再び長い沈黙に落ちたスマホを食い入るように見つめる。肋骨の内側から響く音はやけにうるさく、身体はまるで沸騰したように過剰な熱を持っていた。耳のずっと奥で伏黒くんの声音が反響するたび、驚喜と羞恥が入り混じった感情が凄まじい勢いで身体の中を駆け廻っていく。

「あーあ。だらしない顔しちゃって」

 突として頭上から軽薄な響きが降り注ぎ、一気に現実に引き戻される。わたしの肩は大袈裟に跳ね上がっていた。緩んだ頬を引き締めるように唇を横一文字に結ぶと、視線を持ち上げて悟くんを睨み付けた。愉快げな色を湛えた群青の双眸が、黒いサングラスの向こうで柔和に歪む。

「少女漫画みたいだね。アオハルじゃん」

 平然と揶揄する言葉を紡ぐ悟くんを、わたしはさらに厳しく睨め付ける。

「あのね悟くん、わたし怒ってるんだよ?」
のスマホを勝手に使おうとしたから?」
「違います。悟くんがわたしとの約束、平気で破ろうとしたからだよ」
「約束?それってどの約束の話?」

 白々しく繰り返して、悟くんは颯爽と車に乗り込んだ。後を追うように急いで助手席に腰を下ろすと、シートベルトを締めながら悟くんの澄ました顔を覗き込む。

「伏黒くんには何も言わないでってお願いしたのに」

 責め句を聞き終えた悟くんは、そこで突然何かを閃いたように手を打った。

「よし決めた!盛大に回り道して帰ろっか!」
「……どうして?」
「そりゃの邪魔がしたいからに決まってんでしょ」

 白磁の美貌で悪戯っぽく囁くと、淀みない動作で車を発進させる。ふざけたような悟くんの発言に、わたしは少しも呆れたり怒ったりしなかった。こういうときの悟くんの言葉がどれほど信用できないものか、嫌というほどよく知っているから。

 点滅する方向指示器の規則的な音に被せるように、わたしは質問を重ねた。

「だからさっき伏黒くんに余計なこと言おうとしたの?」
「恵くん」
「えっ?」
「恵くんって呼ぶんじゃなかったわけ?」

 赤信号を見つめる悟くんは整った唇を軽薄に吊り上げる。わたしは下唇を軽く噛んで込み上げる羞恥を押し留めるや、底意地の悪い笑みを浮かべる悟くんを目の端で睨み付けた。

「……恵くんに何を言うつもりだったの?」
「もちろん昼間の話だよ。がうっかり忘れちゃうと大変だから、一緒に覚えておいてもらおうかと思って」
「忘れないよ」

 嫌味としか思えない言葉を無機的な声音で否定すると、わたしは暮夜に染まった街の景色に焦点を移動させる。闇の中で眩く発光する赤をぼんやりと見つめながら、自らに言い聞かせるように小さく呟いた。

「呪霊を祓うと最も大切な人の記憶が消える――忘れるわけないよ」

 悟くんがこちらを一瞥した気配がしたけれど、車内に響くのは方向指示器の律動的な機械音だけだった。青信号に変わった交差点を左折すると、車は来た道を素直に引き戻り始める。

「……回り道、しないの?」
「失礼だな。僕だってそこまで無粋な人間じゃないさ」
「ありがとう」

 片手で器用に運転する悟くんを見つめて礼を言えば、まるで愛犬にするみたいに、空いた手で頭をぐしゃぐしゃと撫で付けられる。くすぐったくて思わず笑みが漏れたし、目の端でわたしを見つめる悟くんも楽しげに笑っていた。

 悟くんなりにわたしを気遣ってくれたのだろうと思った。さっきわたしに嫌味を言ったのは昼間の話をわたしが重く受け止めていないからだと考えたからだろうし、今こうして回り道をやめたのは受け止めたうえでの行動だと理解したからだろう。悟くんはわたしが不用意に傷つかないことを一番に考えてくれている。うれしかったし、ありがたかった。

 わたしの頭を鳥の巣にした無骨な手が遠ざかると、わたしは謝罪の言葉からおずおずと切り出した。

「ごめんなさい。わたし、恵くんみたいに頭も記憶力も良くないから、もう一回だけ聞いておきたいんだ。“最も大切な人”の判断基準」
「うん、良いよ。昼間は駆け足で話したもんね」

