「いちごジャムがなくなった?」

 の言葉を繰り返して、真人は色の異なる双眸を大きく見開いた。残念そうな顔で唇を尖らせ、は何も言わずに小さく頷く。

 真人は宙に視線を這わせて、数ヶ月前の記憶を手繰り寄せていく。やがて確かめるように問いを重ねた。

「春にたくさん作ってなかった?」
「作ったよ。でも今年はたくさん買ってもらえたから、手元に数を残してなくて」
「それで自分の分がなくなったわけだね?らしいな」

 どこか楽しげな声を差し込んだのは夏油だった。緑の多い郊外に設けた拠点に集まる呪霊一派の会話は、たちまちの話題に変わる。

 花御と双六に興じていた漏瑚が顔を上げた。

「どこで売っておるのだ?」
「近くの直売所だよ。余分に作った野菜もそこに置いてもらってて」

が答えれば、夏油が誇らしげに口端を持ち上げる。

の野菜はおいしいよ。いつもすぐに売り切れる」
「えっ、すごいじゃん」

 真人の感心した響きにはくすぐったそうに目を細める。しかし、を横目に夏油は肩をすくめてみせた。

「ただ味と手間と値段が釣り合ってないのが気になるけどね」
「毎日食べる物だからこそ安くないと」
「それでちゃんと食えておるのか?」

 漏瑚の問いかけに返答はなかった。の顔にはぎこちない笑顔が張り付いている。沈黙を破るように真人が大きく噴き出した。

 唇をへの字に曲げる漏瑚に向かって、胡散臭い笑みを刻んだ夏油が代わりに言葉を返していく。

「無理だよ。完全な赤字さ。の本業が農家じゃないことがまだ救いかな」
「ああなるほど。呪詛師として稼いでおるわけか」
「いや、呪詛師でもない。にとって呪術は人生のオマケみたいなものだよ」

 怪訝な顔をする漏瑚をよそに、真人は立ち尽くすの顔を覗き込んだ。

「スーパーに買いに行けば?暇だし俺も一緒に行くよ」
「おいしくない」
「わがままだなぁ。いちごから作ろうにも、とっくに旬は過ぎてるだろ?」
「そうだけど……」
「仕方ないよ。のいちごジャムは絶品だからね」
「おいコラ夏油。そうやって“俺は全部食べてます”アピール挟むのやめろよ。なんか腹立ってきた」

 苛立ちを含んだ声が夏油を打った。肩を落として苦笑する夏油を一睨みして、真人が次の提案に移る。

「じゃあ花御に何とかしてもらうってのはどう?」
「何とかできるの?」

 期待に溢れた眼差しが花御をなぞった。花御が意味を成さない言語で話し始めた途端、漏瑚がげんなりした顔をする。意味を結ばない声に重なるように、脳髄に直接的に言葉が響いているからだろう。

(種はありますか?)

 花御が尋ねると、は即座に首肯した。

「うん。ちょっと待ってて」

 部屋の奥に消えたは、一分も経たぬうちに花御の前に戻ってきた。赤いちりめんでできた巾着袋の中には、極小の種子が大量に入っている。

 明らかに買ったものではなさそうなそれを袋ごと差し出しながら、は首をひねった。

「これでいい?」
(これは全てが?)
「そう。毎年春になると畑で育てるんだ」

 巾着の中をまじまじと見つめる花御の後ろで、真人が「畑?」と不思議そうな表情を浮かべる。夏油が呆れた様子で溜め息を短く吐き出した。

「ずっと言ってるだろ。は畑と蚕の世話で年中忙しいって」
「冗談かと思ってた。、蚕も飼ってんの?」
「今度作業場を見に行ってきたら?時間があるなら糸を紡いでくるといい。案外楽しいよ」
「ふうん……いいね。の個人レッスンなら喜んでって感じ」
「真人」
「アイツは誰の物でもないだろ。指図するなよ」

 真人が嗤笑をこぼしたとき、(この子にしましょう)と花御の声が響いた。目を凝らさなければならないほどの小さな粒が、太い人差し指の腹に一粒だけ乗っかっている。

(大切に育ててもらったようですね)
「わかるの?」
(ええ、多くの愛情を受けて育てられています。きっとこの子も幸せだったでしょう)

 穏やかな声をそこで切って、花御は(庭でいいですね)と確認を取りながら歩き出した。もその筋肉質な背中を追っていく。

 リビングの大きな窓を開けて庭に出ると、雑草がまばらに生えた土の上に種をそうっと置く。花御が黒く染まった手のひらをかざしただけで、眠りこけていた種から小さな芽がふっと噴き出した。

 瞬きする暇もなかった。

 芽吹いたいちごは背を伸ばし、瑞々しい葉を広げ、みるみる大きくなっていった。やがて可憐な白い花が咲き乱れる。萎れた花に赤い実がつき、ふっくらと艶めいた花托の重みで茎がゆっくり垂れ下がっていく。

 が惚れ惚れするように嘆息した。

「すごい……」
(いちごジャムにするには数が足りませんね。もう少し種を蒔きましょうか)

 鍛えられた長い膝をついて、花御は巾着の中から取り出した種を蒔く。瞬く間にいちごは庭に根を張り、宝石のような無数の赤い粒が日の光をきらきらと反射している。

、これでいかがでしょう?)

 尋ねられたは、花御の左肩を覆い隠す白い布を強く引っ張った。それはが花御のためにと丹精込めて織りあげたもので、滅多なことでは破れない特殊な代物だった。

「花御くんカボチャ!カボチャも!」
(いちごだけではないのですか?それは別に構いませんが――)
「あと玉ねぎとじゃがいも!それから人参も欲しい!」
(そんなに?)

 きょとんとしている花御を置いて、は真剣な面持ちで「種とか持ってくるから」と部屋に向かって一直線で走っていく。

 の背中を見送った夏油が肩を震わせた。

「完全にスイッチが入ってしまったね」
「あーあ。ありゃもうの気が済むまで付き合わされるな。ご愁傷様、花御?」
(真人、あなたのせいですよ)
「まんざらでもないくせに」

 つつくような真人の言葉に、花御は笑ったように見えた。夏油がくつくつと喉を鳴らす。

「今夜は肉じゃがかな?それともカレー?何にせよ楽しみだ」

 独り言ちると、夏油の視線は真人に転じた。

「真人もだよ」
「……は?」
「夏はいいけど、秋は人手が足りないと稲刈りやら栗拾いやらに付き合わされる。私も毎年働かされているから間違いない」
「えーっ!俺が食べるわけでもないのに?!漏瑚が手伝うからそれでいいじゃん!」
「なんで儂!」

 バタバタと歩幅の狭い足音にふたりの文句が上書きされる。野菜の種や種芋を持って庭に飛び出そうとしたは、窓の手前で足を止めた。それから巻き戻るように後退すると、漏瑚の顔を穴が開くほど見つめた。

「漏瑚くん、あとでいちご煮るの手伝って」
「だからなんで儂!」
「ありがとう。恩に着るよ」
「誰がいいと……あっ、待てっ!こらっ!人の話を聞かんか!」

 を追って、顔を真っ赤にして怒った漏瑚が駆け出していく。「平和だねぇ」と真人が子どもっぽく笑うと、同意するように夏油も穏やかな笑みを浮かべた。


20191009
瞬く間の幕間