「はぁ……幸せすぎる……」

 空っぽだった胃を満たす多幸感に、ひとりうっとり酔い痴れる。

 学生時代の林間合宿を思い出すような、どこか素朴なカレーライスだ。やけにごろごろした野菜だとか、火の通りが甘い鶏肉だとか、ちょっと水っぽいルーだとか、見た目も味もお世辞にも完璧とは言えない。

 でも、かえってそれが気に入った。不器用な感じが胃も心もきゅんとさせる。とはいえ、彼が溺愛する末の弟は、「やっぱ手伝えば良かった」となんだかとても不満そうだけれど。

「どうだ」

 死んだ魚のように昏い瞳が感想を求めた。人の気配がまるでない地下駐車場にカレーの匂いが立ち込める。悠仁くんはカレーを頬張りながら、「普通」と淡白な及第点を与えた。絶賛されると思っていたのだろう、「お兄ちゃんだからな」と意気揚々に調理を買って出た脹相くんがきつく眉を寄せる。

「不味いのか」
「そんなことないよ。普通だってば」
「含みのある言い方をするな。正直に言え」
「じゃあ言うけどさ、特別美味いわけでも不味いわけでもない。食えないってほどでもない。マジで普通すぎて感想求められると困るレベル」
「そうか。そんなに美味いか」
「俺の話聞いてた?」

 ひどく怪訝な顔をする悠仁くんから、暮夜の視線がこちらへ移る。

は?」

 ほんの少し前まで瓶詰にされていた特級呪物が作った事実を加味すれば百点満点だし、恋人が振る舞ってくれた手料理だという点を踏まえても百点満点だ。つまりどう足掻いても百点満点、むしろ百点などでは足りないくらいだろう。

 わたしは満面の笑みで空になった器を差し出した。

「こんなに料理上手な恋人と付き合えるなんて、わたしはとーっても幸せです」
「おかわりは?」
「いただきますっ!」

 元気よく応えれば、脹相くんがちょっとうれしそうに器を受け取った。「のためにプリンも作った」と付け加えられ、「やったー!」とわたしはすぐに喜びを万歳で表現する。会話を聞いていた悠仁くんが呆れた様子で言った。

「甘やかされてんね、さん」
「それはもう、ね」

 ふふふと意味深な笑みを落とすや、悠仁くんはわざとらしく肩をすくめる。

「妹じゃこうはいかねぇよな」
「そうかなぁ。もっとドロドロに甘やかしそうだけど」
「えー絶対違うって。その甘やかし方は家族愛なんかじゃねーよ。人を駄目にする甘やかし方っていうか、なんかこう、えげつない感じがする」
「下心ってこと?」
「いや多分もっと複雑。依存とか束縛とかそっち系」
「ふーん?」

 適当に返事をしたわたしは、すでに理解を放棄していた。甘やかし方の種類もその理由も何だって構わなかった。わたしに必要なのは“脹相くんがわたしを存分に甘やかしている”という事実、ただそれのみだったから。

 カレーがたっぷり盛られた器を受け取りながら、表情に欠けた脹相くんに笑いかける。

「なーんにもできなくても傍に置いてくれるところ、大好きだよ」
「お前ほど我儘な女、俺以外の誰が愛せる」

 小さな溜息を吐いた脹相くんに向かって、悠仁くんがかぶりを振ってみせた。

「脹相、わかってねぇな」
「何がだ」
「全部だよ、全部」

 わたしは悠仁くんの頭に手を伸ばした。ちょっと大袈裟な所作で、色素の薄い金髪をくしゃくしゃにする。

「悠仁くんは大人だねぇ」
「そりゃどーも。そう言うさんは策士だよな」
「わたし、とっても我儘な女だから」
「違いねぇや」

 悠仁くんが悪戯っぽく笑うと、脹相くんがわたしのすぐ隣に腰を下ろした。視線を交わして笑い合うわたしたちの姿に疎外感を感じたのだろう。わたしの恋人はこれでいて、結構ヤキモチ焼きなのだ。

 わたしは悠仁くんにしたのと同じように、脹相くんの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。やめろとは言われなかった。脹相くんがわたしに何かを禁じたことはほとんどない。一昨日、渋谷に買い物に行くことを仄めかしたときくらいのものだ。わたしに危険が及ばない限り、わたしを信頼して好きなようにさせてくれる脹相くんが、大好きで仕方なかった。

「脹相くん、明日はボロネーゼが食べたいな」
「何でも構わんが、食材はどこで調達する」
「スーパーを占拠中の呪霊くんたちに即刻お帰り願います」
「妙案だな」

 迷いのない平板な響きに頷くと、わたしは「頑張れ悠仁くん」とカレーを食べ進める悠仁くんの肩を叩いた。悠仁くんは呆れを含んだ視線でこちらを睨め付ける。残念ながらわたしには、おびただしい数の呪霊を祓うことよりもずっとずっと大事なことがある。

 おもむろに脹相くんがわたしの口端に手を伸ばした。ぐいっと指の腹でカレーの汚れを拭われる。こちらを見つめる黒の双眸に笑みを返せば、「よく噛んで食べろ」とびっくりするほど優しい声音が耳朶を打った。瞳を見つめたまま、こくこくと何度も頷く。

 脹相くんに甘やかされる時間のために、わたしは今を全力で生きている。


20210728
きっとただの独占欲