※レゾンデートルの後日談です。










 狗巻棘はカラオケにはさほど興味がない。音楽が嫌いだというわけではなかった。むしろ好んでいるほうだと思うし、誰かが歌っている姿を見聞きするのは好きだった。上手いだとか下手だとかにかかわらず。

 自らが歌うという行為が嫌だった。棘は歌うことをずっと遠ざけて生きてきた。呪言のせいで、歌詞は必ず呪いに変わってしまうから。

 やっとできた“仲間”は棘を多くの遊びに誘ったが、歌えない棘を気遣って、カラオケには一度も誘わなかった。棘は自らが歌えないだけで、カラオケという場所が嫌いなわけではない。むしろ行ってみたかったし、皆の選曲にはとても興味があった。

 それでも、話題に上ることはあれど、放課後の遊び場としてカラオケが選ばれることはなかった。棘は少しだけもどかしいような寂しいような、そんな気持ちを抱えたが、心の奥底に閉じ込めてしまった。不満として口に出すことはなかった。歌えないのにそれでもいいのかと、もっと気遣われるような気がして。

 だから棘がカラオケ店に足を踏み入れたのは、今日が初めてのことだった。狭い部屋の壁に沿うように配置されたソファに座って、歌詞が映し出された大きな画面をじっと見入っていた。に手渡されたタンバリンを片手に。

 マイクを持っているのはパンダだった。パンダの低い歌声が部屋いっぱいに響いている。これほど歌唱力を持ち合わせているとは知らなかった。棘は意外だなとちょっと驚いた。

 呪術高専の関係者が経営するカラオケ店を、事前に調べていたのはだった。周囲から見れば着ぐるみ同然のパンダが、何の問題なく楽しめるように。

 塾までの時間をカラオケで過ごしたいと言い出したのもだった。交流会に向けて自主練をするという、恵や野薔薇と別れたあとのことだった。

 突然のの提案に、パンダと真希はぎょっとした顔をした。呪言のことを忘れたのかという顔だった。は不思議そうに首を傾げた。

「おにぎりの具で歌えばいいじゃん」

 その突拍子もない言葉に、パンダと真希は噴き出した。何故笑われているのか理解できないらしく、はますます怪訝な顔をした。

 棘はのこういうところがとても好きだった。棘が普通に会話できないことなど、些細な問題だと考えている。それどころか、“棘が普通に会話している”と捉えているのではないかと感じる瞬間ばかりだった。

 つい先日、から暇潰しにしりとりをしようと言われたときは、思わず二度見してしまった。には「棘くんは気にしすぎだと思う」と呆れられてしまった。

「他の人が棘くんの言葉を理解できなくても、わたしだけは理解してみせるよ。どれだけ時間がかかっても。だからタイムラグは許してね。複雑な会話はわからないときもあるし。あー考えてるんだなーって思って、必死で頭使ってる大好きな彼女の顔でも見てて?」

 いたずらっぽく笑うの声に、胸がきつく締めつけられた。おにぎりの具で会話する棘は、傍から見れば異様以外の何物でもないのに。

 もっと好きになると思った。これ以上好きにさせてどうするつもりなんだと思った。との円滑な会話に慣れてしまったら、もう他の誰とも会話が成り立たないような気さえした。それでもいいと考えている自分がいることに、心底呆れた。

 は棘を特別扱いしなかった。だから棘はこの場への参加を快諾した。恋人であるの願いは、全て叶えてあげたかったから。そして何より、歌っているをこの目で直接見たかったから。

 曲はちょうど間奏に差し掛かっていた。「パンダくん」と言いながら、が棘の隣から立ち上がって移動を始めた。タッチパネル式のリモコンを抱えて、パンダと真希の間に割り込むようにちょこんと座った。

 近くないだろうかと棘は思った。真希は同性だからまあいいとして、パンダには近すぎるのではないだろうか。にまったくその気がなくても、パンダがその気になったらどうするつもりだろう。棘はちょっとモヤモヤしながら二人を見つめた。揃って画面を覗き込みながら、次の曲を選んでいるようだった。

「ああ、これなら歌える。ドラマ観てたからな」
「ちょっと手伝ってほしいんだけど」
「いいぞ」

 は再び棘の隣に戻ってきた。画面を操作し、履歴を引っぱり出すと、ついさっき入れた曲名を表示させた。

「去年の文化祭、有志でダンスしたの。そのとき使った曲なんだ」

と言うと、リモコンをテーブルに置いて立ち上がった。パンダは歌い終わっていた。はマイクも持たず、部屋の扉前まで移動した。そこが一番広かったから。

 曲が始まると、は歌いながら踊り始めた。“恋する女の嘘”を歌った曲だった。いつもの穏やかな空気は一変し、とても大人っぽい雰囲気を纏っていた。棘は息を呑んで、瞬きもできずにのその姿を見つめ続けた。

 踊り終えたは、満足げな表情で戻ってきた。棘は感想にまごついた。綺麗だったとか見惚れてしまったとかますます好きになったとか、とにかく言いたいことがありすぎて。

 棘が声を発する前に、真希がに訊いた。

「写真は?撮ったんだろ?」

 文化祭のときの話をしているらしかった。は何度も頷くと、真希の隣に座った。しばらくスマホを操作した後、その画面を真希に見せた。

「これだよ。すっごい盛れてるでしょ」
「似合ってんじゃねえか。思った以上にあざといけど」
「頑張って谷間作ったんだよね」
「男に言い寄られただろ」
「まあ、うん。そうだね。でも彼氏いたし」

