間奏 -前-
「じゃあ棘くんは何をくれるの?」
棘はその問いを至極真っ当だと捉えていた。料理をするのは決して嫌いではないが、毎日したいかと問われたならば、たちまち答えに窮するだろう。毎日違うメニューを考えられる自信はないし、散らかった調理場の片付けなどはひどく億劫だった。
そもそも呪術高専には食堂があるし、少し歩く必要はあるものの近くにコンビニも存在している。料理を作る必要性などないと言えなくもなかった。現に棘自身、自炊をほとんど行っていなかった。小腹が空いたときにお湯を注いでカップ麺を作るくらいのものだ。それを自炊に含めていいかは不明だが。
料理という行為そのものから遠く離れた棘が、同じように寮で暮らす
に週五日の弁当作りを要求するのは、どう考えても身勝手だった。呪いが湧き続ける繁忙期に、
の仕事を棘が全て引き受けるからこそ公平性を保っているのだ。繁忙期が終わっても弁当を作ってほしいという願いは、棘だけが得をするものだった。
が“フェアではない”と詰るのは当然だった。
口が滑ったと思ったし、調子に乗ってしまったと自分を恥じた。現実味を帯びた
との未来が棘の頭の中だけのものであり、
と共有できる段階に至ってはいないと理解が及んでいなかった。たとえ共有できたとしても、打算的な面を持ち合わせる
が公平性を欠くような要求を飲むとは思えなかった。
もっとよく考えればよかった。すぐにわかったことなのに。棘は真面目な顔を伏せて、じっと考えた。五条に呼ばれた
が戻ってくるまでに、何か言わなくてはならなかった。手渡された弁当を思い返しながら、諦めきれない感情が絶えず溢れていくのを感じた。
できることなら、
の弁当をずっと食べたい。どれだけ考えてみても、棘の本音は揺らぐことがなかった。
棘は
の弁当をずっと心待ちにしていた。心が浮き立ったせいで今朝はスマホのアラームが鳴り響く前に起きたし、約束の時間の三十分前には高専の出入口で待機していた。弁当を
から受け取った後は気もそぞろで、午前中に片付けた仕事のことはよく覚えていない。
待ち望んだ弁当に手を付けたのは、次の任務先に向かう道中だった。道の脇に停車した送迎車の中で、黒いランチバッグから和柄の風呂敷に包まれた弁当箱を取り出した。
シンプルなデザインの黒い弁当箱は二段組で、容量がたっぷり入る大きさだった。
はよく食べる棘のことを考えた上で、それを選んでくれたようだった。
棘はふと気づいた。弁当箱を固定する平ゴムと上段の蓋との間に、名刺と同等サイズの四角い紙が挟まっていた。指で引っぱり出し、何だこれはと裏返してみて、心底驚いた。それは手書きのメッセージカードだった。
薄い黄色の小さなカードには、“繁忙期は始まったばかり!棘くんファイト!”と丸みを帯びた綺麗な文字が並んでいた。言葉の最後には小さなハートマークまで添えられていて、棘はポカンとしてしまった。
思わぬ不意打ちを食らった脳が状況を理解するや否や、棘は慌てて俯いた。運転席に座る見知らぬ補助監督に、だらしなく緩んだ顔を見られたくなくて。
ばくばくとうるさく脈打つ鼓動を静めるために、ゆっくりと呼吸を繰り返した。堪らなかった。軽い眩暈がしていた。何故こんな可愛いことをするのか、小一時間問い詰めてやりたかった。
に会いたくて仕方がなかったし、抱きしめて気の済むまでキスがしたくなった。
感情が昂ったまま、黙々と弁当を食べた。とても豪華な弁当だった。おかずは事前に伝えていた棘のリクエストばかりが詰め込まれていて、
の優しさに胸が詰まった。それでいて彩りは豊かだし、何より味が良かった。濃くもなく薄くもなく、白米を食べる手が進むような味付けだった。
食べ終わるのが惜しいと思うほどの出来だった。メッセージカードは捨てることなく、財布の中にそうっと仕舞い込んだ。
