「ぎゃっ!」

 予想だにしない眼前の光景に、わたしは思わず変な悲鳴を上げてしまった。耳朶を打った自らのそれに驚いたのも半瞬のことで、鼓膜はすでに全く別の音を拾い上げている。

 わたしのすぐ真後ろで止まった足音の持ち主などひとりしかいない。数秒前に戻りたい気持ちが加速する中、抑揚に欠けた平板な声音が羞恥を訴える心臓の音を掻き消した。

「色気のない声を出してどうした」
「心配してくれてありがとう。でも一言余計だよ?」

 背後を振り返りながら詰るように付け足せば、脹相くんは人形めいた精巧なかんばせをこちらへ寄せた。わたしの文句は黙殺し、悲鳴の原因となったその場所――キッチンの流し台の真下、太い排水栓を覗き込む。

 キッチンシンクと排水栓を固定する色褪せたプラスチック製のナットから、ぽたぽたと水が漏れ出している。シンクの下に収納した大小の鍋は、思わぬ漏水によりびっしょりと濡れていた。異様に湿度の高いその場所を見やったまま、脹相くんが表情ひとつ変えずに言った。

「水漏れか」
「放っておいたら木が腐るんだよね……」

 わたしが暮らすこの家は、古いながらも親戚から譲り受けた一軒家だ。賃貸とは異なり、何かあれば対処は自ら行わなければならない。「電話しなきゃ」とスマホを探して立ち上がると、すぐに脹相くんが死魚のように濁った黒瞳を寄越した。

「誰に」
「え?もちろん水道屋さんだよ」

 決まり切った答えを口にすれば、脹相くんは胡乱げに眉を寄せた。

「他の男を部屋に上げるつもりか?」
「……わたし、脹相くんがどこに嫉妬してるのか未だによくわかんない」

 電話したからといって、必ずしも男性の水道屋さんが来るわけではないだろう。確率が低いというだけで女性の水道屋さんがやってくる可能性はゼロではないし、そもそも水道屋さんは仕事のために来ているのだから、客であるわたしと色恋に発展することなどあり得ないのだが。その非現実的な一般常識は一体どこから仕入れたのだろうと呆れてしまう。

 しかしながら、脹相くんはわたしの考えがおかしいとでも言いたげな顔をしている。その態度には正直納得いかないけれど、ここで何を言っても平行線を辿りそうなので、わたしは大人しく唇を横一文字に結んだ。特級呪物として狭い瓶の中で永い時を過ごしてきた脹相くんに、人間の一般常識を求めるほうが悪いというものだろう。

 脹相くんはわたしの肩を掴んでさらに進み出ると、漏水する排水栓の前で両膝を折った。ふたつに結い上げられた長い黒髪が、わたしの目の前で微かに揺れる。

「修理なら俺がやる」

 滑らかに紡がれたその言葉に思わず目を瞬いた。無骨で大きな手を伸ばし、排水栓を固定するナットの緩みを確認し始めた脹相くんに、そうっと疑問を投げかける。

「できるの?」
「ああ。見ればわかる」
「そういうもの?」
「そういうものだ」

 一片の隙もない断言は心地好く響き、わたしはすぐに頷いた。人間離れした馬鹿力であっという間にプラスチック製のナットを外した脹相くんは、すぐに水漏れの原因を突き止めた。

 曰く、シンクと排水栓を繋ぐパッキンの劣化が水漏れを招いているらしい。この際だからと、古くなっている部品は全て取り換えてもらうことにした。

 ひとり黙々と排水栓と排水ホースを外し終えた脹相くんは、シンクに穿たれた排水栓用の穴の汚れを雑巾で拭き取りながら、「あまりこちらに来るな。においが付く」と淡白に告げた。排水ホースを外したせいだろう、這い出てきた下水のにおいが微かに鼻腔を掠める。脹相くんの気遣いにこっそり頬を緩ませつつ、わたしは極力呼吸を抑えてその場から数歩離れた。

 とはいえ、脹相くんのその知識は一体どこから仕入れたものなのか、甚だ疑問である。器となった人間はまさか水道屋さんだったのだろうか。いや、そんなまさかな。

 脳裏でああでもないこうでもないとつまらない推理を廻らせていると、黒ずんだ雑巾から手を離した脹相くんがこちらを振り返った。光の失せたその双眸にはわたしだけが映っている。

、構築術式」
「はーい。材質も形状も同じ物で大丈夫?」
「ああ、構わん」

 わたしは外された数個の部品に目を置くと、まるで同じ物を呪力で作り上げていく。こういうとき、無から有を生み出す構築術式は重宝する。呪力はたっぷり喰うけれど、財布には全く痛手がないところも良い。

 瞬く間に鼻歌混じりで作り終えれば、真新しい排水ホースを掴んだ脹相くんが「上手いものだな」と感心したように呟いた。わたしは大きく目を瞠った。大好きな人からの突然の褒め言葉に、全身が甘い痺れを覚えている。

 堪らなくなったわたしは脹相くんの後ろで膝を突くと、作業の邪魔になることをわかっていながらその背中にぎゅうっと抱き付いた。頭の重みを預けるように頬を寄せる。鼻腔を灼くのは下水のにおいではなく、脹相くんの和装に焚き染めた上品な香のにおいだった。

「機嫌が良いな」
「うん。わたしの彼氏、何でもできて格好良いなと思って」
「そうか」

 鼓膜を優しく叩いたその相槌は、満更でもなさそうだった。わたしはますます頬を緩ませると、脹相くんを抱きしめる腕にもう少しだけ力を篭める。


20210406
なんだか透明にふれたみたい
(呪術廻戦掌編夢企画「彗星図鑑とタルトタタン」様へ提出)