04

「うっわ~……マジでガキの頃の俺にそっくりだな……」

 膝を折り曲げて屈み込んだ五条悟は、眼前の光景に白磁の美貌を歪めた。高円寺に建つ新築マンション五階の広いリビングルーム、その艶やかなフローリングに青白い小さな首が落ちている。銀雪を被ったような柔らかな短髪の下には、濁った膜に覆われたふたつの黒瞳がはっきりと覗いていた。

 蒼はおろか青からも程遠い双眸をしばらく眺めやった悟は、紺碧の最果てにも似た六眼が映し出す情報に眉根を寄せた。

「……いや、そっくりっつーか……これ、まさかクローンか?」

 首を捩じ切られた子どもの頭部から視線を外すと、ひどく緩慢な所作で膝を伸ばして立ち上がった。何かを考え込むように顎を触りつつ、漆黒のサングラス越しに部屋を見渡した。

 そこは常軌を逸した異様な空間だった。

 何の変哲もないリビングを鮮烈な橙色がすっかり覆い尽くしていた。ローテーブルや床の上に無造作にばら撒かれたそれは、大量のマリーゴールドの花だった。部屋のあらゆる場所に白い蝋燭が設置され、開け放たれた窓から秋の雨気を含んだ微弱な風が這入り込むたび、朱を孕んだ炎が消えぬ程度に小さく揺動した。

 虫除け効果も持つマリーゴールドの香りは独特だが、部屋の隅に置かれた炉で焚かれた香が辺りを漂っているせいでよくわからなかった。骨董品らしき白い炉はこの部屋の主のものではなく、おそらく外部から持ち込まれたものだろう。植物由来の甘やかな優しい香りが絶えず鼻腔を焦がし続けている。

 部屋に横たわる死臭と血臭を撹拌させんとする強い芳香に、悟はやや軽い頭痛を覚えていた。床に散らばるマリーゴールドの花を避けつつ足を数歩進めると、大きな液晶テレビの前で静かに立ち止まった。

 ローボードに設置された液晶テレビは多量の血を浴びていた。悟はその焦点を、すでに酸化を始めた赤黒い血液から徐々に真上へと移動させていく。

 日本人平均を遥かに上回る長躯を誇る悟の目線とちょうど同じ高さの白壁に、ひどく歪な死体が太い釘で打ち付けられていた。

 それは首と身体がまるで合わない死体だった。そのふたつは全く別の人間だった。病衣めいた丈の長い衣類を纏った首のない子どもの身体と繋ぎ合わせるように、成人男性の青ざめた頭部が細い紐と針金で何重にもきつく固定されている。

 青よりもなお蒼い六眼が明朗に告げていた。子どもの躯体は床に転がる首と間違いなく同一人物であることを。

 悟はふたつ折りの携帯を取り出し、片手で素早く画面を開いた。硝子からのメールに添付されていた人物写真を網膜に灼くや、すぐに頭部だけの死体に目を滑らせて確かめた。

 身体のないその成人男性は先週、帰宅途中に“呪霊”の被害に遭って死んだという補助監督そのひとだった。

 現代人に根差す科学的理性をもってしても、オカルトの範疇に閉じ込められぬ禍々しい生き物がこの世の至るところに潜んでいる。辛酸、後悔、恥辱――人間の負の感情から生まれるその異形を“呪い”、または“呪霊”と言った。ほんの一握りの人間にしか認識できない、自然界の規則性から大きく外れた存在を“祓う”ことが、“呪術師”たる五条悟の生業だった。

 呪いに遭遇して普通に死ねたら御の字、ぐちゃぐちゃにされても死体が見つかればまだマシ――とはよく言ったものだが、今回は逆にそれが裏目に出たのだろう。まさか死体の一部を誰かが持ち去っている可能性など考えもしなかった。

 悟は壁に打ち付けられた補助監督の青白いかんばせを、真冬の湖の如く凍り付いた瞳で観察した。張りの失せた補助監督の肌には薄っすらと水滴が浮かんでいた。

 開いたままの窓から這入り込んだ、秋霖の湿り気を含んだ生ぬるい風が悟の頬を撫で付けていく。名残惜しむように残夏から手を離そうとしない初秋の気候を思った。肉が腐敗しないよう、どこかで冷凍保存されていたのかもしれない。