繁忙期の間はずっとこのカード付きの弁当が食べられるのだと思うだけで、微塵も湧き上がってこなかったはずのやる気が湯水のように溢れ出した。繁忙期への嫌悪感はあっという間に消え失せていた。我ながら単純だなと苦笑しつつ、棘は黒いランチバッグのファスナーを閉めた。
「わたしに何をくれますか?」
の試すような声が、棘を現実へと引き戻した。棘は制服の首元に鼻先まですっぽりと埋めた。
とても難しい問題だった。欲しいものを強請られるほうがずっと楽だと思った。
の愛情が込められた週五日の弁当に見合うものが、なかなか思い浮かばなかった。
だいたい与えられた条件の幅が広すぎるのだ。食べられるものかそうでないものかはもちろんだが、弁当のように毎日少しずつ渡せばいいのか、それとも一週間なり一月なりの分をまとめて渡せばいいのか、それすらも検討がつかない。入り組んだ迷路に突き落とされたような気分だった。
しかし棘はそれでも愚直に思案した。
が貰って喜びそうなものを考え続けた。弁当を諦めるという選択肢は存在していなかったから。何かを差し出せば食べられるというなら、差し出せるものであれば何でも差し出すつもりだった。それほど食べたかった。
しばらく考えてみたものの、“自分には結論が出せない”というのが棘の結論だった。棘の提示したものが弁当に釣り合うかどうかの判断は、棘ではなく
が下すのだ。となれば、一人で悩んだところでどうしようもなかった。
欲しいものを直接訊いてみるかと思った矢先、当の
が資料室に戻ってきた。棘は顔を上げて
を視界に収め、それから気だるい眼を大きく見開いた。
その場に立ち尽くす
の目は真っ赤に充血し、青ざめた頬には涙が伝ったような痕がくっきりと残っていた。頭が真っ白になって、ひゅうっと喉が鳴った。棘は慌てて駆け寄った。足がもつれそうになりながら。
「高菜っ」
と、勢いのままに声をかければ、
は棘に氷点下の眼差しを寄越した。凍てついた瞳に棘の喉がひりついた。ひどく傷ついているのが手に取るようにわかった。五条に何か酷いことを言われたのだろうと思いながら、
を傷つけないように優しく続けた。五条への明確な殺意を抱きながら。
「高菜」
すると
は瞬きを数回繰り返した後、血の気の失せた唇を僅かに開いた。
「母が、手術を受けることになった」
予想だにしなかった言葉だった。少し間を空けてから、棘は冷静に訊いた。
「ツナ」
「今月末。子宮に腫瘍が見つかったんだって。悪性かどうかは、まだわからない」
冷えきった声だった。抑揚もなく、感情がうまく読み取れなかった。凍原をたった一人で歩いているようだった。深く傷ついていることだけが理解できる声音だった。
「抱きしめていい?」
すぐに続けられたその問いに、棘はとても怖くなった。いつもと違うものを確かに感じていた。軽く触れるだけで、
がバラバラに崩れてしまいそうだった。目を離した隙にふらっとどこかに消えてしまいそうな危うさが漏れ出していた。
すぐに答えられずにいると、「少しだけでいいから」と
は付け足した。瞬きをする一瞬の間に、
が離れていくような気がした。慌てふためいた棘は、こくこくと何度も頷いた。
棘が頷いたことを確認した
は、言葉通り棘を抱きしめた。だがその手付きは心許なく、抱きしめるというより身を寄せるという表現のほうがずっと合っていた。
は棘から体を離した。触れ合っていた時間は十秒にも満たなかった。
「ありがとう。もう平気」
「高菜」
「うん」
そして、感情の消えた顔で、ぽつっと呟いた。
「……お金のこと、聞きそびれた」
がらんどうの声が肌に突き刺さり、鋭い痛みを持った。薄氷の上を一人で歩いているような
にかける言葉が、いつまで経っても見つからなかった。
は鼻先を机のほうに向けた。置きっぱなしの黒い背表紙の本を元の場所に片付けると、まごついている棘に目をやった。そこでようやく、ぎこちない笑みを浮かべた。
「五条先生に聞いてくるね。お弁当、明日からも楽しみにしてて。じゃあ……おやすみ」
クリアファイルとランチバッグを抱えて、
