失敗
「――動くな」
その声が鼓膜を強く叩いたのは、わたしが目蓋をきつく閉じたときだった。勢いよく振り下ろされる鈍色の鉈が、わたしの腕の付け根を裂くところなんて見たくなくて。
暗闇の中でわたしは耳を疑った。また幻聴を聞いたのかと思った。その声は本来ここに響くはずのないものだったから。
こわごわと目蓋を開けば、老婆の時間は止まっていた。彼女が振り下ろそうとした鉈は、空中に縫いつけられたかのようにピタリと停止していた。動くとはいったい何なのか、老婆の筋肉はそれ自体をすっかり忘れてしまっているようだった。
静止しているのは老婆だけではなかった。わたしの手足を引き千切らんとしていた男たちまでもがその動きを止めていた。
それはあまりに一瞬のことだったから、時間そのものが止まってしまったのかと錯覚した。しかしすぐに激しく咳き込む声が続いて、わたしの目尻はみるみるうちに湿り気を帯びていった。
彼の声はその場にいるほとんど全てから、ことごとく動きを奪っていた。誰も命令に背くことは許されていなかった。まるで響いたその声と脳からの電気信号とがすり替わっているようだった。
たった一言。そのたった一言が場を支配していた。
止まったままの老婆の背後から、ぬっと人影が現れる。
彼ではなかった。黒の目隠しをした、やけに背の高い男だった。男は瞬く間に彼女の手首をひねり上げて鉈を奪い取ると、それをぽいっと後ろに放り投げた。鉈は大きく弧を描いて遥か後方へと飛んでいった。
「はーい、大人しくしてねー」
緊迫したこの場には似合わない飄々とした口調だった。老婆を拘束したその男に目をやると、彼は空いている左手の人差し指を天井に向ける。
歯を見せて笑う男の指先を追うように視線を上げれば、わたしの顔にふっと影が落ちてきた。
狗巻くんがわたしの顔を覗き込んでいた。どうやら男とは反対の方向からわたしに近づいていたらしい。
血に染まった唇が小さく震えた。
「……だ、い……じょう、ぶ?」
がらがらのだみ声だった。全ての音に濁点でも付いていそうなほど濁っていて、少し聞き取りにくいほどだった。落ち着いた元の影はどこにもない。たとえカラオケで丸一日歌い続けたとしてもそうはならないだろう。
わたしは笑った。呆れていた。それと同時に嬉しくてどうしようもなかった。体を襲う焼けるような鈍痛がかすかに和らいだような気がした。溢れた涙が目元をたっぷり濡らしていく。
「狗巻くんこそ」
そう言うと、狗巻くんは小さく笑った。
その瞬間、獣が唸るような低い音が轟いた。それが地鳴りだと気づいたときには洞窟全体が大きく揺れ始めていた。
壁の至るところから土煙が舞って、わたしは目を瞠る。狗巻くんの纏う空気が緊張感に満ちたものに変わった。
何かが倒れる音がした。縄を掴んでいた大勢が、次々と吐血し、目を剥き、揺れる地面の上に重なるように倒れていった。穴という穴から真っ赤な血を吹き出しながら。
スプラッター映画さながらの光景に、全身の体毛がぶわっと逆立った。遅れて吐き気が胸の辺りで渦巻いて、わたしは息を飲み込むことで何とか堪えきった。
わたしの手足を引っぱる力が忽然と消える。太い縄が緩くたわんだ。
「こんぶ!」
狗巻くんが縄の結び目に指を引っかけた。わたしの手首から縄を解こうとする。しかしそう簡単にほどけない結び方になっているらしく、彼の表情にわずかな焦りが浮かんだ。
一方、狗巻くんとともに現れた長身の男の空気はさして変わらない。辺りの様子が一変したことに特に動揺する素振りも見せず、男は老婆の手首をより強くひねり上げていた。
「何の真似かな?大人しくしてって言ったはずだけど」
「お前には関係ないやろ、五条悟」
老婆の口から飛び出したのは、しゃがれた男の声だった。
五条と呼ばれた男の口端が上がる。軽薄さの拭えない笑みだった。胡散臭そうな人だなと思いながら、二人の会話に耳を傾ける。
「おっ。何、僕のこと知ってんの?いやあ、君みたいに年季の入った呪いにも知ってもらえてるなんて光栄だね」
「知らん奴なんかおらんわ」
忌々しげに老婆が吐き捨てると、五条さんはわざとらしく肩をすくめた。白々しい態度に苛立ったのだろう、老婆は彼の足を勢いよく踏みつけようとしたものの、するりと呆気なく躱されてしまった。