「なんで俺のクローンが、ってことも気になるけど……」

 言葉を切ると、頭部と躯体の異なるひどく歪な死体にくまなく視線を這わせ、網膜に映る呪力を改めて認識した。決して声には出さず、肋骨の内側だけで胡乱な思考を結んだ。

 ――それよりもっと気になるのは、死体にも部屋にもの残穢がベッタリだってことか。

 顎から指を離した悟はどこか勿体ぶった仕草で振り向いた。玄関先で警察官から説明を受けていたはずのがすぐ真後ろに立っていた。足音はおろか、僅かな布擦れの音すら殺して近づいたのはわざとだろう。

 とはいえ、のその行動の意図が読めないのは確かだった。牛乳瓶めいた分厚いレンズの奥で、悟の腹を探るような瞳が光っているような気がした。

 感情の乏しい顔でこちらを見上げるに軽薄な笑みを向けるや、悟は茶目っぽく小首を傾げて端的に尋ねた。

「警察はなんて?」
「第一発見者はこの部屋に住む四十代の男性だそうです。夜勤を終えて帰宅直後に通報、惨殺された子どもにも補助監督にも面識はないとのことでした。子どもの死亡推定時刻は今からちょうど三時間前、午前十時前後。事件当時、マンションのオートロックや防犯カメラは何故か正常に作動しておらず、不審な人物の姿は一切確認できませんでした。また、付近の住人は争うような声や大きな物音などは何も聞いていないそうです」

 抑揚に欠けた機械的な口調で説明を終えたは、落ちた子どもの首の前でそっと膝をついた。薄手の白い手袋を嵌めながら、しかし悟を一瞥することなく再び口を開いた。

「呪術規定に基づいてわたしを捕縛しますか?物的証拠は充分に揃ってますし、何よりその死亡推定時刻、わたしにこれといったアリバイはありません」
「……アリバイがない?」
「いつも通りに起きたと言ったのは嘘です。朝一番の新幹線で東京に来ました」

 呆気なく白状すると、小さく頭を下げたは目蓋を伏せて両手を合わせた。やがてゆっくりと視線を持ち上げ、白髪の子どもの頭部に細い指を伸ばした。躊躇ない手付きで調査を始めた自身の背後で怪訝な表情を浮かべる悟に向かって、は感情の失せた平板な語調でさらに続けた。

「東京に着いた時点で非術師の呪力出力に切り替えて、監視カメラのない経路を選びながら高専まで行きました。そのあとは高専周辺をしばらく探索して、わたしを待ち伏せしていた五条くんに会いました。東京駅に到着してから五条くんに会うまでのおよそ四時間、わたしのアリバイを証明するものは何もありません」

 手袋を嵌めた手で生気を失った子どもの首を傾けるや、は携帯を引っ張り出して何枚も写真を撮った。悟は大きな嘆息をひとつ落とし、わざとらしく肩をすくめてみせた。

「待ち伏せなんて人聞きの悪いこと言わないでくれる?」
「事実を言っただけです」
「あっそ。で、何のために高専周り探索してたわけ?」

 しかしはすぐに答えることなく立ち上がり、壁に固定された死体のほうへ歩いていった。やや錆びた釘で複数箇所穿たれた歪な死体を見上げると、さして解像度が良いわけでもないはずの携帯のカメラを向けながら淡々と返答を紡いだ。

「地の利を知るということは、全てにおいて大きなアドバンテージになりますから」

 鼓膜を叩いた回答に悟は思わず目を瞬いた。それは“静かに暮らしたい”という先の発言には全くそぐわない、戦闘を前提とした入念すぎるほどの下準備だった。悟はその唇を弦月の形に吊り上げて嗤笑を刻んだ。

「ってことはが持ってんのは迎撃型の術式だろ。俺みたいに物量でも押し切れる術式だったら地形なんて全く関係ねーし、迎撃を前提とした術式なら相手の動きをいかに先読みするかが肝になる。どんだけ地味で地道でも、優位性の保持は絶対だよな」
「そうやって五条くんが推理すべきなのは、わたしの術式なんかじゃなくて、この事件の犯人だと思いますが。それとも、犯人はもう目の前にいるからわたしの術式の話をしているんでしょうか?」

 詰問の響きを含んだ軽薄な口調に、は氷塊めいた硬質な質問を返した。すると悟は雷にでも打たれたように、端正なかんばせにたちまち驚愕の色を走らせる。額に右手を軽く添えるや、しきりに首を左右に振って何かを探す素振りを見せた。

「え、マジ?!犯人もう目の前にいるの?!どこどこ?!透明人間とか?!」

 一銭も取れない三文芝居を始めた悟を、感情の読めない表情では殊更ゆっくりと振り返った。黒いスカートのポケットに仕舞い込んだ携帯と取り替えるように、繊手はすでに金属製の手錠を掴んでいる。は鈍色の手錠と自らの細い手首を悟に向かってそっと差し出した。

