時間の監視体制が敷かれている。
非常に危険だが大人しい。だからこそ特級術師でもない棘が調査を行うことになったのだ。
棘は“帳”を見つめた。棘は“呪い”に攻撃をしたわけでも、挑発したわけでもなかった。
「ツナマヨ」
「女の子が現れた?……ってことは、中で行われてるのはやっぱり“ちぎり祭り”なの?」
「しゃけ」
「儀式を行うだけの“領域”か。厄介だな。目的が明確な分、完遂するまで止まらないだろうね。こちらが入り込む隙がない」
顎を擦りながら五条は言った。
「こういう土着信仰の呪いって本当にタチが悪いよね。簡単に祓えないんだから」
「こんぶ……明太子」
「ああ、その女の子が呼び水になったんだ。きっと供物にでもするつもりなんだろう。こういう呪いは子供や若い女の子を好むものだから仕方ないよ。久しぶりの食事で張り切ってるんじゃない?」
羽よりも軽い口調に棘が顔をしかめる。五条は肩をすくめると、楽しそうに笑った。
「にしても、どうしてこんな山奥に現れたんだろう。完全立入禁止なのにね?」
のことを指していた。棘は記憶を遡った。あれは突然のことだった。急に草木をかきわける音がして、棘の目の前に
がひょっこりと現れた。何の気配もしなかった。五条がたまに使う“移動”のように、一瞬でそこに現れたのだ。
「呪いは見えるの?」
「おかか」
「一般人がどうやってここまで来たのかな?呪術師の監視をかいくぐって」
「こんぶ」
「呼ばれた?……呪いに?」
棘が頷くと、五条はますます笑みを深くした。
「……呼ばれた、ねえ」
「おかか!」
悠長に話す五条に、棘はとうとう痺れを切らした。長話がしたくて五条を呼び出したわけではなかった。しかし五条は飄々とした態度を崩さなかった。
「わかってるわかってる。可愛い生徒の頼みだからこそ、生徒思いのナイスガイであるこの僕がここに来たんじゃないか」
「おかかっ」
「せっかちだなあ。だってもう儀式は始まってるんだよ。それでもここを破りたいの?リスクを冒す必要なんてある?結果は変わらないのに」
問い詰められて、棘は答えに窮した。
今あの“帳”の中で、“領域”の中で行われているのは、れっきとした“儀式”だ。呪いを積み重ねるため、いくつもの難解な手順を踏んだ“儀式”だ。
はもう捕まってしまった。儀式の歯車にされてしまった。
それがどういう意味を持つのか棘は理解していた。呪言師としてそういう場面はいくつも見てきたからだ。
脳裏に
の笑顔が浮かんだ。棘は五条を見据えて深く頷いた。
「しゃけ」
「そう。棘も男だね。それとも男になったのかな?」
「おかか!」
「はいはい。それじゃ、骸だけでも取り返そっか」
もう時間がなかった。
はこのまま呪いに取り込まれるだろう。そうなれば死体どころか髪の毛一本すらも残らない。それでは浮かばれないと思った。
ほんの少し一緒にいただけだった。
棘が普通の人と同じような会話ができないことに、
はいきり立っていた。当然だと思った。
は説明を求めているのに、棘は意味の持たない単語しか返せなかったから。
棘自身も
に応えられず歯痒かったが、
を混乱させているのは自分のせいだという思いが強かった。
どうやって説明するべきかと思案していたら、すぐに謝罪の声が聞こえてきて棘は心底驚いた。事情を汲んで謝罪してくれたのだ。それどころか棘が答えやすいよう、
は言葉を選んでくれるようになった。
棘は
のその心の在りようにとても温かい気持ちを抱いたし、何とかしてこの子を逃がしてやりたいと思ったのだ。
幼子に襲われたとき、棘の腕の中で
はガタガタと震えていた。あの様子では今まで呪いを見聞きしたことなどなかったのだろう。いきなり訳のわからない事態に巻き込まれ、容赦なく襲われ、逃げることを余儀なくされたのだから仕方あるまい。
とても怖かったはずだ。何度も涙が溢れるほどに。
それでも
は棘を逃がしたのだ。捕まればどうなるかわかっていながら。
繋いだ手のぬくもりが蘇ったような気がして、空っぽになった手を強く握りしめた。
は棘のことを信じていた。棘と一緒なら逃げられると思っていた。それを裏切ってしまった後悔が、今も棘の心に深く穿たれている。
せめて骨だけでも回収して、家族のところへ帰してやりたかった。
「お咎めは受けるだろうから、棘はうまい言い訳でも考えておいて」
そう言いながら五条は難なく“帳”を破って山奥へと進んでいく。その大きな背中を棘は駆け足で追いかけていった。
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