贅沢な鱗番外編その壱
「伏黒くーん!伏黒くんどこー!」
自販機から飲料水を取り出していた伏黒恵は、軽く曲げた腰を伸ばしつつ、どこか怠惰な双眸を右方へ滑らせる。恵を探す間延びした声は、すぐに「あっ、伏黒くん発見!」と明るく弾んだ響きへと変わった。駆け足で近付いてきた
は、弟を窘める姉のような口調で言った。
「急にいなくなるからびっくりしたよ。あちこち探し回ったんだからね」
全く落ち着きのない虎杖悠仁に己が好奇心の赴くままに生きる釘崎野薔薇、そこに妙にノリの良い
が加われば、騒々しさも度を超える。五条へ仕掛けるイタズラの話題で盛り上がる三人に恵も巻き込まれそうな気がして、避難するように飲み物を買いに来たのだが、
はどうやらひとりで恵を追いかけてきたらしかった。
恵は
の背後に視線を送る。喧しい悠仁と野薔薇の姿も気配も感じられない。張り詰めていた警戒心を解くと、口をへの字に曲げている
に焦点を合わせ、居心地の悪さを拭うように「悪かった」となんとなく謝る。
もし追いかけてきた相手が悠仁や野薔薇なら謝らなかっただろうし、ふたりが入学する前でも謝らなかったはずだ。高専内でふたりきりで話すこと自体が久しぶりで、
との距離感を計りかねているのかもしれない。
なにせ、こうしてふたりで向かい合って話すだけでも悠仁と野薔薇は恵を揶揄するのだ。
に余計なことを気取られるわけにもいかず、あのふたりが高専に来てからというもの、
とふたりきりで話す機会はめっきり減った。恵自身、
を妙に意識してしまうせいで、ボロが出てしまうのを警戒しているためだろう。
悠仁も野薔薇もいない今なら、自然に振舞えるような気がした。恵は
を見つめたまま疑問を口にする。
「何か急用か?」
「うん!はいどうぞ、七夕飾りの短冊です!」
盛夏によく似た笑顔とともに差し出された長方形の紙と油性ペンに、恵はたちまちポカンとなった。
「……は?」
「今日、七夕だよ?」
は不思議そうに首をひねる。恵は
と考えが食い違っていることを瞬時に理解したが、決して口には出さなかった。そんなことのために汗をかくほど走って追いかけてきたのかと胸の内で思うにとどめておく。恵にとってはあまりにも些末な理由でも、きっと
にとっては重大な用事だったのだろう。全く理解不能だが。
「さっきパンダ先輩が裏山から笹を取ってきてくれたんだ。でもパンダ先輩が食べるのかと思って“食用ですか?”って訊いたら怒られちゃった」
「パンダ先輩はパンダじゃねぇよ」
呆れ返った様子で恵は嘆息する。パンダが気を利かせたのは、他でもない
が今朝からずっと「七夕っぽいことしたい!」と言い続けていたからだろう。二年生は曲者揃いだが、誰も彼もなんだかんだで面倒見がいいのだ。
「すぐ飾るからここで書いて」と急かされるまま、黒の油性ペンの蓋を外す。自販機で薄っぺらな短冊を固定し、恵は立ったまま油性ペンの先端をそれに押し付ける。
「虎杖と釘崎、パンダ先輩に会ったのか?」
「ううん、会ってないよ。パンダ先輩、そのまま任務に行っちゃったから」
騒がしいふたりが高専に入学してもうすぐ二週間が経つものの、梅雨という呪術師にとっては繁忙期のせいで、全くと言っていいほど二年生と顔合わせができていない。とはいえ、今この高専にいる癖の強い三人組について上手く説明するだけの語彙力を恵は持ち合わせていないのだが。
恵は願い事を書き終えた短冊を
に手渡した。
は縹色の短冊に記された願いをゆっくりと読み上げる。
「……“式神調伏”?」
「願い事なんてそれで充分だろ」
七夕なんて興味がないと突っぱねなかったことが恵なりの譲歩だったのだが、どうやら
には伝わらなかったらしい。面白味に欠ける願い事だとでも言うように、眉間に皺を刻んでいる。恵は再びため息を漏らした。
