※中学時代のお話です。










 どうしてそのたった二文字を書くことができないのか、自分でもよくわからなかった。

 シャープペンを数回ノックして細い芯を繰りだすと、その先端を机に軽く押しあてる。だしたばかりの芯がすっと引っこんだ。ちょっと間をおいてから、また同じ動きを繰り返す。芯が顔をだしたかと思えば、すぐに戻っていく。角ばった音とともに。

 時間の無駄としか思えないことを、もう何回も繰り返している。たった二文字のために。

 机に頬杖をついて、わたしは一枚のプリントを見おろす。

 数学のプリントだった。授業内容を理解するためのプリントには四問の基本的な設問と、その証明を示すための広いスペースが設けられていた。そこにはすでに黒板の答えを写しただけの証明がみっちりと並んでいるけれど、すかすかの場所がまだひとつだけある。

 プリントの一番上、黒い太枠で囲われた長方形の氏名欄。わたしの視線が縫いつけられたみたいに、空っぽのそこから動かなくなる。

 いつもなら滑らかに書きこまれているはずの名前が、どこにもなかった。ただ目をこらせば、そこにはうっすらと“笹山”と書いた痕跡が残っている。

 授業は終わりにさしかかろうとしていた。チャイムが鳴るまで、あと十分。授業が終わればプリントは回収されてしまう。

 さすがに無記名で提出するわけにもいかなくて、わたしはシャーペンの先端を空白へと向ける。

 身体に馴染んだ二文字を書こうとして、やっぱり手がとまった。乾いた唇を小さく開いて、周りに気づかれないようにそうっと肺にたまった空気を吐きだす。

 一週間前から、わたしはもう“笹山”ではなくなった。そうなるまでには膨大な時間を必要とした。話し合いの時間と冷静になる時間、それから感傷に浸る時間。すんなりと決まったことでもなかったから。

 ひどく疲れた顔をした両親に挟まれながら、わたしも何度か話し合いに参加した。もうすぐ高校生だからという理由で。

 ――自分がどうしたいのか、自分で決めなさい。

 そう言われたものの、進路を決めるほうがずっと楽だと思った。

 それは人生の選択という感じがした。進路とはまったく違う重みがあった。同じように曖昧で漠然としていて、つかみどころがない未来の話なのに。

 好きか、嫌いか。楽しそうか、つまらなさそうか。ふわっとした直感的な基準でいろいろなことを選んできた。けれどその枠から大きくはみだしたことを決めるのは、とてもむずかしいことだった。しかも急な質問だったから心の準備もなにもなくて、嵐の中にぽつんとひとり取り残されたような気分になった。

 わたし、まだ子どもだよ。お金のこととか、あるでしょう。勝手に決めていいよ、文句なんて言わないから。

 そう言って逃げたい気持ちをぐっと飲みこんで、これからの自分のことをたくさん考えた。

 考えれば考えるほど、自分の輪郭があやふやになっていくのを肌で感じた。足元が不安定になっていって、心がどんどんすり切れていった。見えている世界がずっと揺れていた。不安定に、ぐらぐらと。

 それがやっとおさまったのは、ついこの間のことだった。嵐の音がようやく落ち着いたのだ。

 意を決して担任に報告すれば、返ってきたのは、「受験を控えた時期だから、周りに配慮してほしい」という懇願だった。

「あなただって変な目で見られたくないでしょう」

 担任が付け足した言葉は、わたしの手を迷わせるには充分だった。

 どういう目で見られるのか、もうわかっていた。担任と同じような哀れみたっぷりの目か、他人の不幸を嗅ぎとろうとする下世話な目、そのどちらかだ。

 同情されたいわけではなかった。余計なことを言われるのも抵抗があった。卒業まであと半年足らず。ちょっと我慢すればいいかなと思ったけれど、それもそれでいやだった。なんとなく。

 もう変わってしまったからだろう。わたしの戸籍の名前も、住民票の名前も、公的な書類から“笹山”の二文字はいっぺんになくなってしまったのだ。

 数学の設問に視線を移動させる。“笹山”の二文字は今のわたしの証明にはならない。わたしをどこまでもおぼろにさせて、迷わせるだけだった。

 考えあぐねているうちに、終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。

 はっとした。シャーペンを持つ手に力をこめた。竹冠をささっと書いて、シャーペンを置いた。代わりに握ったのは消しゴムだった。数回こすっただけで、氏名欄はまた空欄に戻った。

