その日、わたしの恋が終わった。

「ありがとう」

 勢いで告白してしまったわたしに、五条先生はそう言って笑ってくれた。夕焼けを背に受けた五条先生のやさしい笑顔に、胸がきつく締めつけられる。

「でも、の気持ちにこたえることはできないよ。ごめんね」

 こたえてくれないことはわかっていたし、そういうところが好きだった。自分より一回り年下の未成年を、ましてや教え子を、絶対に好きにはならない。迫られたって手も出さないし、見向きすらしないし、間違いなんて死んでも犯さない。気づいているはずのわたしの好意を、いつだってのらりくらりとかわし続ける。五条先生のそういうところが、わたしはとても好きだった。

 最初から実らない恋だということは知っていたけれど、それでも終わってしまえばやっぱりつらくて苦しいものだ。心には大きな穴が空いていて、さみしさという風が通り抜けていく。はじけるような痛みが全身に広がっていた。

 わたしはなにも言えないまま、頭だけを軽く下げてその場から立ち去った。まるで逃げ出すみたいに。揺れる視界はおぼろげだった。涙腺は壊れてしまったみたいで、生ぬるい涙がとめどなくあふれてくる。

 足は自然とお気に入りの場所に向いていた。呪術高専の敷地内の中でも、一番緑が濃くて空気が澄んだ神社だった。駆けるスピードが落ちていって、ちょうど石でできた階段の前で完全に失速する。わたしは階段をひたすらのぼっていった。

 階段をのぼりきった先にある大きな鳥居の下に、わたしはへなへなとしゃがみ込んだ。ひざを抱えて鼻先をうずめる。声を殺して泣きながら、終わってしまった恋をなぞった。

 入学したときから、ずっと好きだった。やさしいところも、ちょっと強引でお茶目なところも、人をよく見ているところも、それからわたしを好きになってくれないところも、全部好きだった。

 呪術の相談に真摯に向き合ってくれるときの顔が特に好きで、その顔を見たいがためにたいした悩みでもないのによく相談を持ちかけた。わたしの下心を知っていながら、五条先生は相談にこたえてくれた。

 そんな五条先生のやさしさにずっと甘えていたけれど、それももう今日でおしまいだ。わたしが終わらせてしまったのだ。涙で濡れた下唇をぎゅっと噛みしめる。

 ――わたし、五条先生のこと、こんなに好きだったんだなあ。

 実るはずのない恋だった。終わりのわかっている恋だった。失恋という結末が早いか遅いかだけの違いで、希望なんて最初からなかった。そうやって自分に言い聞かせても心はいつまでもついてこなくて、悲しみに潰されそうな気持ちは変わらなかった。

 そのとき、階段を踏みしめる足音が聞こえた。だれかがここにやってくる。一瞬だけ五条先生の顔が思い浮かんだけれど、振った女子生徒を追いかけてくるほど残酷なひとではない。

 だれだろうと思ったものの、ぐちゃぐちゃの顔を見られたくなくて顔をあげることはできなかった。

 階段をのぼっていた足音がやっと消える。代わりに「先輩」とわたしを呼ぶ声が聞こえた。それは間違いなく、伏黒くんのものだった。ひとつ年下の男の子は、わたしに近づくと淡々と言った。

「禪院先輩が探してました。今日の掃除当番さぼったとかなんとか」
「……それで、伏黒くんが探しにきたの?」
「まあ、そんな感じです」

 伏黒くんは答える。先輩風を吹かせる真希ちゃんの使い走りにされがちな伏黒くんに、ちょっとだけ同情する。

 ぱっと見の印象はクールで取っ付きにくそうな伏黒くんだけれど、喜怒哀楽がはっきりしているからとても話しやすい。わたしのくだらない話にも付き合ってくれる、ちょっとぶっきらぼうでお人好しな後輩だった。

 すこし間を置いてから、伏黒くんは再び口を開いた。

「……泣いてるんですか」

 ぐずぐずの涙声のせいで気づかれてしまったのだろう。わたしは顔をひざに押しつけたまま、うなるような低い声で言った。

「なんでもないから」
「なんでもないのに泣くひとじゃないでしょ」

 伏黒くんの足音がわたしの背後に回る。砂利がこすれる大きな音がして、伏黒くんがわたしの真後ろに座ったのがわかった。顔をあげて視線をずらすと、伏黒くんはわたしに背中を合わせる形で座っていた。

