間奏 -後-
「すじこ」
パンダが肩をすぼめて、棘の言葉を復唱した。
「いっそ嫌いになりたい、か。
を傷つけてしまう前に?」
「……しゃけ」
棘にはわからなかった。今の
と棘の関係を言い表す言葉が。
恋人のように手を繋いで、抱き合って、キスまでするこの関係に名前はなかった。あやふやでひどく曖昧だった。
はそれでもいいのかもしれないが、棘にはもう物足りなかった。限界だった。それでは駄目だと思ってしまったから。
早く言葉にして輪郭を持たせなければ、
が他の誰かに盗られてしまう。棘以外の誰かと結ばれてしまう。そんなことになれば自分は本当に気が狂ってしまうかもしれない、棘はそう思っていた。
が欲しかった。心も体も全部。気持ちを確かめられるだけでよかったのに、キスができるだけで幸せだったのに、もっと欲しくなっている。底のない欲望が溢れていた。さっさとこの曖昧な関係に終止符を打って、隅々まで刻み付けたかった。
が棘の恋人であることを知らしめるために。
途方もない欲望が、棘の支配下から外れようとしていた。棘は窓の外に目をやったまま、自分に言い聞かせるように言った。
「おかか」
傷つけたくないから、全部なかったことにしようと思う――それが棘の結論だった。
はこの関係に名前を付けようとしないだろう。そんなことを望んではいないだろう。人間に戻ることが何よりも先だから。
冷静でいられる自信がなかった。いつかきっと本当に言葉で呪ってしまう。
を傷つけてしまうなら、いっそ離れたほうがいいだろう。相手は特級の呪いとはいえ、棘の歪んだ呪いを受けて無事で済むとは思えなかった。
「ただ逃げてるだけだろ。傷つけねえように立ち回ることもできねえのか。好きならそれくらいしろよ」
吐き捨てた真希がバックミラーに視線を送った。棘と鏡越しに目が合った。棘の表情には何も変化はなかったが、その気だるい瞳の奥には怒気が滲んでいた。
「それともアレか?伊地知が上にチクるから殊勝なことでも言っておこうってか?そんなことしねえよな、伊地知」
「も、もちろんですっ!」
話を振られた伊地知が答えると、真希は氷点下の声音で続けた。
「それがお前の本音だって言うなら、私と憂太とパンダでシメるからな」
「……しゃけ」
「わかった。シメる」
棘は真希に怒りを覚えた。この呪言のせいで今までどれだけ悩んできたかも知らないくせに、そう易々と非難されたくなかった。関係のない人を呪って傷つけて、その度にひどく後悔してきた。
を傷つけてしまったら、それこそ悔やんでも悔やみきれないだろう。
を傷つけたくないこの気持ちを、どうして理解できないのだろうか。好きだからこそ、傷つけないよう離れる決心をしたのだ。焼けるような痛みを孕んだ心が暴走して、取り返しのつかないことにならないうちに。
車内に息も詰まるような重苦しい空気が漂って数分が経ったとき、
「あのぅ……私が口を出すところではないことは、重々承知の上なのですが……」
と、緊張した面持ちの伊地知が前置きをした。誰一人として反応しなかったのをいいことに、伊地知はぼそぼそと話し始めた。
「狗巻準一級術師……呪霊である
特級術師(仮)と交際するつもりであれば、今以上に風当たりが強くなるのは必至かと。今回のことも……上からの指示で、情報の一部を故意に伏せました。本当に申し訳なく思っていますが――」
「言いなりになってんじゃねえよ」
「上と下に挟まれる私の気持ちにもなって下さいっ!」
切迫した様子で真希に訴えかけると、大きく息を吐き出した。伊地知はちらっとバックミラー越しに棘を見つめ、落ち着いた声で言った。
「狗巻準一級術師のその判断は、呪術師として正しいと思います。上層部は稀有な術式を持つあなたの目が覚めることを待ち望んでいますし、もし
特級術師(仮)が自我を失ったときは、どれだけの犠牲を払っても“呪い”として祓わなければなりません。余計な情は抱かないほうがいいでしょう」
伊地知はすらすらと言い終えると、今度は少し言いにくそうに切り出した。
「ですが……ここからは補助監督としてではなく、君より少し長く生きた一人の男として言わせて下さい」
棘がおもむろに目を上げた。伊地知はもうまっすぐ前を見ていた。
「後悔しますよ。絶対に」
赤信号で車が止まった。棘は伊地知の後頭部を凝視し、次の言葉を待った。