 聞き逃せない会話に棘が神経を研ぎ澄ませていると、察した真希が眉間に皺を寄せた。

「あー……棘は見るな。刺激が強すぎる」
「健全だよ、全年齢対象。真希ちゃんみたいに大きくないから」
「そういう話じゃねえよ。誰のモノかが問題なんだ。あと、これ棘にとっちゃ成人向けだ馬鹿。寝言は寝て言え」

 真希が険しい顔で言えば、は「真希ちゃんひどい」としかめっ面で棘の隣に腰を下ろした。棘のほうにぐっと体を寄せ、スマホを見せてきた。見たいでしょと言わんばかりの表情で。

 興味などないがが見ろと言うなら仕方ないという素振りで、棘はスマホに目をやった。びっくりして変な声が出そうになった。

 真っ赤なドレスに身を包んだの自撮り写真だった。舞台に立つためだろう、化粧はいつもよりずっと濃かった。とても綺麗だ。間違いない。だがその下の柔らかそうな膨らみが刻む直線にどうしても目が落ちてしまうのだ。不可抗力だった。二人の会話を聞いていたせいで、余計に視線が外れなかった。真希の言葉の意味が嫌というほど理解できた。

 棘は必死で何食わぬ顔を繕った。綺麗だという意味を込めて「こんぶ」と告げると、は満面の笑みで言った。

「そう?嬉しい。あ、今はこんなに頑張らなくても谷間作れるよ」

 訊いていない。はたしてその報告は何のために行ったのだろう。棘にとって必要な情報だとでも言うつもりなのだろうか。棘が両手を上げて喜ぶとでも思っているなら大間違いだった。

 何もさせてくれないくせに、と棘は心の中でを詰った。「人間に戻ったらね」が「心の準備ができてないの」に変わっただけだった。不満がないと言えば真っ赤な嘘になるものの、準備ができるまで待つつもりだから別に構わなかった。ただこちらを無自覚に煽るような言動は、できることならもう少し控えてほしいものだが。

「……すじこ」

 写真を送ってほしいと頼んでみると、がぱちぱちと瞬きを繰り返した。淡いピンク色の唇が不敵な笑みを宿すまで、それほど時間は要さなかった。

「追加でデラックスイチゴパフェ注文してもいい?もちろん棘くんの奢りで」

 そんなことでいいのかというのが正直な感想だったが、棘はいっさい顔には出さず首を上下させた。

「しゃけ」
「やった!後で送るね」

 の言葉にひそかな喜びを噛みしめていたとき、ふと視線を感じた。会話の一部始終を黙って聞いていたパンダが、にやにやと笑っている。ひどく嫌な予感がして、棘は身構えた。

「何で欲しいんだ?棘、それいったい何に使――」
「――喋るな」

 凄まじい速さで首元のジッパーを下ろした後、棘はすぐにを視界に収めた。聞かれていないかを確かめるように。は部屋の壁に備えつけられた受話器に耳を当てていた。棘はほっと安堵しながらジッパーを引き上げていった。

「あの、注文いいですか?デラックスイチゴパフェをひとつお願いします。あ、アイスとホイップ増量で。はい、追加料金はもちろん。よろしくお願いします」

 の注文が終わる頃には、パンダにかけた呪いはすっかり解けていた。

「呪言使うとか反則だろっ!」
「おかか!」
「手加減って何だそれ!全然嬉しくないからな!」
「おかかっ!」
「はあ?!嘘だろお前、まだ紳士気取ってんのかよ!あーあ、は知らないんだろうなあ。棘が夜な夜な頭の中でを――」
「――黙れ」

 その先を決して聞かれてはならなかった。焦りと怒りが強い呪言を押し出していた。使ってしまったという後悔より、余計なことを口にしたお前が悪いという憤怒のほうがずっと大きかった。棘が夜な夜な不埒な衝動に支配されていることを、にだけは知られたくなかった。

 ソファに座ったが心配そうに首をひねった。

「え、どうしたの?ケンカ?」
「おかか」
「それならいいけど。パフェのアイスとホイップ増量しちゃった」
「しゃけしゃけ」
「ありがとう。次もわたしが歌っていい?」
「しゃけっ」

 棘は穏やかに笑ってみせた。は柔らかな笑みを返すと、俯いてリモコンを操作していた真希に鼻先を向ける。

「真希ちゃん!一緒に歌おう!」

 真希がぱっと顔を上げた。その表情には噛み殺した笑みが含まれており、棘はすぐに自分とパンダの会話を聞かれていたからだと勘付いた。真希は平静を装って口を開いた。

「パフェは?」
「届く前に一曲だけ!」
「仕方ねえな、わかったよ。で、曲は?」
「えーっと……」

 は真希の隣に移動した。曲を選び終えると、ふいに目を上げた。棘を見つめ、嬉しそうに笑った。たったそれだけで棘の胸には温かい感情が広がって、パンダから向けられる殺気混じりの視線など、たいして気になどならなくなった。


20190421
シャルマンアゲイン