「おかえり、五条くん」

 恋人であるのたったその一言で、五条悟の顔は瞬く間に凍りついた。玄関で靴を脱ぎながら、平静を装えぬまま言った。

「……えーっと、ただいま」

 悟の挨拶を最後まで聞き終えることなく、は足早にリビングへ戻っていく。悟は彼女のあとを追いかけながら、今日一日の行動を振り返った。普段と何か違うことがあったわけではないし、彼女の機嫌を損ねるような真似をした記憶はまったくなかった。

 ソファに深く腰かけてバラエティ番組を観るの背中に、そうっと声をかけた。

「なんかあった?機嫌悪い?」
「どうしてそんなこと訊くの?」

 絶対に機嫌が悪いと悟は結論づけた。仕事で何かあったのかもしれない。彼女は小さな診療所で受付の仕事をしている。意地の悪い患者にまた何か言われたのだろうか。

 とはいえ、自分のせいだという線が消えたわけではなかった。の怒りを激化させないよう、いつもの調子で問いかけてみた。

「僕、何かしたかな?」
「何もしてないよ」
「仕事で何かあったとか?」
「何もなかったよ」

 返される言葉の冷たさに、これはまずいと直感する。背中に変な汗が噴き出すのを感じながら、悟は明るく続けた。

「今日の夕飯、僕が作ろうか?」
「もう作った。でも食べたくないならいいよ。自分で勝手に作って」

 全身から血の気が引いた。ざあっと音を立てたのがわかった。これは地雷を踏んでしまったかもしれない。今の質問のどこに気を悪くしたのかはよくわからないが。

 焦燥に駆られながらも、何食わぬ顔を装った。

「あ、そうだ!寝る前にマッサージしよっか?ほら、今朝疲れが残ってるって言ってたでしょ?もちろんエッチなことは抜きで、このナイスガイ五条悟がのためだけに誠心誠意心を込めて」
「ううん、いらない。五条くんより疲れる仕事じゃないし、気にしないで」

 があっさりと遮ったものだから、悟は心の中で頭を抱えた。完全にお手上げ状態だった。黒いサングラスを外しながら、虫の居所が悪いらしい恋人に問いかける。

「もしかして体調悪い?無理してるとか」
「違うよ」
「何か悩んでるならちゃんと言って。僕にどれだけ当たってくれても構わないけど、理由がわからないのは嫌だな。君を一人で悩ませたくないんだ。わかってよ」

 真剣に言うと、の肩が小さく震えた。背中が曲がって、頭が垂れ下がった。両手で顔を覆う姿を見つめながら、やはり何かつらいことでもあったのだろうと思った。

 励ますために隣に座れば、ついっと顔を背けられた。肩を抱こうとしていた手がピタリと止まり、悟の眉間にきつく皺が寄った。

「ちょっとさーん?」
「ふ、ふふっ」
さーん、これは一体どういうことですかー?ピュアな五条くんの純情を弄んで何がしたかったんですかー?」

 その言葉に、が勢いよく噴き出した。手で口を押さえながら、大きな声を上げて笑い始める。困った悟は肩をすくめた。どうやら彼女は機嫌が悪いわけではなさそうだ。

 は目尻に涙を浮かべながら言った。

「どこがピュアなの。苦しい。ああ、お腹痛い」
「あのさ、さすがの僕でもいきなり冷たくされるとびっくりするんだけど」
「ごめんね。ちょっと意地悪したくなっただけ」

 どこがちょっと?と悟は思ったが、口には出さなかった。とりあえず、彼女の話を最後まで聞いてみるつもりだったから。

「珍しいこともあるもんだね」
「そうかも。大人げないことしてごめんね、悟くん」

 聞こえてきたいつもの呼び方にほっと安堵した。は涙を拭いながら、少し残念そうに言った。

「なにも変わらないね」
「どういう意味?」
「この間硝子さんに言われたの。“の前じゃ最強も形なしだ”って。本当にそうなのかなって思ったんだけど……意地悪してもいつもの格好いい悟くんのままだったよ。つまんないの」
「つまんない?」
「うん。もっと取り乱すと思ったのにな」

 彼女はすっくと立ち上がった。「ご飯にしよう」と言いながら。悟はの手首を掴んで引き寄せると、自らの足の間に座らせた。そして後ろからきつく抱きしめた。

「それ、硝子の言う通りだよ」
「ウソだ」
「ウソじゃないって。取り乱したよ、すごく」
「そうは見えなかったよ?」
「そう?ちゃんと見てなかっただけじゃない?僕だって君の前じゃ、どこにでもいる普通の男なんだけど」
「本当に?」
「本当に。お望みとあらば証明だってしてあげるよ」

