10
分厚い鉛色の雲ではっきりと伺い知ることはできないが、すでに太陽が落ちたことを脹相は悟った。明らかに様相を変えた街がそれを教えてくれた。驟雨に濡れる市街には一斉に人工的な白い明かりが瞬き、周囲に漂う空気は夜特有の落ち着き払った物悲しさを孕んでいる。街路灯を鈍く反射する黒い水溜まりに、小さな波紋が広がる間もなく重なり続けている。コンビニを出てすぐの場所に横たわる一際大きなそれを避けた直後、隣を歩くが突として足を止めた。鞄から取りだした漆黒に塗り固められた長方形の機械に目を落とすや、まるで岩にでもなったように微動だにしなくなる。
眩く光を放つ機械に目を奪われたに、脹相は僅かに眉をひそめた。
「どうした」
「最悪。悟くんにバレた」
思いもよらぬ言葉が鼓膜を叩き、脹相の感情の欠けた顔に微量の動揺が走った。の声音はいたって落ち着いたものだったが、機械を見つめる丸まった背中が困り果てた様子を表している。
「目聡いな。俺のせいか?」
「ううん、それは関係ないと思う。ちょっと謝ってくるから、先にご飯食べておいて」
穏やかな笑顔でかぶりを振ると、は努めて安心させるような口調で告げた。無視すればいいものを。脹相はそう思ったが、の立場上そうもいかないことは充分に理解していた。
傘も持たず走り出そうとする細い肩を、鞭のように伸びた無骨な手が掴む。戸惑いを孕んだその華奢な手に、雨をしのぐためのビニール傘を握らせてやった。
「……脹相くん?」
「を待つ」
「え?」
声を上擦らせたの腰に手を添えると、脹相は有無も言わせず強引に引き寄せた。の身体が前のめりになり、脹相の胸板に鼻先をぶつける。雨音に混じって小さな悲鳴が聞こえた。即座に離れようとする頭を固定するように、の顎をすくい上げる。ほんの少しでも力を加えようものなら、たちまち壊れてしまいそうだった。
瞠目する瞳を覗き込むようにして、脹相は自らの顔を近づける。逃げ場を失ったは「あの」だの「その」だの、まるで亀がひっくり返ったように慌てふためいていたが、もう逃げ場がないことを察するときつく目蓋を閉じた。
淡く色づいた唇に触れる直前、脹相はそっと顔を離した。いつまで経っても口付けの感触が落ちてこないことを不審に思ったのだろう、薄い目蓋が痙攣するように持ち上がる。深淵を縁取る黒瞳と視線が絡めば、朱に染まった頬がより一層赤みを帯びた。
夕暮れよりもなお赤いかんばせが、待てを喰らった唇をはくはくと開閉させた。鮮やかな金魚のようだと思いながら、脹相は熱を孕んだ愛らしい頬にゆっくりと触れる。
「続きがしてほしければ、朝帰りだけはするな」
「……つ、づき」
「いらんのか」
平板な声で問いかければ、は真っ赤な顔を伏せた。頬を覆う脹相の手の甲に、己の手をそっと重ねながら。
「……脹相くんは、その……怒って、ないの?」
「夏油のことか?」
「そっちじゃなくて」
「……ああ」
やがて合点がいった脹相は、一片の感情も浮かばない顔で問いを重ねる。
「何故」
「……だって」
頼りなげな声音が耳を打った。の抱える罪悪感を始めとした複雑な感情は、脹相なりに理解しているつもりだった。
何もかもを一瞬で焼き払う悪夢のような機械兵器相手に、人間であるに為す術などなかっただろう。その頃瓶詰めにされていた脹相がその目ではっきりと見たわけではないから、当時の状況は頭の中で想像する他ない。
ただ、日本近現代史を綴った新書から得た情報との怯えた様子から察するに、実際あの戦争は悪夢そのものだったはずだ。これまで幾多の争いを目に焼き付けてきたが、それほど恐怖するほどの壮絶な悪夢。
「あれが最善だった。責める道理はない」
それが脹相の出した結論だった。全てを置いて逃げる選択をしたことは決して間違いではない。には“神の器官”としての役目がある。惨劇の荒野と化した土地に生まれる数多の呪霊を祓わなければ、いつまで経とうとも生き残った人間に安息の時は訪れない。
夏油によれば、現には日本全国を渡り歩き、焦土に湧いた百を優に超える特級呪霊をほとんどひとりで祓除したという。喀血するほどその身を酷使し、それでも平気な顔で生き抜いた人々に少ない食料を全て分け与え、無限に湧き続ける呪霊を前に絶望する術師たちを懸命に鼓舞し続けたらしい。
は己が役目を全うしただけだ。そういうところを好んでいるのだ。あの非常時に機械兵器相手では何の役にも立たない呪胎九相図を抱えて逃げるような女だったなら、きっと脹相はここまでに惚れ込んでいなかっただろう。