 茶目っぽい笑みをひとつ落として、悟くんは滑らかな口調で説明し始めた。

「まず大前提として、にとって最も大切な人が誰かを決めているのはじゃない。の術式だ。一定の条件を満たした人間を“最も大切な人”として判断する」
「うん」
「最も優先順位が高いのは恋愛対象だよ。ただしその対象と親密かどうか、そして生きているかどうかも大きく関係する。親密な恋愛対象と家族ならその恋愛対象が優先されるけど、親密じゃない恋愛対象と家族なら家族が優先される。そして、家族とすでに死んだ恋愛対象なら家族が優先される。ちなみに恋愛対象がすでに死んでいる場合は、と親密かどうかは全く関係ないからね」

 説明が途切れたところで、わたしは思い付いた質問を挟む。

「じゃあ、友だちともう死んでしまった家族なら?」
「その友人とどれくらい親しいかにもよるけど、基本的には友人が優先される。の術式にとって死者の優先順位はかなり低い。でも記憶が消えないということはないと思うよ」
「……そっか」

 法定速度を僅かに超過して、車は青信号をくぐり抜けていく。わたしは静かに悟くんへ視線を送ると、落ち着いた口調で淀みなく尋ねた。

「わたしのもうひとりのお兄ちゃんの記憶が消えたのは、わたしが呪霊を祓ったから?」
「さぁ?それはどうだろうね」

 整った口端が弦月に歪む。ひどく曖昧な返答を紡いだその反応から察するに、おそらく正解なのだろう。わたしは少しだけ安堵した。わたしの記憶から“お兄ちゃん”の存在が消えたのは、自分がただ冷たい人間であるせいだとばかり思っていたから。

 まだ幼いわたしが誰かに本気で恋をしていたとは考えられない。お父さんとお母さんのことは朧げながら覚えている以上、幼いわたしが呪霊を祓ったのはおそらく一度だけのはずだ。

 つまり“お兄ちゃんが生きている間にわたしは一度だけ呪いを祓った”ということになる。一体どんな状況で、誰のために呪霊を祓おうとしたのだろう。

「質問はそれで終わり?」

 悟くんの気さくな問いかけにわたしは首肯を返した。それ以上踏み入ったことを訊いたところで、のらりくらりと躱されるのが関の山だろう。

 今すぐにでも伏黒くん――否、恵くんに相談したかったものの、そうなれば術式の詳細を話さなければならなくなる。出来ることならそれだけは避けたかった。これからはひとりで考えようと小さく肩を落とすと、悟くんが鋭い光を湛えた視線をこちらに寄越した。

はそれでも正しく復讐するの?」

 耳朶を打ったのは思いがけない質問だった。悟くんはこちらの反応を待つことなく、視線を前方へ移動させながら滔々と言葉を継いだ。

「だって全部忘れるんだぜ?呪霊を祓い続ければいつか必ず樹の記憶は消える。両親の記憶だって消える。そうなったらの復讐は」
「それでも、正しく復讐するよ」

 悟くんの声を遮って、わたしは決然と断言した。

「だってこの復讐は、死んだお兄ちゃんのためでも、お父さんやお母さんのためでもない。わたしのため。わたしが過去に踏ん切りを付けて、前を向くための復讐だから」

 他の誰のためでもなく、わたしのため。魂を深く蝕むほどの憎悪と決別するための正しい復讐だ。どれだけ記憶を忘れようとも、胸に巣喰ったこの途方もない憎悪だけは、きっと忘れることはないだろう。