 ――考えるの、疲れた。

 担任の顔が浮かんだけれど、もうどうでもよかった。疲れていた。どうにでもなれという気持ちでシャーペンを走らせていく。ずっと迷っていたその文字のあとに、自分の名前を書き連ねた。

 うしろからプリントが回ってくる。いつも通り自分のプリントを上に乗せようとしたとき、わずかな不安が頭をもたげた。誤魔化すことはできなかったし、うまく拭うこともできなかった。手をとめて、紛れこませるように、束の真ん中にプリントを差しこんだ。

 素知らぬ顔をして、次の授業の準備をはじめる。机の中から英語のテキストを引っぱりだしたとき、

ってだれ?」

と聞き慣れない名字が聞こえた。わたしは顔をあげる。

 一枚のプリントを目でなぞっていたのは、クラス委員の五条くんだった。たぶん気をきかせて、プリントが出席番号順に並んでいるかどうか確かめていたのだろう。

 ――最悪だ。

 わたしの身体の内側に暗雲が立ちこめる。よりによって、どうして五条くんなのだろう。

 五条くんの素行はあまりよくない。というか、すごくよくない。つまり不良というやつだ。

 周りに囃したてられてクラス委員になった五条くんは、意外にもというべきか、わりと律義にクラス委員の仕事をこなしている。とはいえ、気が向いたときだけのようだけれど。

 うさんくさくて不良なのにモテるのは、自販機みたいに背が高くて、とびっきり顔がいいからだろうし、どこかミステリアスな感じがするからだと思う。

 でもわたしは苦手だった。ちょっと、というか、けっこう苦手だ。難癖をつけられるのが怖いから、できれば関わりたくなかった。

 五条くんは校則違反の白髪頭をかたむけながら、

「いたっけ、なんて」

 不思議そうな五条くんに、仲のいい男の子たちが「いないいない」「なに?イタズラ?」と次々に口走る。話がこじれそうな気配を感じた。身体から変な汗が噴きだしそうだった。

「出席番号十三番……十三番って、確か――」

 早く話を終わらせたくて、わたしはおずおずと右手を挙手する。指は中途半端に曲がったままだった。

 五条くんの黒いサングラスと目が合う。本人はお洒落だと言い張る丸くて黒いサングラスの向こうで、学校中の女の子を夢中にさせる青い瞳が細くなったような気がした。

「えーっと……」

 たぶん、顔と名前が一致していないのだろう。学校一の有名人である五条くんにとって、クラスメイトのわたしはその程度の存在だった。ほっとした自分と、傷ついている自分とがいる。あんまり考えると、ちぐはぐな気持ちに振り回されそうな感じだった。

 五条くんが口を開くまえに、わたしはかすれた声を押しだした。

「……わたし」
「は?」

 低い声で訊き返されて、ぎゅっと体がこわばった。五条くんに声が届くように、さっきよりものどを開いた。

って、わたし」

と答えたわたしの声はうわずっていた。五条くんがわたしを見ている。

「どういうこと?」
「わたしの名字、変わったから、だから……」
「え、なにそれ。オマエの親、リコンでもしたの?」

 リコン。

 面と向かって言われると心臓がちぢみそうだった。伸ばしていた手をおろす。寒くもないのに、指先がふるえている。

「あ、えっと……」

 それ以上はうまく言葉にならなくて、尻すぼみになって消えた。

 言うんじゃなかった。途方もない後悔がせりあがってくる。

 顔を伏せようとしたとき、ぷはっと噴きだす声がした。

かあ!」

と五条くんが当たり前のように笑っていた。予想とは違う反応にわたしは目を疑った。

 それはみんなも同じだったのだろう。五条くんの周りの男の子たちが呆れたようにつっこんだ。

「笑うとこかよ」
「いや、だっていきなりだし、びっくりするでしょ」

 なにがおかしいのか、笑い声は途切れない。

 へえ、ねえ。。くつくつとのどを鳴らしながら、五条くんが何度も口にする。ていねいに確認するように。

 深くうつむきながら、わたしは頭がかあっと熱くなるのを感じた。胸をかきむしりたくなるような恥ずかしさよりも、五条くんのその無神経さにどうしようもない苛立ちを覚える。

