狗巻棘は期待していた。

 それはすこぶるつきの期待だった。期待などという、味気ない一言では到底表現できないほどだった。

 呪われた言葉のみを吐き続ける唇が、ネックウォーマーの下でだらしなく緩んでいた。意識しても無駄だった。浮き立った心は、棘の顔から沈着な色をことごとく奪い去った。やや幼さの残るそれには、ぎゃあぎゃあ騒ぐ肋骨の内側のありようが、くっきりと表れていた。

 にやついた笑みを堪えようとして、むしろなんだかおかしくなった棘の顔は、幸い誰にも見破られることはなかった。ずっと走っていたせいだった。棘はとても足が速いから、通行人の脇をあっという間に通り過ぎることができた。誰ひとり、棘の変な顔には気づかなかった。

 衝動のまま駆け続けていた棘は、駅に着いたところでようやく足を止めた。棘が通う、一風変わった高専の最寄り駅。ひとはほとんどいなかった。月曜だというのに閑散としているのは、この駅を利用する客がそもそも少ないからだった。

 駅員の影も見当たらなかった。少しばかり人の目を気にしていた棘にとって、またとない好機だった。急ぎ足のまま、券売機の近く、ずいぶんと古びたコインロッカーの前に立った。

「おはよう、狗巻君。そんなに急いでどうしたの?」

 ちょっと気の弱い同級生の声音が、頭のうしろを掠めた。乙骨憂太。ひとを呪うこととは全く無縁そうな、心優しい少年。憂太の言葉を反芻しながら、棘は熱を持った手を制服の内側の胸ポケットに突っ込んだ。

「……え、胸ポケットの中?僕の?」

 まるで今朝の憂太のように棘が引っ張り出したのは、小さくて青いメモ用紙だった。それは澄んだ夏空の色にとてもよく似ていた。

 初めてこのメモ用紙を見たとき、憂太は棘よりもずっと驚いていた。自分の制服の胸ポケットから取り出したのに。何も知らないと憂太は繰り返した。本当に覚えがないのかと疑う余地すらないほど、始終困惑した様子だった。

 清廉なメモ用紙には、駅名とコインロッカーの番号が記されていた。こぢんまりとした、けれど読みやすい文字に心当たりがあった。だから、棘は急いでここに来たのだ。鍵のかかっていないコインロッカーが、誰かに開けられてしまう可能性を恐れて。

 棘は一度だけ深呼吸をして、コインロッカーに手を伸ばした。騒ぎ立つ心を押さえ付けるようにして。

 錆びた金属が軋む、小さな音が響いた。中を覗いた途端、棘の伏し目がちな瞳がまんまるになった。あまりにも驚きすぎた棘は、咄嗟に扉から手を離した。

 扉がゆっくりと閉まっていった。期待をすっかり忘れた心臓が、ただうるさく喚いていた。身体中の汗腺という汗腺から、冷たい汗がどっと噴き出した。今しがた視覚から送られてきた情報を現実として認めることを、脳髄は激しく拒んでいるようだった。

 棘は小刻みに震える手で、もう一度コインロッカーを開けた。悪い夢であることを確かめるように。

 明かりに晒されたそれに、棘は再び息を呑んだ。

 それは白い歯だった。まんまるの瞳に映るそれは、間違いなく、人間の歯だった。

 複数の折れた歯が、無造作に散らばっていた。まるでコインロッカーめがけて勢いよく投げ込まれたみたいに。

 真っ青な顔をした棘は、こんなものを誕生日プレゼントと呼ぶなんてあんまりだと思った。



* * *




 始まりは、棘の誕生日を祝いに来た男の存在だった。その男、五条悟は最強だった。無論、あらゆる意味で。寮の扉を執拗に叩いて教え子の安眠を妨げることなど、日常茶飯事だった。

「グッモーニン棘!そしてハッピーバースデー棘!」
「……こんぶ」
「え、今何時かって?朝の四時だけど?それが?」
「おかか」
「そんな嫌そうな顔しないでよ。僕がこんな朝っぱらに何しに来たと思ってんの?」
「いくら」
「嫌がらせだなんて心外だな。僕は生徒思いのナイスガイだぜ?棘のことだから、そろそろ会いたいんじゃないかな~と思ってさ。との面会、取り付けてやったの」
「………………ツナ」
「うん、マジ」
「………………ツナ!」
「だからマジだって。しかもいつもより面会時間が2分も長い!」
「こんぶ!高菜、ツナマヨ、明太子!いくらっ!」
「いや~いい反応だね!誕生日だから特別だよ?」

