独占欲の捌き方

「待ってください。さん、貴女、正気ですか?本気で夏油傑の宗教団体を潰すつもりだと?」

 僅かな焦燥を孕んだ低音を押し出しながら、七海建人は喪服じみたパンツスーツ姿の女を追った。長い廊下を軽やかな足取りで歩く女は、隣に追いついた七海に柔らかな視線を投げかける。

「うん、正気だよ。でも“潰す”はちょっと言い過ぎかなぁ。少しだけ痛い目を見てもらうだけだから」
「言い過ぎではありませんよ。貴女の言う“少しだけ”は言葉通りだった試しがない。信者を全員解放して一体どうするつもりですか」

 歩みを妨げんばかりの詰問だったが、女は嫌な顔ひとつしなかった。険しい表情を浮かべる七海に、麗らかな春の日差しにも似た笑みを寄越した。

「あのね七海くん、今週末のお泊まりデートの話なんだけどね」
「お断りします。どうせ作戦会議と事前準備がしたいという話でしょう」

 七海が先んじて言葉を奪うと、女はひどく楽しげに笑みを深くする。

「七海くんのその察しの良いところ、わたしとーっても好きだな」
「もう既にレイトショーのチケットを予約しているんですが」
「それはそれ、これはこれ。その後に話すから大丈夫だよ」
「映画の感想だけ話したい私の意見は無視ですか?」

 嘆息する七海の眉間に色濃い皺が刻まれる。こうして反論を軽々と受け流されるのは今日に限ったことではない。むしろ日常茶飯事だし、七海の反論が真正面から受け入れられることのほうが珍しい。

 職員室へと続く階段を数段上った女の細腕を、「さん」と七海は咄嗟に掴んでいた。このまま彼女を帰してしまえば、この話が終わってしまうことは充分にわかっていたから。

「夏油傑の宣言した百鬼夜行の日も近い。遅かれ早かれ宗教団体は解体されます。考え直してください」

 いつもなら女の強情さに折れているところだが、今回ばかりはそうもいかない。自ら危険に首を突っ込もうとしているのだから。しかし七海の懇願を聞いても、女の意思は変わらなかった。

「たとえ教祖がいなくなっても、信じるものはきっと何も変わらないよ」

 ひどく悲しげに眉を下げてそう言うと、背の高い七海を見下ろしながら言葉を継ぐ。

「決行日は十二月二十四日」
「勝手に話を進めないで下さ――今、何と言いました?……百鬼夜行の日?」

 怪訝な表情に塗り潰された七海の顔に、やや間を置いて真剣なそれが混じり始める。

「……たしかに相手は新宿と京都で手一杯、信者の集う各支部は手薄になるでしょうね。貴女のことですからおそらく狙いは多くないはず。目星を付けた支部だけを潰すにしても、当日の人員配置は既に決定して――」
「それについては五条くんにお願いしたから何とかなると思うよ」
「私の反対を見越して先に五条さんに話を通すとは周到ですね。それ、一体誰からの依頼ですか」

 たっぷりと嫌味を垂らし込んだ視線を送れば、女はその口元にどこか寂しげな色を纏った笑みを結ぶ。

「ちびっこたちだよ。天使みたいに可愛いの」

 眼鏡の奥で七海の双眸が大きく見開かれる。女の腕から手を離すと、感情を隠した声音で尋ねた。

「……まさか、信者の子ども?」

 女は小さく頷いた。

「昨日、避難区域で偶然見つけたんだ。何度も避難を促したんだけど、絶対家にいるって言うから詳しく聞いてみたら……」
「両親は夏油傑の宗教にハマって失踪していた訳ですか」

 言葉を引き取った七海に首肯を返すと、女は居た堪れない様子で視線を落とす。

「呪いの見えない子どもなんていらないって言われたんだって」
「……だから親を取り戻してほしいと?」
「そこまでは言われてないよ。パパとママに会いたいって、それだけ」

 同じ意味だと思いながらも七海は何も言わなかった。女の悔しそうな瞳をただじっと見つめ、淡々と紡がれる言葉に耳を傾ける。

「あの兄妹は夏油くんの思想に染まった両親の帰りをずっと待ってた。ガリガリに痩せた身体で、冷蔵庫の僅かな残り物で飢えを凌いで」

 女は七海の手を取るや、華奢な指を丁寧に折るようにして七海のそれを深く絡め取っていく。互いの手と手をきつく結び合わせると、困り果てた様子で眉尻を下げた。

「だからお願い、七海くん。ちょっとだけ甘えさせて?」
「いいえ、お断りします」

 間断なく返された抑揚の失せた言葉に、女は面喰らったようだった。

「あれ?予想外の反応……」
「当たり前でしょう」

 ひとつ嘆息すると、七海は特徴的な低い声に苛立ちを含ませて言った。

「何故こういうときだけ遠慮するんですか。私を使い潰す勢いで甘えてくるのがいつもの貴女では?」
「……えーっと?」

 女は苦笑を浮かべて首を傾げた。どうやら七海の言いたいことは上手く伝わらなかったらしい。七海は気まずげに鼻先を逸らすと、深く絡められた女の指に己のそれを軽く絡めた。