 次の授業開始を知らせるチャイムが鳴って、みんなが自分の席についた。

 顔を伏せたまま、急いで英語の教科書を机の上に広げる。

 授業がはじまってしばらく、みんながわたしを見ていたような気がした。自意識過剰だと言い聞かせながら、頭のてっぺんからざわざわした波が引くのをじっと待ち続けた。

 ざらついた感情がすっかり鳴りをひそめたとき、そこに残されていたのはどこかすっきりとした気持ちだった。自分でも驚いてしまったくらいだ。

 解放されたと思った。五条くんが連呼したせいで、わたしの名字が変わったことはクラス中に知れ渡っただろう。

 わたしが言いふらさなくても、もういいんだ。

 そう思える気楽さが心地よくて、身体がうんと軽くなったようだった。



* * *




 そのあと、わたしは担任に呼びだされた。

「放課後、職員室にきなさい」

と廊下でお決まりのセリフを聞かされて、すぐに数学のプリントのことだと合点がいった。

 面倒くさい。その場で言えばいいのに。

 どうせ配慮しなさいという話だろうと思ったら、やっぱりその通りだった。

 担任は同情を誘うような表情と身ぶり手ぶりで、わたしをなんとか言いくるめようとした。

「みんな受験でナーバスになっているの。周囲のちょっとした変化にも過敏になってしまうし、受験の結果にも大きく影響してしまうものなの」
「はあ」
「あなたの受験の書類なんかは名字を変えてもいいわ。むしろそのほうがいいと思う。でも卒業まであともうすこしなんだし、みんなのことを考えて……」

 はあ。適当に相づちを打ちながら、視線を足元に落とした。痛む必要なんてどこにもない罪悪感が、ひりひりと焼けるような気がして。

 担任はだらだらと話を続けている。

 そう親しくもないクラスメイトの名字が変わったくらいで受験に失敗するのなら、そいつはもう落ちてしかるべきだと思う。わたしのことなんてなくても、きっと合格できないだろう。