 全く恩着せがましい発言だったが、今日ばかりは心の底から感謝した。棘は慌てて身支度を整えた。鏡を睨み付ける時間は普段に比べてずっと長く、待ちくたびれた五条は「棘まだ?髪短いからキマらないんじゃないの?」とぶうぶう文句を垂れた。

 色素の薄い棘の髪がワックスでしっかり固まるころには、眠気は跡形もなく吹き飛んでいた。寮部屋から出て来た棘を見て、五条は「また制服にしたんだ」と軽薄な笑みを結んだ。棘は私服のセンスに自信があるわけではなかった。ダサいと思われるくらいなら、制服を着るほうがまだマシだという、ただそれだけの理由だった。

 なんだか得意げな五条のうしろを、棘は黙って歩いた。外に出れば冷たい風が顔面に直撃し、思わずネックウォーマーに鼻を埋めた。十月も終わりに近づき、季節は徐々に移ろい始めていた。

 棘が暮らす寮は高専の敷地内にあった。そして五条が目指す地下牢も、同じくそこにあった。

 もう何度も足を運んでいるというのに、棘の身体は未だに緊張を覚えていた。平静を装うことも難しいほどだった。たった半年やそこらでどうにかなるものではないと、棘はとうに諦めていた。

 歩きながら、これから始まる会話の流れを予想して、返す言葉をひとつずつ用意した。棘の言葉は全ておにぎりの具だ。でも、それに乗せる感情が相手に伝わらなければ、何の意味もなかった。頭はすぐにいっぱいになった。どれが正解なのかわからなかったから、答えをたくさん用意する他なかったのだ。

 考えれば考えるほど、口の中がからからになった。次から次へと噴き出す不安のせいで、ひどく喉が渇いていた。ふいに振り向いた五条が、口端に浮ついた笑みを刻んだ。

「別に嫌われたって良くない?次に行けばいいだけだろ」

 五条は心許ない棘を励まそうとしていたけれど、それはあまりにも逆効果だった。棘は腹の内でふざけるなと憤った。絶対に嫌われたくないと強く思った。棘には“次”など全く想像がつかなかったから。

 モテるモテないの話ではなかった。だからといって、この呪われた言葉のせいで他者との円滑なコミュニケーションが難しく、交友関係が狭くなりがちだから、というわけでもなかった。

 半年以上も前から棘の心を独り占めする、たったひとりの存在。

 誰よりも元気をくれるひと。どんな苦境に立たされても、顔を思い浮かべるだけで自然と底力が湧いた。ほんの僅かな時間を共有するだけでも幸せだと思える、稀有なひと。たった数分の会話で否応なしに感情の起伏を与えてくる相手は、生まれて初めてだった。

 五条は棘の沈黙を拾い上げると、「若人から青春を取り上げるつもりはないよ」と軽薄な笑みをさらに深くした。一見すると蔵に見える建物の前で足を止め、地下牢へ続く堅牢な扉に手をかけた。

「それくらいの気持ちで接したほうが上手くいくってこと」
「……しゃけ」
「いってらっしゃい」

 笑顔で扉を開くだけで、五条は決してその先に進もうとしなかった。面会ができるのは一度にひとりまでだった。受付には和装の職員がいて、名簿に必要事項を記入するよう求められた。棘は頷き、そこに今日の日付と自らの名を連ねた。

 青白い照明灯に照らされた廊下をしばらく歩くと、地下へ続く昇降機が見えてきた。棘は迷わず乗り込んだ。

 あらゆる部品が剥き出しになった昇降機は、街中で見かけるエレベーターよりずっと簡素で不安定な構造だった。初めてここに来たときこそ棘の不安を強く煽ったものだけれど、今はすっかり慣れっこだった。誰かが咽び泣くような金属音が停止したことを確認すると、棘は昇降機から下りた。

 すぐそばにいた見張りの職員に会釈をして、複雑に入り組んだ通路を黙々と進んだ。

 地下牢はいくつか存在するものの、決して横並びではなかった。通路は収容者の逃走を防ぐために迷路のような作りをしていたし、協力し合っての脱獄を警戒して、牢と牢には一定の距離が保たれていた。

 石を積み上げた壁を這うように大小のパイプがひしめき合い、時折錆び付いたダクトが低い唸り声を漏らした。牢までの道のりは覚えていなかった。気配を辿るようにして一心に歩を進めた。

 角を曲がると、その先で石の壁が途切れているのが見て取れた。すぐに頭上から鐘の音が鳴り響き、棘は生唾を呑み込んだ。面会の始まりを告げる合図だった。

 たった一秒でも無駄にしたくなくて、駆け足で独房の前に立った。透明なガラスの分厚い壁には、音や空気を通すための丸い穴が複数穿たれていた。狭いベッドに腰掛けていた少女が、面会に訪れた棘に視線を寄越した。

