02

「睡眠時間が短い子は少なくありませんが、産まれてから一度も寝ない子を見たのは初めてです」

 事の深刻さを滲ませる医者の言葉は、赤子の泣き声によってほとんど掻き消されていた。薄桃色を基調とした広い診察室ではありふれた光景だというのに、医者の表情はまるで苦虫を噛み潰したかのように険しいものだった。

 我が子の声音の隙間から聞こえた言葉を、両親は不安な面持ちで受け止める。産まれて間もない赤子を抱く母親はひどくやつれた様子で、その双眸には気の毒なほど暗い色が落ちている。

 出産は奇跡だ。どれだけ医療が発展を遂げようとも、赤ん坊が元気いっぱいに生まれてくることは当たり前ではない。

 だからこそ、安心できるお産のためにこの病院を選んだ。自宅からさほど遠くないことも理由のひとつだったが、一番の決め手はその充実した診療環境にあった。この病院は産科・婦人科・小児科を一手に担い、この土地で数十年も前から“女性の安心”をコンセプトとした地域医療を提供している。ここなら何が起こっても任せられるだろうと考えた結果だった。

 だというのに。

「しかも泣き止まないなんて……」

 壮年の医者は困り果てたように、眉間に深い皺を寄せるばかりだった。

 じっと顔を伏せたまま、母親は唇を強く噛んだ。そんな言葉が聞きたいわけではなかった。泣くことで懸命に何かを訴えようとする我が子を映した瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちていく。

 産まれてから三日が経とうとしているが、赤子が寝ているところを誰も見たことがない。医者に改めて言われずとも異常であることは理解していたし、赤子の泣き声が日に日に弱くなっていることに母親は大きな恐れを抱いていた。

 彼女の丸くなった背中を優しくさすって、父親が身を乗り出すように問いかける。

「病気ではないんですよね?」
「はい。検査結果は全て良好でしたから」
「……病気じゃないなら、悪霊のせいですか」

 医者の言葉に反応した母親が、意を決したように掠れた声を絞り出した。一向に泣き止む気配のない我が子を弱り切った視線でなぞりながら。

「同じ部屋に、霊感体質だっていう人がいて……その人に、悪いものが憑いているせいだ、って言われました……あなたの子は呪われているから泣き止まないんだって……やっぱりそうなんでしょうか……もしかして悪霊か何かに祟られて……」

 涙に濡れた細い声が途切れると、父親は医者から顔を逸らした。

「僕は全く信じていないんですが、妻がずっとこんな調子で……」

 医者は薄い唇を一文字に結んで、カルテに目を落とした。赤子を取り上げた日を確認すると、ややあって口を開いた。

「夏油さん、名付けはまだでしたよね?」

 突飛もない質問に、父親は詰まりながらも答えてみせた。

「あ、えっと、はい……女の子だと思っていたら、男の子だったので……」
「産土神社はどちらになりますか?」
「……う、うぶすな?」
「お宮参りをされる予定の神社はどこでしょう?」
「ええっと、確かこの病院の近くの大きな……」
「では、そこでお子さんの名付けをしてもらってください」

 父親の一重目蓋の下の瞳が何度も瞬いた。医者の提案を噛み砕くように、ゆっくりと言葉を繰り返す。

「……名付け、ですか?」
「ええ、そうです。お七夜に行われる命名奉告祭に必ず間に合うように」

 振り絞るような赤子の泣き声が絶え間なく響き渡っている。医者はその真摯な双眸で小さな赤子を一瞥すると、生真面目な口調で続けた。

「この子に“縁”があるならきっと会えるはずです。餅は餅屋に任せましょう」



* * *




 藁にもすがるような気持ちで件の神社に赴いたにも関わらず、赤子には何ら変化がなかった。

 命名にあたって話を聞いてくれた宮司はただ同情するだけで、解決に至るような知恵はひとつも貸してくれなかった。それは二人をひどく落ち込ませたし、特に母親の失望ぶりは目もあてられないほどだった。

 名付けを申し込んだ翌日、二人は重い足取りで再び社務所へと向かった。そうする他に方法がなかったからだ。神社の静寂を割くように赤子の泣き声が響いている。命名奉告祭が終われば状況は明るくなると信じたかったが、不安ばかりが頭をもたげていた。

 名の候補が記された数枚の薄い和紙を手に、社務所を後にしようとしたそのとき、

「こんにちは」

 夜に沈んだ深山を思わせるような、静謐な声音が二人の鼓膜を震わせた。

 はっとして振り返ると、そこに一人の女が立っている。黒いワンピースを着た妙齢の女だった。小柄な女のその肩には、帆布製の大きなトートバッグがぶら下がっている。声をかけられるまで、全く気配に気づかなかった。

 二人が目を瞬いたときには、もう異変が起こっていた。母親の腕の中で泣き喚いていたはずの赤子が眠そうに顔をしかめている。二人が状況を把握した瞬間には、赤子は気持ちよさそうに目を閉じていた。眠りに落ちるまで十秒も要さなかっただろう。