 ――変なの。

「わかったわね、笹山さん」

 耳に馴染んだ二文字のはずなのに、なんだか変な感じがした。もうわたしを証明する二文字ではないのだと、そのときはっきりとわかった。わたしは首を横に振った。

「わたしはもうです。他の人のことなんて、知りません」
「笹山さん」
です」

 きっぱりと言い切れたのは、五条くんのおかげだった。もうクラス中に知れ渡っているのに、やっぱり戻しますというほうが変な話だろう。

 担任はまだなにか言いたげだった。でも、聞きたくなかった。わたしは目をそらして、早足で職員室の扉を閉めた。

 教室に鞄を取りに戻ったとき、

「あ」

 口から低い声がこぼれ落ちた。

「あ」

 同じような声が五条くんからも落っこちていった。

 放課後の教室には五条くんしかいない。教室の大きな窓にもたれかかって、運動場を見おろしていたようだった。部活動に打ちこむ生徒たちの声がかすかに聞こえる。

 わたしが自分の席に向かうと、

「ああ、そっか。そこの席だった」

と独り言ちる響きがした。鞄を手にするわたしを見つめたまま、五条くんはぽつりと言った。

「鞄ここに置いたままで、さすがに帰るわけないか」

 反応すべきかどうか迷って、小さくうなずく。

「なんかあった?元気なさそうに見えるけど」

 そんなふうに見えるのだろうか。そんな感じがする、と付け加えられる。話を流せるような雰囲気でもなくて、わたしはうなった。

「……呼びだされてて」
「なんで?」
「数学のプリント」
「数学?……え、なに、変な答え書いたとか?」

 怪訝な視線を向けれられる。わたしはぼそぼそと答えた。

「……名字」
「うっわ、そんなことで?ダルすぎでしょ」

 べっと舌をだして五条くんが両手をあげた。嫌悪感にあふれた口調にはどこにも飾り気なんてなかった。

 ここで話を終わらせるのがもったいないような気がして、同じ質問を投げかけてみる。

「五条くんは?なんでまだ帰ってないの」
「あー……ここから眺めるの、けっこう好きでさ」

 口ごもった声から察する。深く追求しないほうがいいだろう。

 うさんくさい笑みを結んだ五条くんが、話題をそらすように訊いた。

「なんて呼ばれたい?」
「え?」
「だって変な感じだろ」

 担任にはがいいと言ったものの、面と向かって問われると答えに窮した。親しくもないクラスメイトから名前を呼ばれる機会なんてそうそうないし、ただの記号みたいなものだから、笹山だろうとだろうと同じことのような気がする。

 迷った挙句、わたしは投げやりな答えを返した。

「……なんでもいい」
「なんでもよくなさそー」

 茶化しながらけたけたと笑う。

「担任に変なこと言われたんだろ?アイツ、マジでぺらっぺらだから」

 マジでぺらっぺら。五条くんの口から飛び出した言葉が想像とは違うものだったから、わたしはちょっとびっくりした。

「みんなが混乱するから、に変えるなって」
「はあ?それ配慮ってやつ?配慮してほしいのはこっちでしょ」

 わたしは五条くんを見た。何度もまばたきをしながら。

「名字が変わって一番傷ついてんのは、俺らじゃなくて当の本人だ。気遣うならそっちであるべきだし、そんなこともわかんねぇなら教師なんてやめちまえって話だよ」
「……わたしは」

 言いかけて、口ごもる。図星だった。五条くんの言う通りだった。配慮してほしかったのはみんなではなく、当事者であるわたしだったから。

「今のご時世、リコンなんてべつに特別なことじゃねーのにな」

 五条くんは淀みなく言った。同意を求めるような口調に、うっと一瞬息が詰まった。

「そうかな」
「そうだよ」

 軽やかな声がわたしの中にすとんと落ちた。なんだかそんな気がしてくる。

「帰る?」
「うん」
「ね、今から時間ある?」

 突然の申し出にちょっと面食らう。小さく首肯すると、五条くんは鞄を片手に歩きだした。

「じゃあちょっと付き合ってよ」
「どこに」
「あ、そうそう」

 わたしの質問には答えず、五条くんが振り返る。

「笹山――いや、って名前なんだっけ」
「名前?」
「そう、下の名前」
「……
「そっか。じゃあ今からって呼ぶよ」

 目が飛びでそうなほど、びっくりした。あの五条くんの口からわたしの名前がでるなんて。驚きすぎて、うんともすんとも言えなかった。

 五条くんが、くしゃっとした笑みを浮かべている。

「これでややこしくないでしょ」



* * *




 陽気な鼻歌が聞こえる。聞いたことのある曲だった。同じフレーズが繰り返し聞こえてきて、やっとその曲が飲料水のコマーシャルのものだということを思い出した。

 まったく音程が外れていないその歌は、風に乗ってどんどんうしろへ流れていく。白いシャツを見つめる。

「二人乗り、怒られないかな」
「ばれなきゃいいんだよ」

 五条くんは笑いをかみ殺して言った。

 自転車が住宅街の入り組んだ細道をしばらく進んだとき、五条くんの鼻歌が聞こえなくなった。その代わりに、弾むような明るい声が響いた。

はさ、卒業したらどうすんの」

 明るい響きなのに、どこか冷めている気がした。その場をつなぐだけの会話ではないかもしれないと思った。それくらい、言葉と気持ちがちぐはぐな感じがした。

 だから真面目に答えるべきだと思ったし、なんとなくだけど、五条くんには本当のことを言いたかった。逃げないで考えたことを。これからの自分のことを。

「東京に行く。知らないふりするの、もうやめたくて」
にいいこと教えてあげよっか」
「……いいこと?」

 わたしは校則違反の後頭部を見つめて、じっと次の言葉を待つ。自転車が細い角を左に曲がる。

「たぶん、っていうか絶対、俺とは来年も同じクラスだよ。毎年人数少ないらしいし」
「……え?」
「俺が見えてることにも気づかないなんて、って術師の才能なさそうだよね。今から心配だよ。真っ先に死にそうなんだけど大丈夫?」