「逃げるつもりはありませんが、念のため」

 しかし悟はすぐに鷹揚な仕草でかぶりを振った。

「そういうアブノーマルなプレイはちょっと早くない?せめてキスくらいしたあとじゃないとさ。それともアレ?今ここでキスから始めたいとか?いや~って意外と積極的だね?」

 場違いなほど浮ついた言葉に、は表情ひとつ変えなかった。お前のくだらない冗談に付き合っている暇はないとでも言わんばかりのその冷めた視線を払い除けるように、悟は「ウソウソ、冗談だって。そんなに怖い顔しなくても」と顔前で軽く手を振ってみせた。そして、道化師めいた軽薄な微笑をさらに深く口元へ刻んだ。

「期待に沿えなくて悪いんだけど、俺はを疑ってないよ」
「……疑ってない?この状況でも?」
「そ。疑ってない」

 穏やかな口調で断言する悟を見つめるは、訝しむように眉を寄せた。その表情にありありと浮かぶの疑問を掬い上げると、悟は先んじて回答を紡いだ。

「お前、呪術も術式も使いたくないってあんなに言ってただろ」
「……え?それだけのことで、ですか?」

 は心底驚いた様子で目を瞠ったが、しかしそれは悟も同様だった。決して演技ではない、全く予想だにしないの意外な反応に、肋骨の内側で羞恥が噴き出すのがわかった。

 何だか急に気まずくなった悟は、ふいっと鼻先を逸らして後頭部を軽く掻いた。

「いや、なんつーか、それはただの決定打。そもそもここまで頭の切れるがこんなお粗末な方法で人殺しなんてするわけないだろ。やるなら徹底的に――俺の六眼を出し抜くレベルの完全犯罪だろうし、たとえこれが意図的なもんだとしても、自分が犯人だって証拠を残すメリットが何ひとつ思いつかねぇんだよな」
「誰かを庇ってる可能性とか」
「それなら尚更もっと上手く擬装工作するはずだ。ここまであからさまに“犯人です”なんて証拠を残されちゃ、さすがに裏があるかもって多少は警戒する。俺みたいに逆に選択肢から外そうとする人間はにとって間違いなく邪魔だろ」
「捕まって死刑になりたいのかも」
「ないない、あり得ない。だったら“静かに暮らしたい”なんてどっかの殺人鬼みたいなこと最初から言うかよ」

 説得力を持たせるように胸の前で腕を組むと、悟は真面目くさった視線をのそれに深く絡めた。は鳩が豆鉄砲を食ったようにきょとんとしていたが、数秒も経たぬうちに表情を弛緩させた。

 え、と思った。あまりのことに、悟は唖然とした。

 何故かは口元を隠すように手を当て、小さく肩を震わせながらくすくすと笑っていた。翳りも衒いもない、初春の穏やかな紅鏡を思わせるような、が初めて見せる笑み。

 どこか悪戯好きの少年めいた爽やかなそれに、悟は無意識に目を奪われていた。面白いほど動揺した心臓が早鐘を打っている。身体を廻る妙な緊張に呼吸が浅くなっていることにようやく気づいたのは、が悟に柔らかな視線を寄越したその瞬間だった。

「五条くん、優しいって言われませんか?」
「…………いや全然。むしろ逆」
「そうですか」

 悠揚に首肯したはしばらく悟の顔を見つめたあと、「じゃあ身内に甘いのかな」と、おそらく素であろう砕けた口調に悪戯っぽい笑みを添えた。一際大きく心臓が脈打ったことには気づかなかったふりをして、悟は幼い子どもの頭部に視線を転じたの横顔を目の端で捉えた。

 は人を惹き付ける微笑を瞬く間に消すや、ひどく小さな声で呟いた。

子どもの死者アンヘリートスに捧ぐは白い花」
「……なんて?」

 悟の疑問に応えることもなく、はその明眸を扉の傍らで直立する男性警察官へと投げた。そしてポケットから名刺ほどの大きさのメモ用紙を取り出すと、警察官に近づいてそれをおずおず手渡した。悟がの背中越しに覗き込めば、黒猫のイラストが描かれたメモ用紙に十一桁の数字が横一列に行儀良く並んでいた。

