※レゾンデートルの番外編です。第二章第七話と間奏の間くらいの話。










「え、狗巻君が喜ぶもの?」

 教室で本を読んでいた僕がそう訊き返すと、さんはこくこくと頷いた。注意深く辺りを見回したあと、小さな声でそうっと言った。

「この間フェイスタオル買ってもらっちゃったから……わたしも何かプレゼントしたいなと思って」

 狗巻君は、真希さんやパンダ君と一緒に実習に向かった。それでも声を落としているのは、どこかで聞き耳を立てているかもしれない五条先生を警戒してのことだろう。

 五条先生は狗巻君とさんの恋を楽しんでいる節が強い。特に狗巻君をからかうのが面白いらしく、いつも何かとちょっかいを出している。大人げないなと思うが、それが五条悟という人なのだから仕方ない気もしていた。

「一緒に過ごすだけで充分だと思うよ」

 僕は笑いながら言った。

さんの時間を独占できることが、今の狗巻君の一番の幸せじゃないかな」

 正直に答えたつもりだったのだが、さんは不満げな顔をしていた。眉をひそめて訊いた。

「そんなことでいいの?」
「そんなことがいいんだ。さんが狗巻君だけを見ている時間だから」

 狗巻君は誰にでも優しい。不用意に人を呪わないよう、細心の注意を払っている感じがする。だから時々、距離を感じてしまうことがあった。深入りして傷つけることがないように、ある一定の距離を保って人と接しているのだろう。

 そんな狗巻君がさんに向ける優しさは別格だった。間違いなく優しいのだが、ちょっと利己的だし感情的だ。距離を保つどころか、ぐいぐい近づこうとしている。近づきすぎたせいで感情が乱されているところをよく見るし、激しく嫉妬している場面に遭遇したことは一度や二度ではない。

 早く告白すればいいのにと思う。言える時に言っておかないと、絶対に後悔するから。言葉で呪うことになっても、それでも。

 さんはまだ納得できていない様子だった。さんの時間を独占できるだけで彼は本当に幸せだと思うから、このまま素直に飲み込んでほしいのだが。

 彼女は少し悩んで、僕の顔色を窺うように尋ねた。

「里香ちゃんと一緒にいるだけで幸せだった?」
「もちろん」

 僕は迷うことなく頷いた。そして、ふと思ったことを口にした。

さんって、里香ちゃんの話よく聞いてくれるよね。好きなものや好きな教科のことも尋ねてくれたこともあったし」
「変かな?」
「ううん、嬉しいんだ。狗巻君達は僕に気を遣って、もう話さなくなっちゃったから」

 少し目を伏せると、さんの空気が強張った気がした。変に気を遣わせるのは申し訳なくて、僕は慌てて言葉を続けた。

「里香ちゃんのことは一生忘れないと思う。でも、細かい記憶は少しずつ消えていくから、それがやっぱり寂しくて」
「うん」
さんに話していると、ちゃんと思い出すんだ。里香ちゃんとのこと」

 そう言いながら視線を上げた。さんは眉尻を下げていた。

「それって迷惑になってない?次の恋の邪魔になったりとか……」
「ないない。僕は今でも里香ちゃんが好きで、他の人との恋愛はまだちょっと考えられないから」

 さんが「そっか」と小さく言った。はっとした僕は肩をすくめた。

「話が逸れちゃったね、ごめん」
「ううん。乙骨くんの言うことはわかったけど……でも狗巻君に何かしたい。何かあげたいの」
「うーん、そうだなあ……」

 考えを巡らせながら、僕は確かめるように訊いた。

「言葉でもいい?」
「うん」
「今日は帰りたくない、って言ってみるのはどう?」

 この上ない名案だと思ったのだが、さんは呆れていた。

「あからさまじゃない?」
「わかりやすいほうがいいよ。これは僕の場合なんだけどね……他人の感情の機微なんてものを、正しく読み取れた試しがなくて……言ってもらわないと、正直よくわからないし」
「わたしもわからないこと、多いけど」

 さんが視線を行ったり来たりさせた。どうやら僕の提案には乗りたくないらしい。

「狗巻君は僕よりずっと察しがいいけど、恋愛感情なんて複雑なものをより複雑にしても、得することなんて何もないと思うよ」

 言葉に信憑性を持たせるために、きっぱりと告げた。すると彼女は呟いた。

「喜ぶのかなあ」

 まだどこか迷っているようだった。僕は深く頷いた。

「喜ぶに決まってる。手を出さないかどうかは知らないけどね」

と言うと、彼女の顔がみるみるうちに赤く染まっていった。そっと顔を伏せると、ぼそぼそとか細い声を出した。

「……そういうことは人間に戻ってからします。初めてだし」

 僕はちょっとびっくりしてしまった。瞬きを繰り返しながら、思わず尋ねていた。

「え、意外だ。今まで付き合ってきた人って結構多いよね?迫られなかったの?」
「なんだか怖くて、いっぱい言い訳付けて逃げてきたから……」

 怖いと思うのは仕方ない気がした。しかしそれ以上に、その怖さを堪えてでも繋がりたいと思った相手がいなかったことに心底驚いていた。彼女ならそういう恋愛をいくつもしていそうなものなのに。

「そっか……もうとっくに経験済みかと……」
「そりゃあ途中まではあるけど……ってどうでもいいじゃんこんな話!」
「狗巻君はどうでもいいとは思わないはずだけど」

 彼の名前を出すと、さんの顔がますます赤くなった。

 僕は小さく笑ってしまった。彼女は怖さを堪える覚悟がとっくにできていた。そしてその相手として、他の誰でもない狗巻君を選んでいた。

 狗巻君があれほど好きになっているのも頷ける。すごく可愛い子だなと笑みをこぼしていると、拗ねたような声が僕の頬を叩いた。

「狗巻くんには言わないで。墓場まで持って行って」
「うん。わかった」

 もしかすると、さんは初めてではないと強がる気なのかもしれない。正直に話したほうが狗巻君は喜ぶだろうと思ったが、余計なことは言わないでおいた。二人がそういう雰囲気になった時、不意打ちで知るほうがずっと嬉しいだろうから。

 赤みの残った頬を両手で覆いながら、さんが笑った。

「不思議だよ。乙骨くんには何でも話しちゃう」
「僕も。他の皆に言えないことでも話せるんだ。どうしてだろうね」

 そう言いながらも、僕は答えを知っていた。さんは刺激を与えてくれるのだ。僕が僕で在り続けるための刺激を。乙骨憂太に必要なものを、いつだって思い出させてくれる。

 彼女が僕に何でも話してしまう理由はいったい何だろう。それは僕にもよくわからなかった。狗巻君より人として優れた部分はどこにもないのだが。

「人間に戻っても、友達でいてくれる?」
「当たり前だよ」

 笑って首肯すれば、さんも嬉しそうに笑った。朗らかな笑顔に目が釘付けになる。

 こんなに可愛い彼女ができるなんて、彼は前世でどれだけ徳を積んだのだろう。ここにはいない狗巻君のことを、僕はちょっとだけ羨んだ。


20190309
恋の話はお静かに