「五条かぁ……」

 悟くんから手渡された真新しい学生証に視線を落としたまま、亀よりも緩慢な動きで歩を進める。と記されていたはずの学生証には、“五条”という見慣れない氏名が黒字ではっきりと印字されていた。それに加えて、やや強張った表情をしたわたしの証明写真、その左上に浮かぶ数字は“四”から“特一”へ様変わりしている。

 途方もない不安が首をもたげた。これから背負わなければならないものの大きさを改めて痛感する。

 視線を持ち上げて、廊下の開いた窓から外を見つめる。大気はすでに赤みがかり、敷地内に植えられた樹木の影が刻一刻と濃さを増しつつあった。生ぬるい風が髪を柔く撫で付けていく。辺りに充満し始めた夜の匂いを敏感に嗅ぎ取りながら、もう一度学生証へ目を滑らせた。

「……なんだか大変なことになっちゃったな」
「大変なことって?」

 突如耳を打った冷静な声音が、わたしを物思いの淵から一気に引き上げる。はっとして鼻先を移動させれば、廊下の先に伏黒くんが立っていた。

 ほとんど無意識の呟きを拾われたことに居心地の悪さを覚えながらも、口端を持ち上げて急ごしらえの笑みを浮かべる。

「伏黒くんどうしたの?」
「釘崎がうるせぇから探しに来た。で、大変なことって?」
「聞き逃してくれないんだ」
「聞き逃していいような顔してねぇだろ」

 ささくれ立った指摘に心臓が大きく脈打つ。どうしてこうも容易く見抜かれてしまうのだろう。伏黒くんの鋭い観察眼に内心舌を巻きつつ、「そんな顔してる?」とぎこちない笑みを深くする。

 このまま適当なことを言って誤魔化そうかとも思ったけれど、こちらを容赦なく睨め付ける白群の双眸は逃亡を許してくれそうになかった。

 そもそもこんな時間までたったひとりで過ごしていた言い訳がすぐに思いつかないし、下らない嘘を重ねたせいで、本当に隠さなければならないことに勘付かれては本末転倒だろう。

「伏黒くんは何でもお見通しだね」と茶化すように言うと、わたしは伏黒くんに新しい学生証を手渡した。彼は不審げに眉をひそめながらそれを指で掴み、しかしすぐに驚愕に表情を大きく歪めた。

「……五条、?」

 間を置いて絞り出された、掠れ切った声音にわたしは瞠目した。まさか彼がそこまで驚くとは思ってもみなくて。

 戸惑うように揺れていた怜悧な両瞳が素早く逸らされ、「……合意だよな?」と彼にしては何故かしおらしい口調が続く。

 あまりに急なことを伏黒くんなりに心配してくれたのだろうか。そうだったらうれしいなぁと、淡くてひどく不毛な感情を抱きつつ、わたしは笑顔で首肯する。

「当たり前だよ。大事なことだから」
「……そう、か。が――五条が決めたことなら、さんもきっと何も言わねぇよ」
「ありがとう。あ、でも五条って呼ばれると全然落ち着かないからのままで良いよ」
「駄目だ、慣れろ。これから一生“五条”として生きてくんだろ」
「えっ、一生?!死ぬまで五条?!」
「……お前な。そんな軽い気持ちで決めたのかよ。世間一般と御三家の価値観を一緒にするな」

 呆れ返った様子の伏黒くんから学生証を受け取ると、わたしは堪え切れず呻いた。

「伏黒くんどうしよう……」
「どうもこうも、普通に考えてあの人も五条家もお前をそう易々と手放すわけねぇだろ」
「えぇー……悟くんにも“五条の女は婚期が遅い”って言われたけど、やっぱりそうなんだ……」
「……は?婚期?」
「でもだからって一生はさすがに……」
「ちょっと待て」