「数年前の話になりますが……私は、ある一人の女性と交際を始めました。その女性は呪いがまったく見えない方で、私は術師であることを伏せて交際を続けていました」
「おい、伊地知の恋バナが始まったぞ」
「興味ねえ。聞きたくねえ」
「ああもうっ、茶化さないで下さいよ!」
茶々を入れたパンダと真希はにやにやしていたが、棘だけは伊地知の言葉をしっかり受け止めようとしていた。自分に何か大切なことを伝えようとしているのがわかったから。
「二人で出かけた先で、目が合った呪いに襲われることも少なくありませんでした。それが私だけならよかった。彼女に悟られないよう呪いを祓ったり逃げたりすればいいだけの話ですから。ですが、あるとき……彼女を、巻き込んでしまいました。幸い彼女は腕の骨折だけで済みましたが、私が彼女を危険に晒し、傷つけてしまったも同然でした」
伊地知は当時の痛みを思い出すように言った。アクセルを緩やかに踏み込み、車を発進させる。
「全てを打ち明けても、彼女は私を愛していると言ってくれました。でも、私が耐えられなかった。誰よりも守りたかった彼女を傷つけてしまった事実に。身を引くことが彼女のためだと思いました。彼女の幸せだと思いました。そして、彼女は私と別れた後に交際した男性と、すぐに結婚しました」
「……ツナ」
続きを促すように、棘がそれで?と言った。伊地知は声のトーンを少し下げ、やや間を空けてから続けた。
「共通の知人から結婚式の写真を見せてもらって、言葉を失いました。彼女はとても綺麗で、本当に幸せそうで……それはもう後悔しましたよ。相手が私でないという事実に打ちのめされて、我慢ならないほど辛くて、しばらくはろくに眠れもしませんでした。五条さんには半ば強引に有休を取らされましたが、一人になると余計に駄目で、結局五条さんや七海さんに三日三晩飲みに付き合ってもらったりして……」
「しゃけ……」
「やっと気づきました。私が弱かっただけだと。傷つけたくないなら傷つけないよう振る舞えばよかった。必要なことはそれだけだったのに、どうしてそうしなかったのかと」
伊地知は再び言葉を切って、バックミラーに目をやった。棘と視線が絡むと、ふっと口元を緩ませた。自虐的な笑みだった。
「だから何だと思われているかもしれません……こんな話、ただのお節介でしょう。君と私では抱えている問題も状況も違いますしね。くだらない感傷に浸り、自分に酔っている男の戯言だと聞き流してくれて結構です。ですが……今も後悔していることは紛れもない事実である、ということだけは……どうか理解して頂きたい」
棘は何も言えず、そっと目を伏せた。流れた沈黙を裂くように、パンダが小さく笑った。
「伊地知が馬鹿な恋愛してるなんてな。ちょっと意外だ」
「馬鹿な恋愛ばかりですよ。ですが、皆さんそうでしょう?澄ました恋愛のどこが本気なんですか」
その返答にパンダは困ったように肩をすくめた。それから、血で湿った制服に顔を埋める棘に顔を向けた。
「何を迷ってるんだよ。伊地知みたいに後悔するつもりか?さっさと告白すればいいだけの話だろ。
を棘のものにできたら、悩んでることはほとんど解決するんじゃないのか」
「呪言のことなら気にしなくていい。もうお前はとっくに
を呪ってんだから」
続いた真希の言葉に、棘は目を瞠った。勢いよく顔を上げて、助手席に座る真希を射るように見つめた。たった今、真希が何を言ったのか、よくわからなかったのだが。
真希は眉ひとつ動かさず、淡々と告げた。
「
が“呪い”になったのは、お前のせいだよ」
あまりのことに、棘は瞬きすらできなかった。理解が追い付かず、ただ呆然とした。真希は硬直した棘を鏡越しに一瞥すると、少し呆れたように言った。
「体を取り返すヒントを探すために、
の記憶を一から辿っていったんだ。神隠しに遭ったところから事細かにな。そうしたら、秘匿死刑が終わった後に見た“夢”の中で、棘の声を聞いたって言うんだよ。“
、逝くな”って声がしたって」
棘の息が止まって、みるみるうちに顔が青ざめていった。寒くもないのに体が小刻みに震えていた。項垂れた棘を覗き込んで、パンダが労わるように言った。
「棘が
を呪いにしたんだ。多分、間違いない」
「……すじこ」
「うん、俺も憂太も知ってる。当然だけど、悟も知ってるよ」
「おかか」
「
は知らない。でも、棘が原因だってことには気づいてる。棘に助けられたって言ってたからな」