「五条先生に振られたんですか?」
「……どうしてわかっちゃうのかなあ」
先輩、けっこうわかりやすいですよ」

 言うと、伏黒くんがわたしの背中にもたれかかってきた。ぐぐっと体重をあずけられたせいで、わたしはひどい前屈みになった。圧迫感がすごい。「うっ」とくぐもった声をだしても、伏黒くんは背中を押しつけるのをやめなかった。

「伏黒くん、重いよ」
「気のせいですね」
「こら、伏黒くん」

 呼びかけても背中の重みは変わらない。地面に両手をついて抵抗しようと踏ん張っていると、うしろから神妙な声がした。

先輩」
「なに?」
「付け入ってもいいですか」

 伏黒くんはそう言うと、地面に置いたままのわたしの手の甲に自分の手をそっと重ねた。伏黒くんの手はひんやりとしていた。わたしの手よりずっと大きなそれに、わたしの視線がぽたりと落ちる。

「失恋してる今がチャンスだと思うんで」

 わたしが目を見開くより早く、伏黒くんの手がわたしの手をぎゅっと握った。逃げようとしたけれど無駄だった。わたしの指の間には伏黒くんのごつごつした長い指が差し込まれていて、そのままきつく結ばれてしまったから。

「俺がなんの下心もなく、先輩の恋愛相談に乗ってたとでも思ってるんですか」
「……応援するって言ってくれたのは?」
「そりゃ振られるのは最初からわかってたし。あのひと、先輩のことそういう目でまったく見てなかったから」
「腹の内でわたしのこと笑ってたんだ?」
「ひどい言い草ですね。こうなるのを待ってたのはたしかですけど、そこまでは思ってませんよ。実らない恋してる先輩は、なんていうか、健気ですっげェ可愛かったです」
「……伏黒くんって意外とひどいところあるよね」
「意外と?呪術師を目指してるような人間が、善良で真っ当なワケないでしょ」

 それもそうかと納得してしまう。つらさや苦しさや後悔、そういう負の感情である呪いをぶつけるのが呪術師だから。

 自分に言い聞かせるみたいに、わたしは言った。

「わたしも善良で真っ当じゃないよ」
「知ってます。先輩はやさしいけど、善人じゃない」
「はっきり言うね?」
「そういうところが好きなんで」

 わたしは声をあげて笑った。重ねられた手を振り払う気はすっかりなくなっていた。だからといって握り返す気はなくて、されるがままに受け入れていた。

 伏黒くんの作戦は、今のわたしにとって効果は抜群だった。だってつらくて悲しくて、それ以上にとてもさみしいから。心が空っぽなせいで。

 だれかにそばにいてほしくてたまらない。ひとりになれば、空っぽであることと向き合わなければいけなくなる。五条先生に振られたことを過去のことにするのは、できる限り先延ばしにしたかった。終わってしまった恋でも、わたしの想いと時間がたくさん詰め込まれている。今すぐ未練もなくわたしの中から追い出すことは、きっとむずかしい。

「善人じゃないから伏黒くんを五条先生の代わりにするよ。それでもいいの?」
「どうぞ」

 あっさりした答えに虚を突かれてしまう。

「もっと嫌がるかなと思ってたのに」
「俺に本気になってもらう自信はありますからね」

 ふてぶてしく言うと、伏黒くんがわたしの手をよりきつく握った。その手はちょっとだけ汗ばんでいる気がする。鼓動の速さが肌から伝わってきそうだった。

「けっこうしぶといですよ、俺。覚悟しといてください」

 伏黒くんのちょっとだけうわずったような声音が、耳の奥の奥にまで響き渡る。わたしの体にすんなりと馴染んでいったのが意外だった。

 けれど、五条先生より好きになれるような気はしなかった。だれも五条先生の代わりにはなれないし、代わりにしたいとも思わない。

 それでも伏黒くんにこのさみしさを切り取ってもらおうとしているわたしは、どこまでもずるくて最低だった。そんなわたしが振られるのをただ静かに待っていた伏黒くんも、やっぱりずるくて最低だと思った。

 夜に染まりはじめた空に視線を送りながら、わたしは「うん」と小さくうなずく。今はずるくて最低でもよかった、わたしのさみしさを埋めてくれるならなんでも。


20181203
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