引っかかるような息苦しさが、いつまで経ってもぬぐえない。
音のない廊下の窓から見える空は、汚れたねずみの色をしていた。低気圧のせいにしたかったけれど、そんなことをしてもこの息苦しさは消えてくれないだろう。
コンビニのロゴが印字された白いビニール袋を片手に、校舎の屋上を目指して階段をのぼり続ける。
堅牢な金属の扉を押し開いた先には、わたしの探しているその人がいた。鈍色の柵にもたれかかってパンを頬張る気だるげな同級生が、わたしを己の視界に入れた。端正な顔をちょっと不機嫌そうな顔にゆがめながら。
「ふーしーぐーろー」
わたしの間延びした声に、伏黒が眉根をきつく寄せた。露骨なその表情を無視して、わたしは両手を大きく広げる。
「失恋したから慰めてー」
「面倒クセェ、釘崎に頼め。そういうの、アイツの得意分野だろ」
からっからに乾いた言葉に、声をあげて笑ってしまった。野薔薇に話したい内容ではないことを、伏黒はきっとわかっている。ただ厄介払いをしたいだけだろう、恋愛の愚痴なんて面倒なだけだから。
「塩対応な伏黒に聞いてほしいんだよ」
「……ふうん、まあいいけど。明日の昼メシ、のおごりなら」
「いいよ。たまには外に食べに行こう?」
「じゃあラーメン」
「異議なし」
パンを食べ終わったらしい伏黒の隣にしゃがみ込む。コンビニの袋からメロンパンを取りだすと、わたしは口いっぱいに頬張った。
ずいぶんぬるくなったアイスティーの紙パックにストローを刺したとき、伏黒が体をかがめて、わたしの手からメロンパンを奪っていった。見あげれば、食べかけのメロンパンが大きな口にかじられている。
「あーっ」と抗議の声をあげたのに、伏黒は右から左に流してしまう。目線すら寄越さないことから、わたしに返す気はさらさらない意図を悟る。ああ、わたしのメロンパンが。
取り返すことは早々にあきらめて、重さの残るビニール袋に手を突っこんだ。チョココロネにかぶりついていると、頭上から伏黒の声が降ってきた。
「告白したのか?」
「ううん。音楽性が違うことに気づいたんだよね。それで冷めちゃって」
「はあ?なんだそれ」
「音楽性も価値観も似たようなものでしょ?」
アイスティーを一口分、喉の奥に流しこむ。肺を締めつけるような息苦しさがすこし増したような気がして、わたしは深く息を吸いこんだ。
「自分でもびっくりするくらい、めちゃくちゃショック受けてるんだ」
「……ショック?」
伏黒の言葉にうなずく。
「あの人ね……わたしが逆立ちしたって許せないことを、天変地異が起こったって許せないことを、あっさり許したんだよ。するっと受け入れちゃったの。あまつさえ心配までしてさ」
「だからショックだって?」
「そう。理解できなかった。そんなのおかしい、気持ち悪い、本当は傷ついていないんじゃないか……とか、いろいろ思ってしまったんだよ。そんなことを考えてしまった自分の心の狭さ?視野の狭さっていうのかな……それがすごくショックで」
あの人との会話の中で生じた違和感を、わたしは理解できないものと判断した。切り捨てたのだ。認めるのではなく、受け入れるのでもなく、単に拒絶して、わたしはあの人に背を向けた。
心がぐらぐらと揺れている。伏黒が間を置いてから、ため息を吐きだすみたいに言った。
「同じ人間じゃないんだ。わかり合えないことなんて、いくらでもある。なんでもわかり合えるなら、呪いなんて生まれないと思うけどな」
「そうなんだけどさ……」
「全部受け入れなきゃって考えるほうがおかしい」
きっぱりそう言ったあと、伏黒はわたしの手の中にあったアイスティーまでも奪っていった。とても自然な動きだった。あまりにも堂々としているせいで、文句を言う気にもならない。一口飲んで満足したのだろう、「ん」と返された紙パックを無言で受け取る。
「好きって気持ちだけじゃ、受け入れられなかったんだろ?」
「……うん」
「受け入れられないことを認めろよ。罪悪感があるなら、それは呪いに変えて呪いやら呪霊やらにぶつければいい。幸い俺たちは呪術師だ、憂さ晴らしが金に変わる」
渦巻く負の感情の使い道を示したあと、伏黒は続けた。
「が譲れないモノを優先させろ。心を殺したいっていうなら、無理にとめるつもりはないけどな」
