伊地知潔高の誓い
獣の唸り声めいたスマホの振動音が響く中、ソファに腰掛けた
さんは真剣な面持ちで読書に耽っている。
私の恋人である
さんは、いつだって自分の読みたい本を読まない。“自分の嗜好から外れたものを読むのが読書の醍醐味だ”と言うものだから、
さんが読む本は全て私がネットの通販サイトで購入している。
とはいえ、それがどれほど大変かを本人は知る由もないだろう。何せ
さんは見切りを付けるのが人一倍早い。つまらない本など渡した日には、その本と一緒に私も捨てられるかもしれない。否、確実に捨てられるだろう。そう思うと、通販サイトやSNSに溢れる感想のひとつひとつに噛り付いてしまうのも無理もない話だ。
さんは深海生物の謎に迫る分厚い本に目を落とす。傍らに置いたスマホの着信には気づいていないのか、低い振動音が規則的なリズムで響き続けていた。
入浴を終えたばかりの私は、黒のスマホに視線を送った。
「電話、出ないんですか」
「うん」
それはひどく淡白な返答だった。面倒臭いときの
さんの態度そのもので、着信の主に対して何かしら思うところがあるらしいことをすぐに察する。あとは消去法だった。特別一級術師である
さんが仕事の電話を無視することはまずあり得ないし、家族や友人からのそれも同様だった。
人との縁を大切にする
さんがそんな態度を取る相手が誰かなど、とうに決まっている。あっという間に得も言われぬ不快感が肋骨の内側に滲み出し、思考がぐずぐずと黒く濁っていく。
唇を横一文字に結んだまま、嫌な男だと自分を罵ったそのとき、
さんがやや垂れ下がった頭を持ち上げた。そして私を視界の中央に置くと、悪戯っぽく笑ってみせる。
「伊地知くん、わかりやすい」
「……え」
「“なんで?誰から?”って顔してる」
噴き出した焦燥を隠すように慌てて顔を背ければ、
さんは事もなげに続けた。
「元カレだよ。ヨリ戻したいんだって」
その言葉はまるで他人事のように響いたし、
さんにとっては実際その通りだったのだろう。だからと言って、幸運に幸運が重なった結果“今カレ”の座に収まることのできただけの私が、
さんの発言を余裕たっぷりに受け止められるはずもなかった。
さんは仕事のみならず、恋愛市場でも引く手数多だ。一体何番目の元カレだとひとり悶々とする私をよそに、
さんは至極当然のように言った。
「失わなきゃわたしの価値がわからない人なんて、死んでるのと同じ」
確固たる自信に溢れた自己肯定感の高い言葉は、決して自らを鎧うものではなかった。自分の価値を、他人の価値を、一切の揺らぎを持たない尺度で量り続ける。
さんはそういう人だった。そういうところにどうしようもなく惹かれていた。
本を開いたまま、
さんはまるでこちらを揶揄するように継いだ。
「わたしね、わたしを必死に愛してくれるひとがタイプなの」
「……必死、ですか」
「そう。伊地知くんみたいにね。わたしを疎かにして手を抜くなんて言語道断。恰好悪いくらい必死になって愛してくれなきゃ。だってわたしにはそれだけの価値がある」
さんは「さすが伊地知くん。お目が高い」と茶目っぽく付け足したものの、“恰好悪いくらい必死になって”いることに触れられたのは正直気まずかった。
同棲の真似事を始めてようやく
さんとの距離感に慣れてきたとはいえ、学生時代からおよそ十年間近く片想いを募らせていた身にしてみれば、
さんとの他愛もない会話のひとつでさえひどく緊張していたのだ。それこそ舌を噛むし呂律が回らないし、自分でも何を言っているのかわからない。恋愛初心者、童貞丸出しの男の告白によく頷いてくれたものだと今でも本気で思っている。
小さな笑みを残して
さんが本へと目を戻す。独占欲めいた何かが頭をもたげていた。私は
さんを見つめたまま、緊張で掠れた声を懸命に押し出した。
「……
さんも、いつか私に必死になってくれますか?」
「ならないよ。わたし、恋愛より大切なものいっぱいあるし。仕事とか家族とか」
さんの答えは凛然としていた。落胆しないわけではなかったが、この人のそういうところが好きなのだと改めて思ってしまったのだから手に負えない。とはいえ、私にとって一生高嶺の花で在り続ける
さんの好きなタイプでいられるなら、まぁそれでも良いかとあっさり折り合いを付けてしまえるほど、私は
さんのことが好きだった。
「でも」と
さんは思い出したように付け足した。私が先を促す視線を送れば、
さんは勿体ぶるように唇を開いた。
「必死にはならないけど、伊地知くんが一番大事って公言する日はいつか来るかもね」
茶目っ気たっぷりなその言葉に心臓をぐっと掴まれる。うれしさと照れ臭さが綯い交ぜになって、気の利いた返答ひとつ返せない。脳は鼓膜が拾い上げた声音を延々と反芻し続けている。
さんは真っ赤になっているであろう私の顔に目を置いたまま、「わたしのことが心底好きで堪らないって顔してる」とひどく楽しげに笑った。恥ずかしかったけれど、それで良かった。夢のような“いつか”のために、どれだけ恰好悪くても
さんの好きなタイプで居続けようと、私は胸の内で固く誓いを立てる。
2021.4.10 お題箱より