七海建人の疑念

「前置きも面倒なので単刀直入にお訊きします。浮気していますよね?」

 残業を終えて帰宅するなり、同棲中の恋人である七海くんが霜の降りた声音でそう言った。土埃で白っぽく汚れたパンプスを脱ぐのも忘れて、わたしは玄関に立ち尽くしたまま何度も目を瞬いた。

「……えっ、誰が?」
「もちろんさんが、ですよ」

 七海くんの氷点下の口振りには冗談を言っている様子はどこにもない。そんなに冷たい目をした七海くんを見るのは初めてだった。自ずと身体が強張っていく。

「先々週の火曜、先週の木曜、そして昨日……休みなのに仕事と偽りましたよね?」
「え、ええっ?……えーっと、何かあった――あ」
「思い当たる節があったようで何よりです。男性と会っていましたよね?」
「……まあ、うん、そうなんだけど、浮気じゃないよ」

 かぶりを振って否定したものの、七海くんは氷塊を沈めた響きでそれを呆気なく切り捨てる。

「言い訳は結構です。事実だけを述べてください」
「……はい」
「男性と一緒にマンションの一室に入ったことを認めますか?」
「……認めます」
「ふたりきりで半日一緒にいたそうですね?」
「……うん。でも昨日は朝の九時からだから、もうちょっと長かったと思うよ」
「それで浮気ではないと断言する証拠は一体どこに?」

 何を浮気と定義するかは人それぞれだ。ふたりきりの食事が浮気だと言う人もいれば、心がこちらに向いている限りは何をしても浮気ではないと言う人もいる。七海くんにとってわたしの行為は間違いなく浮気なのだろう。

 七海くんは目を逸らして口を閉じると、やや間を置いてから再び唇を割った。

「このところ互いに仕事が多忙で、ふたりで出かける機会もありませんでした。帰宅時間が合わないせいで会話も少なかったですし、それに、キスもセックスも全く……さんは疲れているはずだと勝手に判断し、だからといって仕事の調整をするわけでもなく、ただあなたに寂しい思いをさせ続けた私に責任があります。本当にすみませんでした」
「……七海くん」
「こんな風に問い質しておいて何ですが、私はさんと別れるつもりは一切ありません。もう二度と寂しい思いをさせないと誓います。ですから、もし私にまだ気持ちが残っているなら、やり直す余地があるなら、この場でその相手の方に電話をして、私の目の前で別れてもらえませんか?」
「七海くん」

 話を遮るように、わたしは強い語調で名前を呼んだ。ひとりで勝手に会話を進めていた七海くんがどこか不審げに眉をひそめる。玄関で棒立ちになったまま、わたしは背の高い七海くんを見上げた。

「あのね、その前にひとつ訊きたいことがあるんだけど」
「……何ですか」
「わたしが男性と一緒にマンションに入ったって情報、どこから?」
「五条さんですよ」

 合点がいったわたしは思わず小さな笑みを漏らした。

「七海くん、わたし浮気してないよ」
「……まだ言うんですか。素直に認めて――」
「だってその男性って、先輩の――わたしがいつもお世話になってた補助監督のお子さんだよ?」
「…………はい?」
「男性には間違いないけど、まだ生まれて半年のちっちゃな赤ちゃん。たしかにふたりきりでいっぱい抱きしめたり添い寝したり、浮気になりそうなことはたくさんしたけどね?」

 ポカンとしている七海くんの顔を見つめながら、込み上げる笑みを堪えて言葉を継ぐ。

「先輩、今ちょっと育児ノイローゼになりかけてて、休みの日はわたしがベビーシッターしてるんだ。当然だけど、普通のシッターさんは呪いが見えちゃう赤ちゃんを怖がるから……ずっと黙っててごめんなさい。最近は七海くんと休みも被らないし、話す時間もなかったし、言わなくても別に良いかなって思っちゃって……」
「……つまり、私は」
「五条先輩にからかわれたんだと思う」

 言葉を引き取って頷けば、七海くんの顔から一気に血の気が失せた。目にも止まらぬ速さで踵を返すと、勢いよく寝室に飛び込んで扉を施錠する。わたしは急いで靴を脱ぎ、堅く閉じた扉に優しく話しかけた。

「七海くん、籠城は良くないよ。ちゃんと顔見て話そう?」
「お断りします。五条さんに騙されてさんを疑ったなど」
「わたしはうれしかったけどなぁ」

 間延びした声で答えれば、扉の向こうで七海くんが息を呑んだような気がした。返答がないのをいいことに、言いたいことを口にしていく。

「七海くんってもっとわたしに興味ないかと思ってたよ。だって何も言わないし、何も訊かないし」
「……興味ありますよ。あの五条さんの情報を鵜呑みにしてしまうほど、正常な判断が出来なくなるくらいには」

 扉越しに小さな声が聞こえて、わたしは口元を綻ばせる。

「訊いてくれて良かったんだよ?」
「不用意に詮索などして、さんに重いと思われるのは」
「思わないよ」

 七海くんは否定の言葉を今度は素直に受け取ってくれたらしい。鍵を開ける金属音が響き、次いで扉の向こうから七海くんが顔を出した。

 どこか落ち込んだ様子の七海くんに真正面から抱き付けば、躊躇いがちに抱きしめ返される。そんなに気にしなくていいのにと思ったけれど、言葉にすれば傷を抉るような気がした。その代わり、わたしはもっと強く七海くんを抱きしめる。

「今日は格好悪い七海くんを見ちゃったな」
「……幻滅しましたか?」
「ううん、もっと好きになったよ。さっきの言葉、鵜呑みにしていいの?」
「さっきの言葉?」
「もう二度と寂しい思いをさせないってやつ」
「当たり前でしょう」

 腰に回っていた七海くんの手がわたしの胸に触れる。咄嗟にわたしは身を引いた。

「ま、待って。わたし今日はすごく汚れてるし、走り回ったから汗だって」
「待ちません。浮気をした罰です。抱きしめて添い寝をしたならもう充分浮気ですよ」

 恋人に寂しい思いをさせたのはきっとわたしのほうだったのだろう。色濃い欲に揺らめく双眸を見つめながら、わたしは七海くんの唇に優しく噛み付いた。

2020.7.12 お題箱より