伏黒の声は淡々と響いてきた。面倒くさそうな色が含まれているのは、きっと勘違いではないだろう。アイスティーをちびちびと飲む。伏黒が呆れたように吐き捨てた。
「なあ、はじめからわかってんだろ。俺に言われなくても、そんなこと。答え合わせにはなったかよ」
「……なった」
答えなんて最初からわかっていた。けれどわたしひとりで認めるのが怖かった。だから、息苦しくてたまらなかったのだ。
「好きなのに。あんなに好きだったのに」
チョココロネを思いきり頬張った。甘いチョコレートが舌の上にこびりつく。瞳からこぼれてきた塩辛い涙とまざって、ちょっと変な味になっている。手のひらで乱暴に目元をこすりながら、腹の底にたまった本音を吐きだす。
「あー……嫌いになりたくない。嫌いになっていくのが怖い。意図的に避けてるんだよね。会うと好きだって気持ちがあふれてくるのに、愛しくてたまらないのに、次にでてくるのは“でも彼は”って感情で」
「……頭と心がうまくつながってないんだな」
「うん、そうみたい。会わなければ好きなままでいられるって思ってるの。バカだよね……もう戻れやしないのに」
下唇をきつく噛む。そのとき、頭を軽く押さえつけられるような重みを感じた。視線を動かせば伏黒の手がわたしの頭の上に乗っかっていて、励まされているんだと遅れて理解した。
「好きなまま終わりたかったなあ。こんな終わり方、望んでなかったよ」
受け入れられたらよかったのに。これ以上わたしが傷つかないためには、あの人から離れる他に方法はないから。
「はなにも間違ってない。そもそも正解なんて、どこにもないだろ」
頭をぐしゃぐしゃとなでられる。肺をしめつける息苦しさが、すこしだけ弱くなったような気がした。
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ざあざあと雨が降りだした放課後、伏黒に「ついてこい」とぶっきらぼうに言われた。大人しくそのうしろをついていけば、伏黒が向かった先は呪術高専からもっとも近いコンビニだった。
「好きなデザート?」
わたしの問いかけに、伏黒は目をそらした。
「いらないなら、無理して買わなくてもいい」
ぎこちなく付け足した伏黒を凝視する。本気なのだろうか。だって、わたしを励まそうとしている魂胆が見え見えだったから。わかりやすすぎて疑いの眼差しを向けてしまうのは仕方ないと思う。
伏黒には似合わない気のまわし方に、ちょっと笑いそうになるのをこらえる。気づかれてしまったのか、「おい」と鋭い声が飛んできた。わたしは話題をすり替えるため、質問を投げかけた。
「なんでも?いくつでもいいの?」
「ああ。給料もらったばっかりだから」
「……えーっと、どういう風の吹きまわし?」
理由はわかっていた。聞いたところでなんにもならないだろう。けれど、一応尋ねておきたかった。伏黒がなんと答えるのか気になってしまって。
数秒の沈黙が流れて、伏黒は言いにくそうに口を開いた。
「……メロンパン、もらっただろ」
ぼそぼそと聞こえた答えに、こらえきれなくなって吹きだしてしまった。
伏黒は本当にウソが下手だと思う。メロンパンのことなんて言われるまで忘れていたし、それに明日のお昼はわたしのおごりでラーメンだ。伏黒にお礼をしなければいけないのはわたしのほうで、ここで伏黒がお財布を痛める必要はどこにもないというのに。
「笑うな」
「だって」
「いいから、さっさと選んでこい」
「はーい」
調子のいいことを言うから、十分後、コンビニのカゴを見た伏黒はこめかみを押さえる羽目になった。
「だからってカゴいっぱいに買うやつがいるかよ……」
「男に二言はないでしょ?」
伏黒は答える代わりに、ずっしりと重くなったカゴをわたしから奪っていく。レジへ向かう背中にわたしは声をかける。
「ありがとう、伏黒」
「ラーメンはのおごりだからな。炒飯と餃子つき、あと替え玉も」
「わかってるよ。なんでも頼んでくださーい」
拗ねたように答えれば、伏黒が振り返った。浮かぶ子どもっぽい笑みに、つられてわたしも笑う。あの息苦しさは、もうどこにもなかった。
20181228
与えること、許すこと、手放すこと