 我が子からやっと聞こえ始めた寝息に驚く間もなかった。微笑を浮かべた女が気さくに話しかけてきたせいで。

「とっても可愛いですね。名付けですか?」
「は、はい。今日は受け取りに来たんです」
「もしよろしければ、拝見しても?」

 柔らかな双眸が父親の持つ和紙をなぞっている。見知らぬ女からの唐突な申し出に二人は目を見合わせると、当惑を覚えた様子ながらもそれをまとめて手渡した。

「……どうぞ」
「ありがとうございます」

 名の候補に目を落とすや否や、女の表情が一変した。微笑が刻まれていた顔から一切の表情が消え失せる。穏やかな印象を与えたはずの瞳が、今は剃刀の如く鋭利な光を灯していた。

 薄桃色に彩られた唇が細かく震えている。蚊の鳴き声のようなか細い声音が漏れているものの、小声に加えて早口で紡がれているせいで、一体何を言っているのか判然としない。何とか聞き取れたのは「取次ぎ給え」という何度も繰り返される言葉だけだった。

 表情を硬く強張らせたまま、二人は生唾を飲み込んだ。女に気安く話しかけることはおろか、近付くことすら恐れ多いような気がしたから。それほど女の様子は尋常ではなかったのだ。

 宮司が駆け寄ってきたのは、女が独り言をぶつぶつと呟き始めて一分ほど経過した頃だった。命名に訪れていたはずの夫婦と向かい合う女の存在に気づくと、血相を変えて上擦った声を放った。

様?!お約束は来月のはずでは――」
「その子、先祖返りだよ」

 つんのめった言葉を遮った女の目は、名が記された和紙に落ちたままだ。宮司は驚愕に目を瞠った。

「……今、なんと?」
「親御さんは非術師、五等親内にその形跡もなし……だから先祖返り」
「つまり」
「うん。見えるみたい」

 宮司の言葉を奪う形で即答した女は、うにゃうにゃと眠りを貪る赤子に視線を移した。

「術式は――呪霊操術かな。珍しい」

 呆気に取られていた母親が宮司におずおずと問いかける。

「あの……この方は?」
と言います。趣味で呪術師をやっている者です」

 先ほどとは打って変わって、柔らかな笑みを浮かべた女が自ら答えてみせる。警戒心を滲ませる二人に宮司が小さく頭を下げた。

「大変申し訳ございません。突然のことで驚いたかと存じますが、どうかご安心を。様は折り紙付きの“本物”ですから」
「……“本物”」

 理解の及ばない言葉を小声で繰り返していると、女は一枚の和紙を差し出した。名付けの候補のひとつである“傑”の一文字が、二人の視線を釘付けにする。

「名字が“夏油”なら、この子の名前は“傑”がおすすめです。呪霊との親和性が高いので」

 すぐに妙な違和感に襲われた。女に名乗っただろうか――否、名乗った記憶はどこにもない。薄ら寒さを覚える二人を安心させるように、形のいい唇が微笑を結んだ。

「この子、よく泣きませんか?特に夜泣きがひどくて、赤子にしては珍しいほど寝ないでしょう?」

 見透かしたような言葉を疑うより早く、母親がその頭を何度も上下に振った。

「……悪い霊にでも取り憑かれて……の、呪われてるんじゃないかって……だから、神社で名付けてもらおうと――」
「逆ですよ。呪霊を追い払っている、というほうが正しい」

 笑みを更に深くすると、女は静謐な声音で告げた。

「この子は普通の人には見えないものが見えます。おそらく七つまで生きられない」

 まるで冗談には聞こえない深沈とした響きだった。唖然とする二人から赤子に目を落とし、女は淡々と説明を加えていく。

「子どもはすぐに連れて行かれるんです。目を付けられる、と言うべきでしょうか。非術師の家に生まれると対処法がわからないから尚更」
「連れて行かれるって、どこへ」
「あの世です」

 断言された単語に母親の喉がひゅうっと鳴る。だがその一方、父親は冷静だった。幽霊や呪いといった非科学的な話をまるで信じない質だったからだろう。妙な宗教の勧誘かもしれないという小さな疑念が湧いていた。まさかこの女は困っている自分たちの隙に付け入る気だろうか。

 喰い物にされるのはごめんだと父親が眉を吊り上げると、先手を打つように女が唇を開いた。

「警戒心を抱くのは当然です。こんな突飛な話を信じるほうが無理でしょう。だから今日は騙されたと思って、これを着せてあげてください」

と言いながら、トートバッグから取り出した白い産着を父親に手渡した。純白の生地には薄っすらと麻の葉模様が浮かび、微かに白檀の香りが漂っている。

「……これは?」
「魔除けみたいなものです。これで夜泣きの回数は他の子と変わらなくなるはずですよ」

 父親の訝しむような視線など気にも留めず、女は赤子に穏やかな微笑を向ける。

「もう大丈夫だよ。たくさん眠れるからね」

 寄り添うような澄んだ声音は、張り詰めた母親の心を解きほぐすには充分だった。疲れ果てた大きな瞳から涙が溢れると、気づいた女は眠った子どもごと母親を優しく抱きしめた。