 五条くんの言葉はすぐに理解できなかった。しばらくポカンとなって、そのあと山のような疑問がわっと湧きだしてきた。

「わ、わたしのこと本当は――」
「うん、知ってた。顔も名前もバッチリ。この三年間、ずーっと興味ないふりすんの面白かったよ。ほら、五条悟くんは演技派で有名でしょ?」

 茶目っぽい声音だった。わたしはつんのめるように問いかける。

「じゃあ、今日笑ったのも、演技?」
「ううん、アレだけは本当。ふつうの、絵に描いたような幸せな家に住んでそうだったから、けっこう意外でさ」

 五条くんはなんてことないように答えた。

 そっか、そういうふうに見えてたんだ。けっこう意外だった。

「本当のことなんて、外から見てるだけじゃわかんねぇよな」

 そして首をちょっとひねって、青い視線だけをこちらに寄越した。それが一瞬ではなかったから、「前見て、前!」とわたしは五条くんの肩をバシバシとたたいた。

 前を向いた五条くんは長いため息をつく。どこか呆れた様子で。

「わかんねぇのかよ」
「えっと、なにが?」
「ハイ前途多難!そのほうが燃えるけどね!」

 走り続けていた自転車は、隣町のコンビニでようやく停車した。

 冷たいペットボトルばかりが並ぶコーナーで、ふと飲料水が目についた。五条くんの鼻歌が頭のうしろで流れている。わたしはそれを一本手にとった。

 五条くんはというと、アイスが詰まった冷凍庫をじいっと眺めていた。わたしが大きな背中越しにその手元をのぞきこむと、瞬く間に飲料水を奪われる。

「今日は特別に俺が奢ってあげます」とすごく偉そうなことを言われて戸惑ったものの、得意げな顔をする五条くんがなんだかひどく面白くて、おなかをかかえて笑ってしまった。

 ずっと使っていなかった筋肉が、久しぶりに動いているような感じがした。筋肉痛になりそうな気がするほどだった。五条くんはそれからしばらく、むくれたように唇をとがらせていた。

「さてと、そろそろ帰ろっか」
「まだいいよ」

 わたしはかぶりを振った。本当のことだった。五条くんの口端に笑みを刻まれる。

「駄目でーす。家で待ってる人がいるでしょ」

 どこにも隙のない声だった。だから、もうそれ以上はなにも言えなかった。わたしはここまでの道のりと同じように、自転車の荷台にそうっとまたがる。

 その帰り道、五条くんの校則違反の白髪頭が地毛であることを初めて知った。本当のことは外から見ているだけではわからない。まさにその通りだった。



* * *




 いつものように教室の扉を開けると、黒板のそばでたむろしている男の子たちが目に入った。

 なんだよそれ、ばかじゃねえの。大声で笑っているその真ん中には五条くんがいて、わたしの目はしっかりと彼を捉えていた。

 昨日のことがなんだか夢のようだ。夢かもしれないとも思う。でも、おなかの筋肉はちょっと悲鳴をあげていて、あれがうそではなかったことを確かに証明している。

 目をそらそうとしたとき、五条くんの鼻先がわたしに向いた。

「あ!おっはよー!」

 朝の眠気が吹っ飛ぶほどのさわやかさだった。時間がとまったみたいに、呆気にとられた。男の子たちだけでなく女の子たちまでどよめいて、わたしは逃げるみたいに顔を伏せてしまう。

 その呼び方にはまだ慣れていない。なにも知らないクラスメイトの前ならなおさらだった。

 でも悪くないと思った。笹山よりもよりも、わたしにぴったりな呼び方だ。

 だからわたしは思い出す。五条くんにぴったりなその呼び方を。

 その先を呼ぶのは、くすぐったい。たぶん目立ってしまうし、面倒なことにもなりそうだ。でも五条くんなら、きっとわたしと同じように、悪くないと思ってくれるだろう。どう見られるかより、そっちのほうがずっと大切だった。

 わたしは、息を大きく吸いこんだ。


20191127
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