「あ、あの、これ、わたしの携帯番号です」
「えっ、お前老け専だったの?」

 内気な女子学生をごく自然に演じ始めたに、悟は素っ頓狂な声を上げた。壮年の警察官の胡乱な視線を黙殺したまま、ひとり納得した様子で何度も深く頷いてみせた。

「なるほどね。道理で俺に微塵も靡かないわけだよ」
「……五条くん」

 は呆れ返った瞳で悟を厳しく穿つや、すぐに警察官に目線を転じて説明を付け加えた。

「多分、次の火曜日に同じような死体が出ると思います。見つけ次第、連絡いただけますか」

 その言葉に頷いた警察官から遠く離れるように、は開け放たれた大きな窓のほうへ移動した。雨に濡れた床を踏んで窓辺に佇立するに、悟は落ち着いた口振りで質問を投げかけた。

「犯人に心当たりがあるんだ?」
「……はい」
「居場所は?」
「……わかりません。犯行現場を押さえるしかないと思います」

 どこか躊躇いを含んだ声音でぽつぽつと答えたの隣に立つと、悟はまるで表情の読み取れない横顔を視界の端に捉えた。指先に宿る微かな緊張を置き去りにして、黙り込んだへと手を伸ばす。そぼ濡れる雨景を眺めながら、髪を掻き乱すようにの小ぶりな頭をぐしゃぐしゃとやや乱暴に撫で付けた。

「わ」と小さく驚嘆を上げたから手を離すや、悟は皮膚一枚の下に全ての感情を押し込めて淀みない語調で告げた。

「今日の報告書は俺が書くから」
「……まさか虚偽の報告を上げるつもりですか?」
「まぁ騙せて数週間だろうけどね」

 次の瞬間、は血相を変えて悟を見上げた。

「やめてください!そんなことしたら減給や降格だけじゃ済まないですよ!」
「シッ!馬鹿ッ!声でけぇよ!」

 声を荒げたを鋭く制した悟は、努めて声量を落としながらかぶりを振った。

「減給も降格もどうでもいいよ。別に特級になりたくてなったわけじゃねぇし、自慢じゃねぇけど金にだって一切困ってないしな。それに“嘘がバレたら”の話だろ?その前に真犯人捕まえりゃ何の問題もないでしょ」
「そうやって簡単に言いますけど――」
「犯人の狙いはだよな?」

 断定するような強い口調で抗弁を遮れば、は諦めた様子で僅かに目を伏せた。言葉以上のその態度に、悟は軽薄な笑みを浮かべる。

「大丈夫だって。それさえわかってんなら充分に対策は打てる」
「……でも、だからって」
「だからもへちまもないから。もしが今ここで捕まったら何が何でも“黒”にされるよ?最初から犯人とグルだったとか何とか、適当な理由こじつけられてあっという間に地下牢行きだ。しかも、生きて出られる保証はどこにもない」

 説得の言葉が途切れるや、は僅かに俯けたかんばせを持ち上げた。黒いサングラスの向こう、青よりもなお蒼い碧眼を見つめながらひどく儚げに笑んでみせた。

「知ってますよ、そんなこと」
「それなら――」
「楽厳寺学長は最初からそのつもりで、わたしを東京に行かせたんです」

 耳朶を打った告白に悟の相貌が大きく歪んだ。「……は?」と咄嗟にこぼれ落ちた驚嘆が、絶え間なく続く秋霖の響きと撹拌しながら消えていく。は右方へ視線を滑らせると、人としての尊厳を際限なく奪われた死体を見つめて淡々と言った。

「あの補助監督さん、知ってます。あの夜、由基ちゃんと一緒にいましたから」

 全身から血の気が引く音を確かに聞いた。みるみる青ざめた悟の大きな手があっという間に硬い拳を作り上げる。

 京都校でへのいじめが黙認されている理由を思えば当然だった。学長を務める楽厳寺嘉伸は補助監督が殺された理由に気づいたのだろう。だからこそ姉妹校交流学習制度に強く反発することなく、悟の思惑通りにを東京に寄越したのだ。無論、を捕らえて殺すために。

 上層部にとって――呪術総監部にとって、おそらくは邪魔な人間なのだろう。倫理に反する非人道的な“実験”が公になることを恐れているのか、はたまた他の理由なのかは定かではないが、悟にとってはその理由が何であれほとんど同じことだった。

 楽厳寺はもとよりを殺したかったのだろうが、京都校の生徒に何かあれば間違いなく自身にも疑いの目が向く。自分の手を離れた東京でなら何が起こったとしても言い逃れはできるし、監督不行き届きとして東京校の学長や交流学習制度を推し進めた夜蛾を強く糾弾することも可能だろう。