「悪かったな、面白くなくて」
「だって虎杖くんは“億万長者”で野薔薇ちゃんは“世界征服”だよ?」
「ふざけすぎだろ」
「本当にこれでいいの?新しい紙、持ってこようか?」
「お前は俺に何を書かせたいんだよ……」
遅れて気づいてぞっとしたのだが、恵と悠仁と野薔薇、この三人の願い事が漢字四文字で揃っている。書き直したい思いが込み上げたものの、
に妙な期待を寄せられるほうが面倒だった。恵は
がこの共通点に気づかぬことを祈りつつ、恵の短冊を眺めている
に質問を投げかけた。
「で、
は?その流れなら“世界平和”か?」
「夏野菜が美味しく育ちますように!」
「……夏野菜?」
予想の斜め上を行く回答に、恵は怪訝な顔をする。すると
はどこか自慢げに答えてみせた。
「狗巻先輩と一緒に育ててるから、責任重大なんだよね」
「校舎裏にあるあのでかい畑って――」
「そうだよ。狗巻先輩とわたしでお世話してるんだ」
はうれしそうに笑いながら、弾んだ声音で言葉を継いだ。
「日替わりでお水あげたり、お休みの日は一緒に肥料とか買いに行ったり……あ、最近は狗巻先輩も任務で忙しいからわたしが毎日お世話してるんだけどね、高専に帰ってきたときは必ず様子を見てくれて、こまめに連絡くれるんだ。生長具合を見ながら水の量なんかをアドバイスしてくれて助かってるの」
「……そうか」
「狗巻先輩、優しいよね。後輩思いっていうか、面倒見が良いっていうか、そういうところ尊敬するし、すっごく憧れる。わたしもあんな先輩になりたいなって思うし、狗巻先輩みたいに人にも植物にも優しい人になれたらなぁって」
「……そうだな」
「えーっと……こんな話、伏黒くんは興味ないよね。ごめんね」
あまりに素っ気ない相槌が
を不安にさせたのだろう。興味がなかったわけではなく、恵は単純に返答に困っただけだった。心の柔らかい部分で不愉快な感情が滲んだせいで。
が棘を褒めちぎったせいだと理解していたし、負の感情としか言いようのないその感情の名も恵は知っていた。その感情が湧いてしまった根本的な理由も。
気まずそうに視線を逸らした
に小さな罪悪感を抱く。恵はすぐにかぶりを振って否定した。
「……別に、そういう訳じゃない」
「もしかして野菜作りに興味ある?!」
しゅんと肩を落としていたはずの
は、まるで人が変わったように前のめりになった。鼓膜を叩いた勢いの良い声音に恵が目を瞬かせると、
は丁寧な仕草で頭を下げてみせる。
「もう少し経ったら田んぼの中干しもしなくちゃいけないし、手伝っていただけると大変助かります」
「田んぼ?米も作ってんのか」
「うん。でも稲は今年からね。わたしが御神酒を作るためなんだって」
「勝手に酒なんか作ったら法律に引っかかるだろ」
「えっ、そうなの?」
神と仏の寵愛を一身に受ける
を言い包めたのは十中八九あの“最強”だろう。我儘身勝手な五条なら、己が目的のためなら法律違反を始めとした何もかもを揉み消しそうな気はするが。
は笑みを浮かべながら、ひどく楽しげに言葉を紡ぐ。
「参加するにしても、まずは夏野菜のお世話からだね。収穫できたら夏野菜カレー作るから楽しみにしててね。でも冷やしてそのまま食べてもいいかも……川で冷やして食べると美味しいって聞くし……あ、明日は早起きだからね?寝坊したら狗巻先輩の呪言でモーニングコールだよ、覚悟して?」
恵の参加を前提として勝手に話を進めていく
に、恵は無言で辟易した視線を送る。子どものように目を輝かせている
を、今さら止めようという気にはならなかった。早起きとは何時を指すのだろうと恵は頭の片隅でぼんやり思考する。
を見つめる白群の双眸には、呆れとは全く別の感情がたしかに滲んでいた。
2020.7.7