「こんな朝早くにお客さんなんて」

 目が合うと、その少女――は、読んでいた雑誌をゆっくりと閉じた。

「狗巻くんじゃなかったら門前払いだよ?」

 悪戯好きの茶目っぽい笑みに、棘はたちまち釘付けになった。頭の中はもう真っ白で、あんなに考えたはずの会話の流れなど遥か星辰の彼方だった。

 答えにまごつく棘に視線を留めたまま、は科学雑誌を脇に置いた。赤い表紙のそれは、先月棘が差し入れとして贈ったものだった。

「おはよう、狗巻くん」
「……こ、んぶ」
「会いに来てくれて、すごくうれしい」
「しゃ、しゃけ……」

 ひどい緊張で上擦った声だったものの、棘はなんとか言葉を返した。を前にすると、いつも決まってこうだった。機知に富んだ返答はおろか、簡単な会話ひとつままならない自分が情けなかった。

「今日の面会時間は何分?」

 問われた棘が右手をぱっと大きく開いた。はぱちぱちと何度も瞬きを繰り返した。

「5分?あれ、今日はちょっとサービスしてもらえたんだね。どうして?」

 言うか言うまいか少し悩んだけれど、棘は自らを指差して「……明太子」とぎこちなく笑った。相手に自ら申告するのはとても気恥ずかしかった。変な下心があると勘違いされそうな気がして。

 気まずさに視線を彷徨わせれば、すぐに朗らかな声音が棘の耳朶を打った。

「お誕生日おめでとう!」

 が贈った祝福の言葉は、砥粉色の瞳をまんまるにした。都合の好い幻聴かと思って、棘はの綻んだかんばせを凝視した。は目元に柔和な笑みを刻んだまま、再び唇を開いた。

「お誕生日おめでとう、狗巻くん」
「……いく、ら」
「もっと早く言ってくれればよかったのに」

 ちょっと拗ねた様子で唇を尖らせる姿があんまり可愛くて、棘は思わず目を逸らしてしまった。けれど半瞬後には焦りと後悔が滲んでいた。

 視線を外した不自然さを誤魔化すように、「おかか……」と指で頬を掻いた。ちらりと目の端でを確認すれば、は不思議そうに首を傾げた。その無防備な仕草に、うっと息が詰まった。誕生日最高。棘は心の中で五条に何度も感謝した。

 沈黙が流れた。心地好いくらいの沈黙だった。棘はが話し始めるのを待ったけれど、が口を開く気配は一向になかった。わざわざ誕生日に会いに来たこと。面会時間がいつもより少し長いこと。何か話したいことでもあるのだろうと、は棘を気遣ってくれているようだった。

 喉の奥にでも引っ掛かったように、まるで言葉が出て来なかった。話したいことは山ほどあるのに。刻一刻と時間が迫っていた。棘は助けを求めるように独房に視線を這わせた。

 空虚な白い壁に囲まれた狭い空間。安っぽいベッドと剥き出しのトイレ、そして小さなローテーブル。床に積み上げられた大学受験用の参考書。ベッドの枕元に置かれた難しそうな科学の本は、全て棘がに差し入れたものだった。

 はこの独房で暮らしていた。半年以上も前からずっと。突然押し付けられた理不尽な現実を、泣き言ひとつ言わずに受け入れて。

「狗巻くん?」

 分厚いガラス越しに、が顔を覗き込んでいた。不安の滲むその表情にはっとなった。すぐに逡巡を破り捨てると、棘は手ごろな話題を早口で告げた。

「た、高菜」
「何か欲しいもの?」
「しゃけ」
「狗巻くん、いつもそればっかりだね」

 はなんだか楽しそうに言った。気を遣わせているような気がして、棘は「……こんぶ」と小さな声で謝った。はガラスに顔を近づけて、飽食した悪魔みたいな笑みを浮かべた。

「今日こそ狗巻くんを困らせるお願い、しちゃおうかな」
「……しゃけ!しゃけしゃけ!明太子!」
「えー?これじゃどっちが誕生日かわかんないよ?」

 困った様子で眉を寄せるがおかしくて、棘は小さく噴き出した。こうしてと時間を共有できるだけで、充分すぎるほど幸せだった。

 棘は手のひらを分厚いガラスにぴたりと添えた。に少しでも近づきたくて。ベッドに腰掛けたままのに視線を落とし、平静を装った声音で促した。

「いくら」
「何でもいいの?本当に?」
「しゃけ!」
「ありがとう。でも残念。そろそろ時間みたい」


20211023
麻痺