※百合夢です。苦手な方はご注意ください。










 小さな瓶にとぷんと筆をひたす。瓶の蓋と一体化したそれは、粘り気のある赤い液体をまとうと一気に重みを増した。すぐに引っぱりあげて、瓶の口で余分な液体を取り除く。

 ちょっと鼻に刺さる匂いが漂う。瓶から手を離して、代わりに私は白くてふわふわしたの手を取った。ふわふわというより、もちもちだ。やわらかくてすべすべで、ずっと触っていたいくらい。

 細い筆で小さな爪をゆっくりとなぞる。やさしく、ていねいに。の爪は小さいから、集中しないとすぐにはみだしてしまう。

 はいつだって「わたしの爪はネイルには向かないよ」と眉を下げる。たしかにの爪は小さいけれど、だからこそネイルが可愛く映えるのだ。ふわふわの指先にちょんと踊るネイルのいじらしさがどれだけ本能をくすぐるか。はなにもわかっていない。

 鮮血みたいな深い赤がの爪の上に乗る。この色を選んだのは私だった。が選ぶのはいつもピンクとかベージュとかそんな無難な色ばかりで、男の顔色を伺うような男ウケのいい色ばかりで、ちっとも面白くないから。

 にだって毒はあるのに。この赤みたいな、禍々しい毒が。

「あーあ。わたしにも呪いが見えたらなあ」

 向かい合って座っているが、ひどく憂鬱そうに言った。放課後の教室には私と以外誰もいなかった。傾きはじめた太陽のせいで、顔の半分がひどく眩しい。季節は秋とはいえ紫外線がやっぱり気になった。日焼け止め、もっと塗っておくんだった。

 古びた年代物の机に置いた瓶をが手にする。手持ちぶさたを解消するような手つきだった。まだなんの色も持たない左手がおもむろに瓶を傾ける。

 は赤の色をたしかめながら、ぼんやりとした声音で言った。

「呪いが見えたら、もっと違う人生だったかも」
「アンタそれ本気で言ってんの?ただのないものねだりだと思うけど」
「ないものねだりかあ」
「見えるからって、いいことなんてなにもないわよ。うるさいし気持ち悪いし最悪なんだから。それにには見えない人生のほうが合ってる。絶対に」

 の右手を離して、手のひらを上に向けた。「ん」と言うと、察したが私の手に瓶を乗せた。また筆にたっぷりと赤を足して、の手をやさしく引き寄せる。の爪はどんどん自己主張の激しい表情へと染まっていく。

「でも呪術の学校には行けるでしょ?」
「はあ?呪術師になりたいわけ?」
「そういうわけじゃないけど……」
「じゃあなに、東京に行きたいとか?わかるわー、だって田舎なんて本当につまんないしさー」
「野薔薇ちゃんと同じ学校がいいの」

 なめらかに流れていた筆先がとまる。「寂しいもん」と続けられた言葉が私を揺さぶった。はっとして、素早く筆を動かす。ちょっとよれてしまった。上塗りすればうまくごまかせそうだ。ムラにならなければいいけれど。

「わたしも東京に行こうかなあ」
「彼氏どうすんのよ」
「野薔薇ちゃんに会えなくなるほうがいやだ」
「……なに言ってんの」
「彼氏より野薔薇ちゃんだよ?」

 の拗ねた声が教室に響いた。液の少なくなった筆をまた瓶の中に浸す。「ふうん」と鼻を小さく鳴らす。自分でも意外なくらい、どうでもいいふりができていた。声のトーンを低く保ちつつ、私は淡々と言った。

「どうせすぐに、彼氏に会いたいって泣くくせに」
「あっ、ひどい。泣かないよ。野薔薇ちゃんがいてくれるもん」
「子守りはごめんだから」
「野薔薇ちゃんの意地悪」

 むくれた一言に思わず奥歯を噛みしめる。猛毒を口から直接流し込まれているようだった。呼吸をひとつ吐き出すことで、毒をなんとか外へ追いやる。

 のふわふわした右手の爪が、すべて鮮血の色に染まったことを確認する。深い赤はムラもはみだしもなく、つやつやと輝いているけれど、どこか禍々しさを孕んでいた。きっと、の毒と同じ色をしている。

 空いた手を差しだしながら、私はを促した。

「はい、残り半分」
「よろしくお願いします」

 仰々しく言うものだから、ちょっと笑ってしまった。は真剣だったのだろう、「もう。笑わないでよ」と私を軽くにらみつける。

 アンタのその純粋無垢な一滴に、男も女もみんな狂わされる。毒は全身をめぐりめぐって、気づいたときにはもう手遅れだ。毒が駆け抜けた私の指先は、に触れることばかりを考えている。

 手っ取り早い理由を見つけるために、の変化から目をそらせなくなる。前髪が数ミリ短くなったことも、目の下にできた淡いクマも、リップクリームの色が変わったことも。

 毒はますます全身に溜まって、それはいつしか呪いじみた欲望に変わって、私を容赦なく突き動かすのだ。「マニキュア、塗ってあげよっか」なんて、自分でも呆れてしまう提案だった。の前では超ダサくて可愛くない“釘崎野薔薇”になってしまう。

 野薔薇ちゃん。野薔薇ちゃん、好きだよ。わたし、野薔薇ちゃんとずっと一緒にいたいなあ。

 無自覚な甘言ばかり吐くくせに、私には目も向けてくれない。こんなのもはや呪いだ。は私よりずっと呪術師に向いているとすら思ってしまう。

「野薔薇ちゃん?」

 顔をあげると、と視線が交わった。心配そうな表情に胸がちりっとうずく。

「あー……ごめん。さっさと終わらせないとね。が彼氏と長電話できなくなるから」
「昨日いっぱい喋ったからもういいよ。今日はドラマ観たいの」
「月9?」
「うん!主役の俳優さん、すっごいカッコいいよね!あの俳優さん、冬に公開される映画にも―――」

 の弾んだ声が落ち着くころには、左手もすべて塗り揃え終わっていた。禍々しい赤の色がつやめく。の毒と同じ色に目を落としたまま、私はため息まじりに言った。

「はい、できた」
「ありがとう!野薔薇ちゃん大好き!」

 筆を瓶に差し込んで、きゅっと蓋をしめた。の空っぽの言葉は私の奥の奥に沈んでいく。大切な記憶として、一生忘れない場所へ。

 空っぽなのに。私がほしい意味は、どこにもないのに。

 は真っ赤な爪を天井にかざした。「綺麗」とつぶやく声には熱っぽさが含まれていた。

 深い赤に魅了されたその笑顔から、一滴の毒がこぼれ落ちる。胸の真ん中を穿たれて、鋭い痛みが私の全身を駆けめぐる。いつまで経っても慣れることのない痛みから、一刻も早く逃れたかった。この毒が私を強く突き動かして、暴れだしてしまう前に、早く。

 だから私は近いうちにの前からいなくなる。夢に見た都会で暮らすのだ。超オシャレでとびっきり可愛い“釘崎野薔薇”として。が大好きだと言って憚らない、が憧れてやまない“釘崎野薔薇”のままで。

「来年の冬休みさ、東京にきたら?オシャレなカフェとか行こうよ。が好きそうなところ探しとく」

 そのころには、体にめぐるこの猛毒は、ほんの少しでも薄まっているだろうか。うなずくの翳りのない笑顔を忘れたくない気持ちは、まだしばらく私の中に居座るような気がした。


20190117
静謐な赤には程遠い
(呪術廻戦女子夢企画「Petal」様へ提出)