 群青を溶かし込んだ双眸から鋭利な光が消え失せる。いつもの軽薄なそれに変わるや、口元に小さく笑みを結んだ。

「その言葉を聞けて安心した。まぁ忘れるって言っても、当の樹はもう死んでるから次に忘れるのは――」
「悟くんか恵くん。今ここで記憶が消えるとしたら、多分、恵くん」

 悟くんの言葉を引き取ったわたしは朗らかに笑ってみせる。

「だからね、恵くんとの思い出をたくさん作って、絶対に恵くんのことを一番に忘れるんだ」

 やや間を置いて、悟くんは呆れたように嘆息した。ハンドルをきつく握り直すと、車の速度を上げて呪術高専へと繋がる坂道を上っていく。

「それ、恵のためだよね?」
「わたしが忘れることは、恵くんが前を向くために必要なことだよ。妹のわたしが覚えている限り、恵くんはこれからもずっと罪悪感に苛まれ続けてしまうから」
「それは違うだろ。樹のことをどう受け止めてどう乗り越えるかは恵の問題だ。が妹だからってそこまで気を回す必要なんてない。には何も関係ないはずだよ」
「ううん、何も関係ないわけない。好きな人が、わたしと一緒にいると嫌なことを思い出してつらくなるんだよ?……そんなの、わたしが嫌だな。好きな人には、ちゃんと幸せになってほしいよ」

 それでもまだ何か言い募ろうとする悟くんを制するように、わたしはすぐに言葉を継いだ。

「だからこれで良いんだ。恵くんはしばらく不快かもしれないけど、夏の間にいっぱい思い出作って、一緒に修行も頑張って、秋が来たら鱗の呪いに正しく復讐して――もうすっかり全部忘れちゃうから!」

 空元気な笑顔を向けると、わたしよりもずっと大きな手が頭を撫で付ける。先ほどとは全く違う優しい手つきに瞬きを繰り返したとき、自分の頬が妙に湿っていることに気づいた。視界の解像度が急速に落ちていく。歪むように白んだ世界で、黒のサングラス越しに見える群青だけがたしかな輪郭を持っていた。

「これで良いって言うなら、何で泣いてんだよ」

 悟くんの諭すような声音は、喉から溢れる嗚咽と混ざり合って聞こえた。



* * *




「Twinkle, twinkle, little star, how I wonder what you are.」

 古びた扉の向こうから優しく穏やかな歌声が聞こえる。耳に心地好く馴染むそれに意識を傾けながら、継ぎ接ぎだらけの青年は余計な音を立てぬようにゆっくりと扉を押し開けようとした。しかし扉はほんの僅かに開いただけで、まるで何かに固定されたようにそこから先には進まない。

 嫌な予感がして、青年は扉に顔を近づけた。隙間から垣間見えた部屋の惨状に、思わず呆れた声を漏らしてしまう。

「……あーあ。こりゃまた派手にやったな」

 手狭な部屋は見るも無残な有り様だった。倒れた本棚から大量の本が床に雪崩れ、破かれた衣類やベッドシーツがあちらこちらに散乱している。部屋の主が気に入っていたはずの木製の机とイスは元の場所からずいぶんと遠くに移動し、木足の一部は根元から完全に折れ曲がっていた。

 カーテンが力任せに引き千切られたせいだろう、カーテンレールは窓枠から外れて垂れ下がっている。派手に割れた窓から赤く灼けた空が見えた。部屋に吹き込む風の生ぬるさを感じながら、青年は天井を見上げる。この状況で照明灯が全く無事なことが意外だった。

「Up above the world so high, like a diamond in the sky.」

 ひどく柔らかな歌声の持ち主は、千切られた衣類を自治体指定のゴミ袋に放り込んでいる最中だった。青年は扉のすぐ傍に落ちていた空の注射器を拾い上げると、肉体の形をぬるりと変えて僅かな隙間から部屋に這入り込む。

「Twinkle, twinkle, little――」
「いーつきっ!それって何の歌っ?!」

 丸くなった背中に抱き付くように飛び掛かれば、首だけで振り返った男が衒いのない柔和な笑みを浮かべた。

「マザー・グースだよ。外国で歌われている童謡でさ、不思議と気分が落ち着くんだ」
「そんな歌よりこっちのほうが効果あるクセに」

 悪戯な笑みとともに拾った注射器を見せ付ける青年に、男はひどく困った様子で肩をすくめてみせた。青年から空になった注射器を優しく取り上げる男の手は血塗れで、全ての指の爪が剥がされ赤い肉が露わになっている。男の持つ透明のゴミ袋の中には、人間の爪と思わしき赤い物体がいくつか確認できた。