「お前がでしゃばるような案件ちゃうやろ。さっさと帰れ」
「残念だけどそれはできない相談だ。そこの呪言師、僕の可愛い生徒でさ。追い回してくれたお礼はたっぷりしなくちゃと思って」
その言葉に老婆が狗巻くんを見つめた。激しく煮立った憎悪の瞳だった。両腕の拘束を解き終えた彼は老婆と視線を交わすなり、ぎろりと強く睨み返した。
「おかか!」
牽制するような声だった。その単語自体はちっとも怖くないのに、猛獣の威嚇かと思うほど怒気も殺意も溢れていた。
狗巻くんはすぐにわたしの足のほうへ移動して、縄をほどく作業に戻る。老婆から大きな舌打ちが聞こえた。
「お前の手のモンやったんか。さっさと殺せばよかったわ」
「殺さなかった理由は?」
「はあ?」
「わざと見逃した理由だよ。詰めが甘い、ってわけじゃなさそうだけど?」
彼女の瞳から憎悪がすうっと引いていった。代わりに顔を出したのは憐憫だった。
「可哀想やろ」
「それって誰が?」
老婆は何も答えなかった。ただわたしを軽く一瞥した後、「もう寝る」とだけ呟いた。
「僕と戦ってくれないわけ?」
「何もええことないしな。お前と戦うんは己の度量もわかっとらん奴だけや」
「君そこまで弱くないでしょ」
「阿呆抜かせ」
揺れはますます激しさを増した。天井から細かい石がパラパラと落ちてくる。いつ壁が崩れてきても、天井が落ちてきても、何らおかしくなさそうな雰囲気だった。
逃げなければ。そう思うものの肩の関節は両方外れていた。手首もガクガクしている。痛みに顔をしかめながら、わたしは腹筋を使って体をゆっくり起こした。
狗巻くんが小さく頷いた。あとは左足首の縄だけだった。
きつく締まった結び目と格闘する彼を待っているのだろう、五条さんは慌てる様子もなく老婆と会話を続けていた。
「挑発には乗ってくれない、と。聡明……いや、狡猾かな。まあそうでもないとここまでの呪いにはなれないか」
「せっかくここまで長生きしたんや。せめてお前ら呪術師がおらんようになるまで、しぶとく生き永らえたるわ」
「そう。せいぜい頑張ってよ、祓われないようにさ」
どうでもよさそうに言い切った五条さんが、ようやく狗巻くんに鼻先を向けた。
「棘、行こう。タイムリミットだ」
「しゃけ」
するりと左足の縄がほどけた。足を動かそうとしたものの、激痛が走ってわたしは呻いた。歯を食いしばって足を上げようとした。股関節も外れていることを察した狗巻くんが、わたしを抱きかかえようと腕を伸ばして、
「まあ、せやけど、悪いなあ……」
深謝する小さな声が耳に届いて、わたしはそちらに目を向けた。老婆と深く視線が絡んだ途端、彼女はダンッと右足を大きく踏み鳴らした。
「その子だけは連れていくで」
次の瞬間、わたしの体の支えがたちどころに消失した。
「えっ」
祭壇が抜け落ちたのだと察したのは、体が落下し始めた直後だった。
逃がさない気だ。やっぱりわたしはこのまま殺されるのだ。乾いた涙が再びにじんだ。
わたしを囲んでいるのは闇だった。何もなかった。ただ静かで寂しかった。わたしの視線の先だけが丸く切り抜かれていて、そこだけ確かに色を持っていた。橙色の灯りを淡く感じる。
キーンと頭が割れるような激しい耳鳴りがして、目蓋を閉じて力を入れようとして、
「
!」
はっとした。目を開ければ、穴からこちらを覗き込むように、狗巻くんがその身を乗り出していた。
「
!」
狗巻くんがわたしに向かって手を伸ばしている。わたしも手を伸ばしたかった。けれど関節が抜けた腕はまるで言うことを聞かなかった。
丸かった視界が徐々に小さく収束していく。狗巻くんが見えなくなって、「ああ」と喉から呟く声が漏れた。
橙の光が粒になる。一番星のようだと思った。
きらりと光る小さな星から声が降ってきた。狗巻くんの切迫した声だった。
「――逝くな」
彼の声は骨の髄にまでうわんと響いたような気がした。
――狗巻くん。
途端に星が消滅する。視界が黒に塗り潰されて、目蓋の重みに耐えられなくなった。深い眠りに誘われるように、わたしの手から意識がこぼれ落ちていった。
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