棘は膝の上に置いた拳を力いっぱい握りしめた。爪が皮膚を突き破り、指先にぬめりを感じた。頭を深く垂らしたまま、振り絞るように尋ねた。
「こんぶ」
「口止めされてたんだ。棘には絶対迷惑かけたくないから何も言うなって。もう散々迷惑かけたからって」
その言葉に下唇を噛んだ。何も知らなかった自分の愚かさに吐き気がしたし、とっくに
を傷つけてしまっていたことに深く絶望した。
信じたくはないが辻褄は合っていた。ずっと疑問だったのだ、どうして
が呪いになってしまったのか。偶然が重なったのかと思っていたが、そうではなかった。簡単な話だった。棘のせいだった。棘が呪言で
を縛り付けたのだ。
体を押し潰されるような痛みが棘を襲っていた。儀式から逃がせなかったことから始まって、
の日常を奪ったのは他の誰でもない棘だった。
に不自由な生活を強いているのは棘だった。
ものすごい恐怖だった。罪の意識が棘の首を絞めていた。思いきり突き飛ばされて、何も見えない暗闇に落ちていく感覚がした。
この二ヶ月あまり、
はどんな気持ちで棘に接していたのだろう。どんな気持ちで棘と一緒に体を取り戻すヒントを探していたのだろう。
は棘を責めなかった。それどころか棘の気持ちを受け入れ、確かな熱を返してくれたのだ。
棘には理解できなかった。自分を一切詰ろうとしない
の気持ちが。
頭はひどく混乱して、取っ散らかっていた。込み上げる感情を抑えきれないまま、棘は衝動に任せて言葉を放った。
「おかか!」
「わかってやれよ。それくらい棘のことが大切なんだ」
「おかかっ!」
「棘が
の立場だったら、同じことをしたんじゃないのか?」
問いかけられた棘は一瞬だけ目を伏せたが、すぐにパンダを強く睨んだ。そうでもしないと、泣いてしまいそうだった。
「すじこ」
「そうだよ。俺達が棘に発破をかけてたのは、もちろん後悔させたくない理由もある。でもそれ以上に、呪いをかけ続けたほうがいいからだ。解呪したら、おそらく
は連れていかれる」
「人間に戻るまではそのまま呪ってろってことだな」
差し込まれた真希の言葉にパンダが頷いた。
「悟があそこまで棘を煽るのは、ほとんど自分が楽しむためだろうけど……きっと一割くらいは棘が
に執着するように――呪い続けられるようにって意識した行動だと思うぞ。多分」
「いや、あの馬鹿目隠しのことだから、
のことは何も考えてねえだろ」
あっさりと否定すると、真希は棘を振り返った。その口元には勝ち気な笑みが浮かんでいた。
「歪んでるくらいの愛でちょうどいいんだよ。
にとってはな」
棘は背中を座席に深く預け、血生臭い制服に顔の半分をすっぽり埋めた。涙が溢れそうになるのを堪えながら、小さな声で呟いた。
「……ツナマヨ」
「
の気持ちがわかんねえなら直接訊け。でも答えはもう知ってるだろ。後はお前がどうするか、それだけなんじゃねえのかよ」
「伊地知と同じ道を辿るのか?棘の性格から考えて、きっと伊地知以上に引きずるぞ」
「想像する以上に苦しいので、あまりおすすめはできませんが……」
次々と投げかけられる言葉に、棘はふっと表情を緩めた。堪らない安堵だった。暗い場所から引っぱり上げられる感じがした。目蓋を閉じると生ぬるい何かが頬を伝った。それは後から後から溢れて、棘は慌てて顔を伏せた。見られるのは、さすがに恥ずかしかった。
「……おかか」
諦めたくないと棘は掠れた声で呟いた。あまりにも小さな声だったから、棘以外には聞こえていないようだった。
どれだけあやふやでも、ひどく曖昧でも、なかったことにはしたくなかった。
の中に感じた熱はどこまでも確かなものだったから。傷つけたくないなら、二度と
を傷つけないようにすればいいだけの話だった。好きなら自制してみせろ――そんなことを言ったのは、あの五条だったか。
考えなくてはいけないことはたくさんあるし、思考を鈍らせるほどの激痛は居座ったままだ。
が恵と宿泊するかもしれない現実が覆ったわけではないし、状況は何ひとつ変わっていない。
けれど、今は自らの気持ちに素直になりたかった。今なら正直になれそうだった。
「おかか」
そしてもう一度、今度は自らに言い聞かせるように同じことを言った。それは棘の決意表明だった。ようやく聞こえてきた棘の本音に、パンダと真希は小さく肩をすくめて、伊地知は薄く笑った。
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