 はすぐには答えなかった。少し考え込んだ後、とても弾んだ声で言った。

「そこまで言うなら証明してもらおうかな」
「よーし、任せといて!」

と言いながら、悟は彼女の体を横抱きにして持ち上げた。期待と羞恥で頬が赤く染まっているを見下ろしながら。

「わからない子には丁寧に教えてあげないとね」
「悟くんは丁寧と執拗の意味を履き違えてるからなあ」
「それも愛だよ?わかってるくせに」
「はいはい。あ、ご飯は?」
「それはあと!」

 大きなベッドにを放り投げると、悟は服を脱ぎながら覆い被さった。欲に濡れたの瞳を射るように見つめ、柔和な笑みを浮かべる。

「意地悪してくれた分、たっぷり仕返しさせてもらうよ」



---



「――ってことがあってさ」
「それどんな反応するのが正解?」

 そう言いながら、虎杖悠仁は眉をひそめた。特訓の休憩中である悠仁に、昨晩の出来事をかいつまんで話した悟は、取り出したスマホの画面を嬉しそうに見せつけた。

「見て見て。可愛いでしょ、僕の未来の奥さん」
「寝てるときの写真って……」
「悠仁にだけ特別ね」

 悠仁は絶対伏黒にも見せているだろうなと思った。同じように特別だと言いながら。あまり深く突っ込まないでおこうと決意しつつ、さすがに無視をするのも可哀想なので適当に話を合わせた。

「生徒に惚気話するくらい好きってことはわかった」
「それはよかった。僕のだから、好きになっちゃ駄目だよ」
「先生相手に横恋慕するほど馬鹿じゃねえよ」

 早々に話を切り上げるつもりだったのだが、悠仁の頭にふと疑問が浮かんだ。にこにこしながらスマホを眺める悟に、確認するように問いかけた。

「先生の恋人ってことは、呪術師とか?」
「元だけどね。こんな危ない仕事、続けさせられないでしょ」
「うわー……なんでさっさと結婚しないの?」
「結婚しないんじゃなくて、してもらえないの。もう今まで何十回断られてるか。ああ、思い出すだけで涙が出そう。婚約指輪も相当な数買ってるっていうのに、全部いらないって突き返されちゃってさ」
「なんかしたわけ?浮気とか」
「違うよ。失礼だな」

 悟はきっぱり言うと、ため息をひとつこぼした。

「僕が“最強”で在るためさ。僕の弱みを作らない気なんだ。そういうところがたまらなく好きで……すごく嫌いだよ。憎いくらいにね」

 真剣さを帯びた声音に、悠仁は深く頷いた。

「“最強”を信用されてないってことか。それは同情するかも」
「だろ?もっと慰めてよ。そんなに弱くないつもりなのにさ」

 ただ愛されてるだけじゃん、と悠仁は天井を仰いだ。五条悟という男を心から愛しているからこその行動だろう。もちろんそんなことは、この飄々とした男も嫌というほど理解しているだろうが。

「こう言っちゃアレだけど、先生のこと好きになるなんて趣味悪いな」
「本当にそう思う。こんな最低な男に引っかかっちゃって」
「自覚はあるんだ」
「そりゃあね。だから僕にできるのは、彼女を誰よりも幸せにすることくらいだよ」

 悠仁は思わず瞬きを繰り返した。まさかこの男からそんな台詞を聞くことになるとは思ってもみなくて。

「真面目だ……もっと遊んでそうなのに……」

 素直な感想を漏らすと、悟は小さく笑った。

「まあそれはバレない程度にね」
「最低だった」

 悠仁はたちまち嫌悪感を丸出しにした。隠し通せば問題ないとでも思っているのだろうか。

 非難したい気持ちが込み上げたが、やめた。そこまで悟を愛している女なら、きっと気づいているだろう。気づいた上でその関係を保っているような気がしたし、だからこそ結婚に至っていないのではないかとすら思った。

 他人の恋愛、ましてや教師の恋愛に口を出すほど悠仁はお節介な人間ではなかったので、心の中だけに留めておいた。

「いつか結婚できるといいな」
「できるよ。だって既成事実作ろうとしてるし」
「……彼女さんに黙って?」
「もちろん黙って」
「やっぱり最低だった」

 こっぴどく捨てられればいいのに。悠仁はスマホを見つめる悟を横目に、そんなことを考え続けた。


20190311
Love Knot
20190420
恋結び(加筆修正・改題)