は足早に資料室を出て行った。追いかけようとも思ったが、棘の足は鉛のように重くなっていて、まったく前に進まなかった。
は触れてくれるなとでも言いたげな凍てついた空気を纏っていた。
との間に横たわる大きな溝を越えられるだけのすべは、持ち合わせていなかった。
扉の閉じる乾いた音だけが棘の耳にこびりついて、いつまでも離れてはくれなかった。
翌朝の寝覚めは悪かった。
の冷え込んだ視線がずっと目蓋の裏に張り付いていて、深く眠ることができなかったせいだろう。
が心配だった。ひどく思い詰めた瞳をしていた。あの様子で弁当など作ってくるはずがないことはわかっていたが、棘は
との約束の場所へ早めに向かった。
がやってこないことを確かめたくて。
呪術高専の出入口に到着するなり、棘は眉をひそめた。呪いである
の濃い残穢が、門の外へ点々と続いていたせいで。門からぬっと顔を出して、浮かび上がる残穢を目で辿った。それは途切れることなく長く伸びていて、駅のほうまで繋がっているような気がした。
棘の内側で焦燥が渦を巻いていた。すぐにスマホを取り出したが、
からの連絡は入っていなかった。連絡するかどうかを迷いながらも、
の言葉を信じたいと思っていた。「お弁当、明日からも楽しみにしてて」と言ったのは、他でもない
自身だったから。
スマホを片手に待ち続けること三十分。門の前でじっと佇む棘の目の前に現れたのは、
ではなく真希だった。
「これ、
から」
と、ぶっきらぼうな台詞とともに、黒いランチバッグを手渡された。棘はそれを受け取って、浮かんだ疑問をそのまま口に出した。焦燥が不安に変わっていくことを感覚しながら。
「ツナマヨ」
「
?仕事だけど……なんだ、悟から聞いてねえのか」
「こんぶ」
「母親の手術費とその他諸々を稼ぐためだよ」
真希はあっさりと告げた。
「母親が働けない間の金も稼いでおくって。家賃とか光熱費とかな。呪術師は仕事した分が金になるから――」
「高菜」
言い終わる前に口を挟むと、真希が肩をすくめた。
「悟が貸すって言ったらしいんだが、他人と金の貸し借りだけは死んでもしたくねえって
が断ったんだと。だから悟にも上層部にも頭下げて、今日から十日間過労死するレベルの仕事量をねじ込んだって。歩合って言っても、学生は仕事一件当たりの単価自体が安いだろ?それだけ入れたって手術費が賄えるかどうかもわかんねえのに……無茶苦茶だろ、アイツ」
「おかか」
「ああ、日帰りだって聞いてる。それ作らなきゃならねえからって」
黒いランチバッグを指差され、言葉が出てこなかった。下唇をきつく噛みしめたそのとき、手に持っていたスマホが鳴り響いた。
からの着信かと期待したが、画面に表示されている名は“パンダ”だった。
「あ、棘?おはよう。硝子が呼んでるぞ。今すぐ医務室に来いってさ」
「……しゃけ」
棘は頷くと、スマホをポケットに滑り込ませた。刺すような視線を感じて顔を向ければ、真希は不安の滲んだ表情で言った。
「
、ちゃんと人間に戻れんのか?」
「ツナ」
「手術日までに人間に戻るって悟に啖呵切ったらしいけど……戻る方法が見つかったなんて話、一度も聞いたことねえぞ。なあ、棘は何か知ってるんだよな?」
厳しい声に問い詰められ、棘は逃げるように顔を伏せた。手のひらに乗った白い骨が脳裏に浮かび、小さくかぶりを振るので精一杯だった。
「そうか……だったら、やっぱり死ぬつもりか」
棘はぱっと顔を上げた。真希の目は真剣そのものだった。
「悟が言ってたんだ。
から弔慰金について訊かれたって。自分が死んだとき高専からいくら支給されるのか、
は全部計算して仕事を詰めたってわけか。らしいというか何というか。いっそ清々しいな」
体が小刻みに震えていた。認めたくなかった。薄っすらと笑う真希を否定したかった。棘は上擦った声を放った。何かにつけて「人間に戻ったらね」と繰り返した
の言葉を信じたい一心で。
「おかかっ」
「はあ?
