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 半ば無意識的に腕が伸びていた。背中を這いずり廻るこの嫌な予感を、決して現実になどしたくなかった。五条悟は縋るようにの手首をきつく掴んだ。驚いた様子で大きく瞠られた明眸をまっすぐに見据えると、逸る悟は口早に問い質した。

「なんでそうやってひとりで全部抱えんの?俺のこと信用できないから?」

 するとは数秒の間を置いて、数回小さくかぶりを振った。

「ううん、違う。信用してるから託すんだよ」

 滔々と紡がれたその言葉が悟の予感を確信に変える。悟はの手首を掴む右手にさらに力を篭めた。

「駄目だ。絶対ひとりで行かせない」
「……そっか。五条くんはわたしを信用してくれないんだね」

 耳朶を打ったのはひどく寂しげな声音だった。肋骨の内側を激しく引っ掻かれたような気分だった。失望にも似た諦念を含んだそれにほんの一瞬、悟の力が緩んだ。しかしがその隙を見逃すわけなどなく、己を引き留める大きな手を素早く振り払った。

 悟がはっと我に返るもすでに遅い。は流れるような動作でバイクに跨ると、幸福を詰め込んだ花笑みを惜しげもなく寄越した。

「オムライス、すっごく美味しかった。ありがとう」



* * *




 五条悟は焦っていた。補助監督が運転する社用車で遺体が見つかったという工場地帯の一角へ赴いたはいいものの、そこには警察はおろか呪霊一匹見当たらなかった。無論、の姿はどこにもない。

 一連の事件の犯人の物と思わしき残穢や呪力の痕跡は、廃棄された工場の至るところに確認できる。しかしそれだけだった。悟が胡乱な瞳を周囲に這わせつつ、買ったばかりのスマホでに連絡を試みようとしたそのとき――さほど遠くない場所から莫大な呪力を感知した。それはまさしく呪術戦の極致、領域展開を果たした者の呪力だった。

「……アイツ、まさか」

 警察からの連絡を受けたのはだった。だからこの場所を悟や補助監督に告げたのもだった。悟が直接確認したわけではない。が最初から事実を伏せていたことに今更気づいても遅かった。

 激しい焦燥に急かされるまま、悟は駆けた。展開された領域はほんの数秒で消え去っていた。剥き出しのコンクリートで造られた小さなビルの中に駆け込めば、そこには悟と全く同じ顔をした人間が無数に転がっている。どの人間にも等しく刻まれた、まるで心臓を穿つような胸の傷に悟は蒼穹の視線を這わせた。

「……の呪力」

 傷口にこびり付いた微々たる呪力量から考えて、どうやらは術式を使ったわけではないようだった。単純な“力”にただ呪力を乗せただけだろう。廊下に転がる死体の山を避けることすらもどかしく、悟はそれらを躊躇なく踏み付けながら階段を駆け上った。

 噎せ返るような血臭を辿るように進んだ先で、悟はようやく足を止めた。溢れんばかりに撒かれたマリーゴールドの花に埋もれるようにして、全身血だらけのが仰向けの状態でひび割れた天井を見つめていた。

「……?!」
「五条くん……」

 悟の喉から迸った絶叫に気づいたがこちらを向いた。悟はの傍らに膝を突いた。口から大量の血泡を噴くは、ぜいぜいと苦しげな呼吸を繰り返していた。

「ごめん……肝心なところで……逃げられ、ちゃった……」
「喋んな!今すぐ硝子呼ぶから、だから――」
「でも……あの傷じゃ、どのみち助からない、だろう、な……あの子と一緒に、逝くね……」

 悟は瀕死のに何もしてやれない己を呪った。他者に対して反転術式が使えない事実を今日ほど呪うことはこれからもこの先もきっとないだろう。急いで硝子に連絡する悟の視界で、は弛緩するように小さく微笑した。

「……長かった、けど……これでやっと、終わる……痛い思いも、苦しい思いも、もう二度としなくて、済む……だから、そんな顔、しないで」

 言うと、通話を終えた悟に向かって真っ赤に染まった指を伸ばした。多量の血で滑りそうになるそれを悟がたしかに握り締めれば、は心地好い疲労感に包まれた表情でゆっくりと言葉を紡いだ。

「わ、たしと、同じ罰を負った兄妹が、この東京に、いる。きっと、五条くんの助けになってくれる、はずだよ」
「……何だよ、それ。嫌だ。絶対嫌だからな。俺はがいいんだよ。じゃなきゃ何の意味もねぇよ!」
「意味なく、ないよ……妹のほうは、わたしによく、似ているから……わたしのような、ものだから……その既視感は、五条くんの寂しさを、埋めてくれると、思う……美味しいもの、いっぱい……ご馳走して、あげてね……」
「似てるだけだろ?!俺が欲しいのはだ!他の誰かじゃない!の代わりなんていらないんだって、なんでわかんねぇんだよ馬鹿!」

 泣き声とも怒声とも付かぬ悲痛な叫びを聞いたは、そこでようやく腑に落ちたような顔をした。

「……ああ、そっか……だから、失敗、したのかな……」

 すでに焦点の合わない明眸から、大粒の涙がこぼれ落ちていく。

「……上手く行く、はずだった、のに……だって、これ、が、最適解だと…………あ、のとき、五条くんが、ふたり、いれば……渋谷は……あんな、悲劇は――」

 掠れた言葉がぷつりと途切れた。薄っすらと開いた瞳に膜が降りていることを知っていながら、悟はを呼び戻そうと血塗れの身体を揺すった。

「……、起きろよ。お前に作ってやりたい料理、まだ山ほどあるんだよ」

 それ以上呼び掛けても無駄だと知っていた。そこに在るのは、すでに魂を失った肉の器だけだった。知っていてもそれでも尚、悟はに語り掛けるのをやめなかった。

「……なぁ、そろそろ腹減る時間だろ。食べたいもの、何でも作ってやるから。外食が良いなら、どこへでも連れて行くから、だから」

 視界を占めるの青白いかんばせが次第に輪郭を失っていく。解像度の落ちた世界が瞬きと共に大きく歪む。自分が泣いていることに気づくまで、そう時間はかからなかった。