「不安で堪らなかったでしょう。お母さんのせいではありません。お父さんのせいでもないし、誰のせいでもない。ご自分を責めないであげてください」

 やっと許されたような気がして、ますます涙が頬を伝った。

 妊娠中に食べてはいけないものでも食べたのだろうか、もっと睡眠時間を取るべきだったのかもしれない、たくさん運動をしたほうがよかったのだろう、もしかして――と、自らの行いのせいで我が子に何かが起こったのではないかと、一睡もできないほど不安に苛まれていた。母親である自分のせいに違いないと、抱え切れないほどの自責の念に駆られていたのだ。安堵の涙はとめどなく流れ落ち、赤子の頬までも濡らしていった。

 腕の中で泣き崩れた母親が落ち着くまで、女は「あなたは何も悪くない。立派なお母さんですよ」と何度も言い聞かせ続けた。その声音には何の企みも含まれていなかったし、父親が産着の代金に言及すれば「いらないです」と突っぱねられてしまった。「様はそういう方ですから」と苦笑する宮司に頷く頃には、女に対する警戒心はずいぶんと薄れていた。

 鼻水をすする母親が泣き腫らした目で女を見つめる。

「あ、あの、さっき言ってた七歳までって……」
「これ、わたしの連絡先です」

 屈託ない笑顔と共に手渡されたのは、白いメモ用紙だった。見れば、そこには十一桁の数字が記されている。どうやら携帯電話の番号のようだった。

「本気で話を聞きたくなったら、いつでもご連絡ください。その産着もすぐに着られなくなるでしょうし、お七夜では強い結界を張るつもりですが長く持つとは限りませんので」

 赤子を抱いた母親の代わりに父親がメモ用紙を受け取ると、女は寝息を立てる赤子の小さな手に人差し指を添えた。もちもちとした弾力のある手のひらが、女の細い指をきゅっと握りしめる。

 花が咲くように顔を綻ばせたのも一瞬のことで、一変して真剣な表情を浮かべると、即座に言葉を継いだ。深沈な響きを伴うようにして。

「この子はあなた方とは違います。だからあなた方ではきっと手に負えなくなる。あなた方に見えないものを見るこの子が恐ろしくなるはずです。そのときは、わたしが必ずお力になりますから」



* * *




「ぼく、ひとりでどうしたの?お父さんかお母さんは?」

 ワンマン運行の列車を降りようとすると、老いた運転士に声をかけられた。ここでは見慣れない顔の子どもだったせいだろう。心配そうな声音に煩わしさを感じながら、黒のランドセルを背負った男子小学生は何も言わず、人好きのする笑顔で切符を恭しく差し出した。

 鈍行列車を降りれば、すぐにけたたましい蝉の鳴き声が鼓膜を叩いた。

 再来年には中学生になる男の子は、一重目蓋の下のその細い瞳で周囲の深緑をなぞっていった。山の麓は自らが暮らす都会に比べて気温はずっと低い。夏といえども快適に過ごすことができるだろう。

 帆布製のトートバッグを肩に引っかけ直すと、閑散とした無人駅を抜けて、橙色に変わり始めた日射しの中を小さな足で歩き出した。

 一昨日電話したとき、「わかりやすく目印を付けておいたから」と言われた。男の子がその双眸を糸のように細めると、アスファルトで舗装された道の上に点々と模様が浮かび上がる。呪力の“残穢”を辿るようにして、男の子は額に汗を滲ませながら緩やかな坂道を黙々とのぼっていく。

 駅から四十分ほど歩いたところで、ようやく目的地に到着した。その頃には水筒の中身は空っぽで、黒いTシャツは汗を含んで重みを増していた。

 広大な田んぼと畑の向こうに、数寄屋造りの平屋が建っている。もう少し駅の近くに住居を構えてほしいものだが、非術師との不必要な関わりを避けている彼女にとって、それは無理なお願いなのだろう。

 青く染まった田んぼの脇の畦道を進み、多種多様な野菜が栽培されている畑へ向かう。

 逢魔時を目前とした時間帯のせいだろう、麦わら帽子を被った女が一人、畑でトマトと睨み合っていた。こちらの気配に気づかぬほど、女は収穫するトマトを真剣に選んでいる。宝石のように赤く煌めく実はどれも同じように思えるが、おそらく何らかの差異があるのだろう。

 その熱心な様子に男の子は小さく笑みをこぼした。

「どれにするか決めた?」
「えっ」

 肩を跳ね上げた女は首だけをひねって振り返り、数秒かかって目の前の状況を把握した。トマトを掴んでいた手をそろりと離すと、訝しむように疑問を口にする。

「約束って……」
「明日だよ」
「だったらどうして?」
「終業式が終わってすぐ、電車に乗ったんだ。に早く会いたかったから」

 さも当然という口振りで説明を終えて、男の子は女を真正面から見据える。

「今日からしばらくお世話になります」

 小学生とは思えないほど恭しい態度でお辞儀をすると、夏油傑は穏やかな笑みを浮かべた。