 つまり悟は策を講じたつもりが、逆にまんまと利用されたのだ。

 深い後悔の色が走る顔を伏せ、悟は小さく舌打ちした。爪が喰い込むほど拳を硬く握りしめながら、無言でただ静かに雨景を眺めやるに言った。

「……悪い、しくった。俺のせいだ」
「違いますよ」
「違わねぇよ!」

 激しく叩き付けるように怒号した悟に、警察官の怪訝な双眸が向いた。は白髪頭を垂れ下げたままの悟に半歩近づくと、落ち着き払った口調でそっと囁いた。

「調査は終わりましたし、早く出ましょう。これ以上ここで話し続けるのはやめたほうがいいです」

 鮮やかなマリーゴールドに溺れる部屋を出たは、警察官と丁寧な挨拶を交わして現場を後にした。人払いの済んだ静謐な廊下を歩きながら、半歩後ろに続く悟を首だけで振り返った。

「良かったじゃないですか。わたし、もう京都には帰れませんよ?」

 まるで人が変わったように無言を貫く悟を励ますつもりなのだろうが、その揶揄するような発言は悟の心をさらに激しく毛羽立たせるだけだった。がどうしてそうも平気な顔をしていられるのかが、悟には心底わからなかった。

 辛抱ならなくなった悟は、鬱積を孕んだ険しい視線とともに問いかけた。

「……最初から知ってたなら何で来たんだよ」

 しかしは何も答えず、悟を軽く一瞥して首を元に戻した。悟がその場で足を止めれば、も一拍遅れて立ち止まった。再び振り返ったを感情の失せた明眸でじっと見つめたまま、悟は声の調子を変えることなく続けた。

「次の火曜って言ってたよな」
「はい」
「俺にも連絡しろ」

 一寸の隙もない声音を投げ付けて携帯を取り出すや、悟は素早くボタンを連打した。数秒と経たぬうちにのポケットから無機的な着信音が流れ始める。

 悟の脳裏に浮かぶのは黒猫が描かれた小さなメモ用紙だった。行儀良く肩を並べた十一桁の数字が、悟の携帯とのそれを確かに強く結び付けていた。

 眉間に深い皺を刻んだがうんざりとした様子で肩をすくめたが、しかし悟は取り合うことなく言葉を継いだ。

「それ俺の番号。絶対連絡しろよ」
「盗み見は感心しないです」
「そこは俺の記憶力を褒め称えるとこでしょ」

 落胆したようにかぶりを振った悟の声音には、いつもの軽薄な響きが戻りつつあった。小さな溜息を落としたは廊下を歩き出すと、突き当たりのエレベーターのボタンをゆっくりと押した。悟は背後からの顔を覗き込んで尋ねた。

「結局あの異様な部屋って何だったわけ。何か意味あんだろ」
「サンタ・ムエルテ信仰です。あの部屋全体が祭壇でした。オフレンダ――供物も複数用意されていたので間違いないと思います。とは言っても犯人は信者などではなく、単に信仰をなぞらえただけのようですが……祭壇に最も重要な聖像がないことがその理由です」
「……サンタ・ムエルテ?」

 全く耳馴染みのない言葉に悟は首をひねった。はエレベーターの操作盤に目を置いたまま、やや間を挟んで唇を開いた。

「メキシコの聖人信仰で、信者は約三百万人。カトリックに対抗する骸骨聖像崇拝だとか新興宗教だとか麻薬組織のカルトだとか、起源のはっきりしない民衆文化ゆえに色々と好き放題言われていますが、サンタ・ムエルテは既存の宗教では救うことのできない苦しみも救う、謂わば新たな魂の救済です」

 全く詰まることのない饒舌な口調に、悟が片眉を持ち上げた。

「やけに詳しいな。お前もそうなの?」
「……昔、少しだけ。今は無宗教ですけどね」

 はそう言って否定すると、到着したエレベーターに先に乗るよう瞳だけで悟を促した。それに大人しく従った悟はさほど広くもないエレベーターの冷たい壁に背中を預け、遅れて乗り込んだの後ろ姿を無言で見つめた。

 今の悟がの信頼に足る人間ではないことは嫌というほど理解していた。さすがにそれ以上は土足で踏み込んではいけないような気はしたが、どうしても好奇心を押さえ付けることができなかった。の様子を窺いながら、悟はどこか躊躇いを含んだ口振りで質問を紡いだ。

「信仰やめた理由、訊いてもいい?」
「簡単な話です」

 は苦笑を滲ませて頷いた。エレベーターの無機質な扉が隙間なく閉まっていく。どこにも逃げ場のなくなった四角い匣のなかで、はやや俯き気味に掠れた声を押し出した。

「……どれだけ祈りを捧げても、誰もわたしを助けてくれなかったので」