はそういう奴だろ。私よりお前のほうがよく知ってるんじゃねえのかよ」
ぐっと声が詰まった。その通りだった。
は“今”が続いた先に“未来”があることを深く理解している人間であり、先の先まで見据えた上での“最善”を選択できる人間だった。だからこそ選択を間違えないことに心血を注いでいたし、そのためなら今の自分が傷つくことも厭わなかった。
医務室へ急いでいるふうを装って、棘はその場から逃げ出した。耐えられなかった。容赦なく現実を突きつける真希に、心をへし折られてしまいそうで。ランチバッグを手に医務室へ向かった。逸る気持ちが足に伝わったのだろう、予想していたよりもずっと早く到着した。
棘を待っていたのは、医師の家入硝子だった。医師免許を持った呪術師である家入は「結果が来た」と言って、手触りのいい小さな木箱と白い封筒を棘に手渡した。棘はランチバッグを脇に抱え、荒れた呼吸を整えながらそれらを受け取った。
と昼まで惰眠を貪った一昨日、棘は午後の仕事終わりに
の実家に立ち寄った。
の部屋から人間だった頃の毛髪を採取し、家入を介してDNA鑑定を依頼していたのだ。あの白い骨の持ち主が、本当に
であるかを確かめるために。
そういえばと棘は思った。あのとき
の母親は呪いになった
の心配をするばかりで、自分の体のことを何も口にしていなかったし、体調が悪そうな素振りも見せていなかった。確信が持てるまでは
に余計な心配はかけるまいと考えていたのだろう。
よく似た性格の親子だなと思いつつ、棘は白い封筒の中から数枚の紙を取り出した。封は開けられていた。どうやら家入が先に目を通したようだった。棘は折りたたまれた紙に目を滑らせていった。
視線が紙の真ん中あたりに差し掛かったとき、ゆっくりと息を吐き出した。自分の気持ちを落ち着けるために。全ての空気が外へ追いやられていた。肺がぺしゃんこになるほどだった。
家入は静かに告げた。
「ほぼ百パーセント、
の骨だよ」
不思議なほど落胆はしなかった。きっとそうだろうという思いのほうが強かったから。疑惑が確信に変わっただけだった。
の死がひたひたと近づいているような気がした。取り戻すべき体がどこにもないのは紛れもない事実だった。叫び出したい衝動に駆られながらも、棘は結果の記された紙を封筒に仕舞った。紙を持つ手は震えていた。
それから、手に持っていた木箱の蓋をそっと外した。
の骨が収められていて、予想はしていたものの、少し驚いてしまった。棘は白い布に包んで渡しただけだったから。
「桐箱のほうが良かったか?」
その問いに棘はかぶりを振った。家入の細やかな気遣いに感謝しつつ、中をじっと見つめた。小さな木箱の底にはつるりとした質感の純白のクッションが敷かれており、中央の窪みに埋めるように、小さな白骨がみっつ横たえられていた。
蓋をはめ込んでいると、家入の視線を感じた。何が言いたいのかを察するのは容易だった。応えるように、棘は深く頷いた。
「こんぶ」
「ああ、きっとそのほうがいい。他の連中には口止めをしておくよ」
「しゃけ……」
「現実は残酷だな」
家入の同情するような声音に、棘は何も答えなかった。呪いと関われば、目にするのは残酷で理不尽な現実ばかりだった。何も
の現実だけが残酷なわけではなかった。棘は何度も自分にそう言い聞かせた。そうでもしなければ、何故
がこんな目に遭わなければならないのかという疑問が、途方もない殺意に変わってしまいそうだったから。
今日の棘に与えられた仕事は、午前の一件のみだった。この繁忙期にもかかわらず。それも三級呪霊を祓う簡単な仕事だった。準一級術師である棘が引き受けるような内容ではなかった。考えずとも、棘の仕事を
に奪われたことを理解した。
さっと仕事を済ませた後、高専まで送り届けるという補助監督の申し出を断って、棘はすぐ近くの公園で弁当を開いた。どんよりとした曇り空が広がっていたが、なんとなく外で食べたい気分だった。
メッセージカードには“今日は夕方から雨だそうです。濡れて風邪引かないでね。”と記されており、弁当は昨日と変わらず彩り豊かで美味だった。
奥歯をきつく噛みしめた。棘の心配をしている場合ではないはずだった。弁当作りを放棄してくれたほうがずっと良かったとすら思った。悔しさやもどかしさで顔が歪むのを感じながら、棘はおかずを口の中へ放り込んでいった。
空になった弁当箱を片付けた後、優しさの滲むカードを見つめた。
と棘の間に公平性など欠片も残っていなかった。「フェアじゃない」と言った
の声が頭に響いていた。
それでも
が棘の弁当を作った理由がわからなかった。単に一度引き受けたことは最後までやり抜きたい一心なのか、それとも死を間際にして悔いを残したくないのか。ただの意地のように思えてならなかった。
が何を考えているのか、さっぱり理解できなかった。
どれだけ考えても、これといった理由には辿り着けなかった。棘はカードを財布に仕舞い込むと、軽くなったランチバッグを片手に最寄り駅へと向かった。
≪ 前へ 目次 次へ ≫