 もう少し早く訪ねてやれば良かったなと思いつつ、青年は小さく首を傾げる。

「ずっと気になってたんだけどさ、このクスリって何で出来てんの?」
「ちょっと強めのベンゾジアゼピン系抗不安薬にパラセタモールとの呪力を混ぜてるだけだよ。今のところ、俺に一番よく効く精神安定剤はコレかな」

 男はそう言って笑みを浮かべたが、その顔には疲弊の色が滲んでいる。おそらく錯乱状態から脱したばかりなのだろう。青年は男の背から離れると、「よいしょ」と言いつつ倒れた本棚をいとも容易く元の位置に戻した。掃除の手を止めた男が目を瞬かせる。

「片付け、手伝ってくれるの?」
「夏油が帰ってくるまで暇だしね。目的は達成したんだろ?」
「うん。念願叶ってやっとね」
の夏油に関する記憶を消すこと?それとも憎い裏切者を殺すこと?」
「両方だよ」

 この世の春を掻き集めたような微笑みを結ぶと、幸福で彩られた声音でうっとりと続けた。

「これでの一番が入れ替わった。ようやく俺が一番になったんだ。俺のプロポーズ、今度こそ受け入れてもらえるよね?」

 問いかけられた青年が足元に目を落とせば、“I miss you.”と記されたメッセージカードが視界に入る。床に散らばった大量のそれを拾い集めながら、青年は不満げに唇を尖らせる。

「本題を見失うなよ。お前の結婚式の前に五条悟だろ」
「あー……ごめん、そうだった。夏油先輩に怒られるね」

 男は恥ずかしそうに頬を掻いた。青年から束になったメッセージカードと受け取ると、真面目な表情で言葉を紡ぎ始めた。

「夏油先輩は獄門疆を使うつもりみたいだけど、俺も俺なりに考えてみたんだ。最強の五条先輩に勝つ方法」
「なんか思い付いた?」
「うん、いくつかね。マイナスの電荷を持った五条先輩を五条先輩にぶつければ一発でこの世から消えるよ」
「いきなり机上の空論を語るな」
「え、駄目?そっか……それなら五条先輩が老衰で死ぬまで根気強く待つ方法は?人間である限り寿命には逆らえないし、勝算も充分あるし、こっちの戦力が減ることもないし、現実的で超オススメだけど」
「だーかーらー!それじゃ駄目だって何度も言ってるだろ。俺たちは今すぐ五条悟をどうにかしたいんだってば」

 ぎゃんと吼えた青年を見つめながら、男は眉を下げて「うーん」と頭を廻らせる。

「あとは過去に遡って五条先輩の両親を殺す。祖父母を殺す。血縁者を全員殺す。この方法が一番確実だろうね」
「過去に遡る、ねぇ……」

 何故か青年は男の考えを机上の空論だと一蹴することはなかった。先日男から借りた、妙に現実味のあるSF小説の影響かもしれない。興味深げに視線を動かすと、何かを閃いたように唇を勢いよく割った。

「例えばそれが可能だとして“自己矛盾”って起きないの?五条悟がいなくなったらお前も消えそうなもんだけど」
「……え?」
「だってお前、五条悟がいなきゃ死んでたんだろ」
「……俺が?」

 男は驚いた様子で瞬きを繰り返すや、すぐに顔の前で手を振って否定してみせた。

「何言ってんの真人。俺、五条先輩に助けられたことなんて一度もないよ。殺されそうになったことはあるけどね。いやぁ、あのときはすっげー焦ったよ。五条先輩ってば、いきなり目の前に現れてさ――」

 楽しげに笑いながら話を続けようとする男を遮るように、怪訝な表情を滲ませた青年が首をひねる。

「どういうこと?五条悟がお前とを助けたんじゃないの?五条先輩は命の恩人だって言ったの、樹じゃん」
「………………あれ?」

 小声で呟いた男は即座に青年から視線を背けた。両手で鷲掴んだ頭をガリガリと掻き毟ると、焦点の定まらない目を見開いたまま、ひび割れた唇を細かく動かし始める。

「あぁ、うん、うん、うんうんうん、そう……ごめん、さっきのは、ちょっとした、本当にちょっとした記憶違いで……ただの、単なる、言い間違いだから……違う、違うから……さっきのは、樹の、俺の記憶じゃないから……」