 眉根をきつく寄せた伏黒くんと視線が絡む。わたしが小さく首を傾げると、彼はか細い声を押し出した。

「お前、五条先生と結婚したんじゃないのか」
「……えっ」

 出会い頭に鈍器で頭部を殴打されたような衝撃が走る。頭が真っ白になりそうだった。どうしてこれほど動揺しているのかもわからぬまま、わたしは混乱の真っ只中にいる脳を強引に回転させて弁明を試みる。

「してないしてない!結婚なんてするわけないよ!だって結婚するならちゃんと好きな人と――」

 その単語を発したとき、視界の中央にはっきりと伏黒くんが映った。結婚するなら、好きな人と。どこか不機嫌そうな彼のかんばせを見つめたまま、自ら紡いだ言葉を無意識に反芻する。

 自分が今、何のために――否、誰のために必死に舌を回しているのかを認識し、遅れて冷静さを取り戻す。

 伏黒くんの問いに強い動揺を覚えたのは、余計なことを口走ってしまったのは、伏黒くんにだけは勘違いされたくなかったからだ。どうして彼に勘違いされたくないのかなど、考えずとも理解できる。

 これは、この感情だけは、彼には絶対に気づかれてはいけない。

 気を付けなければいけないにもかかわらず、こうも取り乱してしまったことが情けなかった。持て余すほどの羞恥が込み上げ、わたしは「……大きな声出して、ごめんなさい」と小さな声で謝罪をして懸命にその場を取り繕う。

 真っ赤に茹だるような羞恥が伝染したのだろうか、彼もどこか気まずげに顔を背けている。必死に弁明する同級生を相手に、どう接すれば良いのかわからないのかもしれない。

 迷惑をかけているのだと思うと、瞬く間に熱が引いた。わたしは居た堪れなさを拭うように、口端にわざとらしい笑みを刻んでみせる。

「教師の悟くんが生徒のわたしと結婚するわけないよ?」
「普通はそうだろうけどな……」
「あの悟くんなら未成年の教え子に手を出しそうって?あーあ、悟くん、生徒にちっとも信用されてないなぁ」

 わたしは大袈裟に肩をすくめた。日頃の行いのせい、自業自得とはいえ、倫理観に欠けた大人だと思われている悟くんに少しばかり同情する。だからといってそれ以上わたしの口から何かを言うつもりもなく、四角い窓から朱に灼けた空をぼんやりと見つめた。

 やがて伏黒くんが小さな声音で尋ねた。

「なんで五条家へ養子に?」

 それは至極当然の疑問だったし、その質問に答えることで虎杖くんが戻って来たことを隠し通せるような気がした。わたしはすぐに口を開いたものの、思い留まるように唇を横一文字に結ぶ。意識の半分を周囲の警戒に充てると、彼にそっと視線を向けた。

「その前に、伏黒くんにお願いがあるんだ」
「……なんだ」
「コンビニで手持ち花火を買ってきてほしくて。本格的な夏には、まだちょっと早いかもしれないけど」

 突飛な提案のせいだろう、伏黒くんの表情に怪訝そうな色が滲む。わたしは口早に言葉を継いだ。

「面倒なお願いして本当にごめんなさい。わたし、悟くんが近くにいない間は高専から一歩も外に出られなくて」
「鱗の呪いに襲われるからか?」
「うん。もういつ襲われてもおかしくないんだって」

 深刻な空気にならぬよう、いつもの調子で答えてみせれば、伏黒くんは微かに揺らいだ視線を外した。

「……花火、何でも良いんだな?」
「伏黒くんのセンスにお任せします。よろしくお願いします」
「わかった」

 端的な言葉を残して、彼はひとり廊下の奥へと消えていった。喪服じみた黒い制服が完全に視界から消えるや、わたしはポケットからスマホを取り出してメッセージアプリを起動させる。悟くんとの約束の時間を変更してもらうために。

 先約よりも伏黒くんとの時間を優先したいわたしの気持ちを、悟くんならきっとわかってくれるような気がした。