「“ちょっとだけ”では物足りないと言っているんです。……さんが、心配ですので」
「七海くん好きっ!」

 その瞬間、女は階段から飛び降りるようにして七海の首根っこに抱き付いた。突如宙を舞った女の身体を反射的に抱き留めた七海は、腕の中にすっぽりと収まる女に呆れ返った声を差し出す。

「……お願いですから危ないことはやめてください」

 二重の意味を込めて言えば、わかっているのかいないのか、女はひどく楽しそうな笑い声を上げる。

「七海くんがいるから無茶できるんだよ」
「そう言えば許されると思っている節がありますね」
「そんなことないよ?」
「全く説得力がありません」

 七海は女をそっと床に下ろした。女は満足げな微笑を結んだまま、表情の薄い七海の顔を見上げた。

「七海くん大好き。愛してる」
「知ってます。知ってますから離れてください」
「七海くん冷たい」
「……だから何度言えばわかるんですか。一社会人として職場での公私混同は控えてください。それに貴女は仮にも教師なんですから、分別を付けてもらわなければ困ります」
「五条くんよりは百倍マシだと思う」
「それは比較対象が悪すぎるだけです。あまり度が過ぎるなら校内での接触禁止令を出しますよ」
「うっ、ごめんなさい……続きは七海くんの家でします……」

 悲しみを滲ませて深く項垂れながら、女は七海から距離を取った。七海は再び階段を上っていく黒い背中に疑問を投げかける。

「宗教団体に関する資料などは?」
「伊地知くんに手配済みだよ」
「ではこの後の任務が終わり次第、私が受け取っておきます。ところで依頼主は今どこに?」
「昨日のうちに保護して、今は高専の息がかかった養護施設に。親があの子たちを“処分”するために戻ってくる可能性も考慮して、今まで住んでた家とその周辺には監視カメラを設置してる。何かあればすぐにわかるよ」
「抜かりないですね。上出来でしょう」

 軽快な足取りで階段を上り切った女が身体ごと振り向いた。七海に褒められたのがうれしいのだろう、幸せそうにはにかんでいる。少し悪戯心が疼き、七海は抑揚のない声音で言葉を続けた。

「一応確認しておきますが、私にタダで手伝えなんて言いませんよね?」
「当たり前だよ。労働大嫌いな七海くんにそんな無茶ぶりするわけありません。ってことで、七海くんのお願い、わたしが何でもひとつだけ叶えてあげます!」

 高らかな宣言とともに、女は自慢げに胸を張ってみせた。七海は何度か瞬きを繰り返すと、声の調子を僅かに低くする。

「……本当に何でも良いんですか」
「うん、何でも良いよ!」

 女の堂々とした表情からその思考が透けて見える。七海なら無理難題を口にしないはずだと高を括っているのだろう。「貴女という人は、そんな言葉を軽々と」と深く嘆息した七海は、女の双眸を真正面から見つめる。

「決めました。この件が無事に終わったら、私と結婚してください」
「……え?」
「何でも良いと言ったのはさんでしょう」

 緩慢な歩調で女の脇を通り過ぎれば、女は七海に追い縋るように隣にぴたりと張り付いた。

「えっと、それは、七海になるってこと?」
「旧姓を名乗りたいならそうしてもらって結構ですが」
「あの、どうして、このタイミング?」

 その問いに七海が足を止めた。不思議そうに首を傾げる女に視線を落とし、淡々とした口調で理由を説明していく。

「百鬼夜行が予告されたこの状況でも、普段と変わらず、弱い立場の人間を最優先に助けようとするさんを決して手放したくないと思った。ただそれだけです」

 やや間を置いて、女は表情の読めない顔で「そっか」と呟いた。もっとわかりやすい反応が返ってくると思っていた七海は拍子抜けしたし、何か気に障ったのだろうかと少し不安を覚える。

 しかし、すぐに「……そっかぁ」と間延びした声音が耳を打つ。それは喜びを噛みしめるかのような柔らかな響きだった。七海が「さん?」と女の名を呼べば、とても幸せそうな微笑みを寄越される。やっと実感が湧いたとでも言いたげな表情だった。

「どうしよう、俄然やる気出てきちゃったな。さくっと終わらせて、クリスマスイブのうちに役所へ行こ?」
「……それは、つまり」

 七海が答えを促せば、女は茶目っ気たっぷりに笑んでみせる。

「うん。これがとしての最後の仕事だよ」


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