 抑揚のない声音には微かに喘鳴が混じり始めていた。

「……そう、俺は死にかけた、俺は樹だから、五条悟は、五条先輩は、必死に逃げてた俺とを助けてくれて、匿ってくれて、それから……それから、そう、高専に通ったんだ、俺は術師になったんだ、生きるために、と一緒に生きるために」

 喉からひゅうひゅうと呼吸音が漏れる。ひどく息苦しそうな男は身体を丸くして床に伏した。頭を強く掻き毟るたび、爪の剥がれた指から血が溢れていく。青年は散乱した床を目でなぞり、男自ら作った精神安定剤を探した。

「だから違う、違うんだよ、アイツはもう死んだ、殺した、だってが昨日殺したじゃないか、が殺したんだ、だから俺が、最初から俺が樹なんだよ、の兄、家族、お兄ちゃん、そう、俺、俺が、俺だけが!」

 悲痛な声で絶叫した男はそこで言葉を切ると、血の気の失せた顔を持ち上げた。半開きになった唇から血混じりの涎がだらりと垂れている。不安定に揺れていた視線が、ちょうど目当ての物を見つけ出した青年に固定される。

 男は血走った双眸で青年を瞬きひとつせず見つめたまま、メッセージカードを一枚掴んでみせた。血塗れの手が瞬く間にそれをぐしゃりと握り潰す。

「ねぇ教えてよ真人。俺が樹だよね?」

 底冷えした声音が部屋に響き渡る。青年は表情ひとつ変えずに男の眼前で膝を折ると、男の蒼白な顔を覗き込んで言った。

「当たり前だろ。ちょっとは落ち着けよ」

 眉根を寄せて苦笑した青年は、落ちていたベッドシーツの切れ端で男の汚れた口元を拭ってやる。ようやく見開かれていた男の目蓋が半分ほど落ち、真っ赤に充血した瞳が地面を撫でた。

「うん、そうだよね……ごめん、俺ってば何言ってんだろ」
「気にしない気にしない、そういうときもあるって。一応おクスリ使っとく?」
「……うん」

 小さく頷いた男に青年が注射器と精神安定剤の入ったアンプルを渡せば、男はやけに縮こまって注射の準備を始めた。掃除をひとり再開した青年は、散らばった本を本棚へと適当に詰め込みながら言う。

「夏油が言ってた“高専に乗り込むかも”って話だけど、やっぱ樹はココでいい子に留守番してなよ。なら俺が連れてきてあげるしさ」
「嫌だ。絶対嫌だ。俺も行く」

 子どものように何度もかぶりを振った男は、慣れた手つきで注射器にアンプルの中身を移し替える。青年は「あ、良い本発見」と呟いて哲学書や古い小説を足元に置きながら、大きな本棚の空白をどんどん埋めていった。

「乗り込んでどうすんの?サプライズ?」
「それもあるけど、天元の肉体がちょっと欲しいんだ」
「ああ、不死の術式を持ってるって術師だっけ?肉体なんて奪って何に使うんだよ」
「染色体――というか、テロメアを調べるために必要だから」
「テロメア?」
「そう、テロメア。一説によれば人の寿命にはテロメアが関係しているらしい。不死の術式を持つ天元の身体の中で一体何が起こっているのか……そのメカニズムを科学的に解明できれば、俺も同じように不死になれるはずなんだ」

 男はそう言うと、流れる動作で精神安定剤を腕に注射した。青年は分厚い医学書を抱えたまま、呆れ返った様子で肩をすくめてみせる。

「お前はそうやって呪術を科学するのが好きだよね。そんなに人間になりたいわけ?」
「だって呪術はを傷つけても、科学はを傷つけないだろ。あと、何度も言ってるけど俺は元から人間だからね?」
「どこが」
「見ての通り全部だよ。だからこそ欲深いんだ」

 すっかり空になった注射器を腕から引き抜くと、男は恍惚に歪んだ嗤笑を浮かべた。

「俺はどんな手を使っても、何を犠牲にしても――との約束を必ず果たすよ」


文月 了