だというのに、は未だ自らを責め続ける。蚊の鳴くようなか細い声で、何度も謝罪を重ねる。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
「構わん」
「……本当に?」
「ああ」
「本当の本当?」
「些事に囚われるな」
逃げた負い目に首を絞められているのだろう。その感情は充分に理解しているつもりだが、脹相自身が気にしていないのだからそれほど気に病む必要はないというのが正直なところだった。
さてどうやってわからせたものかと思案していると、俯いたままのがぼそぼそと声を継いだ。
「じゃあ……えっと、その」
「はっきり言え」
抑揚のない響きが雨音に撹拌すると、はその額を脹相の身体に摺り寄せた。脹相の手に自ら指を絡めていく。
「……脹相くんが、欲しい」
微量の熱を含んだ声音に瞠目する。脹相の死魚にも似た双眸が影の落ちたひと気のない細い路地を撫でた。この場で抱くことも考えたが、それではあまりにも味気ないだろう。
脹相が受肉した事実を、に骨の髄までたっぷりとわからせてやらねばなるまい。罠にかかった獰猛な獲物を、微量な毒で少しずつ弱らせていくように。という、決して誰の“特別”にもならなかった女の“特別”になるために。
「ならば早く帰ってくることだな」
「……絶対、すぐに帰ってくる」
「そうしろ」
はようやく視線を持ち上げると、幸福を溶かし込んだような照れ笑いを浮かべた。
「続き、ちゃんとしてね」
濡れた地面を駆け出す背中を暮夜の瞳で見つめながら、あれこれ考えず犯せばよかったと脹相は少しだけ後悔した。
* * *
出来得る限り雨を避けてオフィスビルに戻れば、悪戯な光を灯した色違いの双眸が脹相を出迎えた。
「遅かったね。っていうかまた濡れてない?さっきよりマシだけどさ」
宙を舞った弾力のある分厚いタオルを受け取ると、脹相は身体に付いた雨水を大雑把に拭う。コンビニの袋を掠め取り興味津々に中を覗き込みつつ、真人が付け加えるように尋ねた。
「なんかあった?」
「道祖神の前で強姦された女を祓っていた」
「うわぁ、また叱られたんだ?可哀想に。で、そのは?」
「五条悟に呼び出された」
湿った白いタオルを投げ付けると、真人はそれを片手で掴んだ。脹相の無表情な顔を見据えて、何度も目を瞬かせる。
「マジか。ひとりで行かせて大丈夫なわけ?」
「大丈夫だよ。“神の器官”は人に寄り添うことを条件に人から決して害を受けないという縛りを神仏と結んでいる。“最強”が人の子である限り、には一切手を出せない。逆もまた然りなんだけどね」
脹相の代わりに明朗に答えてみせたのは夏油だった。理解できないとでも言いたげに、真人が肩をすくめて首を振る。
「とんだ特権だね。神や仏の声が聞こえるってだけでそんなに特別?」
「当たり前だろ。神域に足を踏み入れているようなものなんだから」
「ねぇ、それってどんな声?」
「人間には到底発音できない言語らしいよ。花御の声よりもさらに複雑だって」
会話するふたりに続いて脹相は室内へ進む。食欲をそそる芳醇な匂いに鼻孔を焦がされていくのを感覚しながら、精巧な仮面じみた表情は崩さず会話に耳を傾け続ける。
「でも目覚めの鳥に出逢うまでは自然の音にしか聞こえないらしい。も最初はただの雨音だと思ってたそうだよ」
「……目覚めの鳥?」
「にとっては帝だね」
「誰それ」
不思議そうな顔をした真人に、脹相は淡々とその名を告げる。
「が帝と呼び慕うのは神武天皇だけだ」
すると悪戯っぽい瞳にたちまち怪訝な色が走った。
「ん?神武ってたしか初代天皇だよね?……え、ちょっと待って。まさかって紀元前の生まれなの?」
「うーん、その辺は一切不明なんだ。も教えてくれないし、当然ながら誰も知らない。疑問を持つだけ時間の無駄だと思うよ」
「……ふうん。そっか」
「あれ?真人にしてはあっさりしてるね」
夏油が驚いたような声を上げると、真人は茶目っ気たっぷりな笑みを浮かべ、頭の後ろで腕を組んだ。
「だってが何歳だろうと、俺がを好きなことには変わりないからさ。ね、脹相?」
「は俺の女だ」
凍え付いた冷淡な声で一蹴すると、凪いだ双眸が夏油を撫でた。
「ここに桃はあるか。あと酒」
「……桃?缶詰ならあるよ。白桃と黄桃、どっちがいい?」
「両方」
言うなり、夏油が台所の戸棚から色の異なる缶詰をふたつ引っ張り出してきた。光らない瞳がふたつの缶詰を上から下まで観察する。だがあろうことか栓がない。開け方がわからず、考えるのも段々と面倒になってきた。
脹相が銀色に輝く流し台の前に立ったとき、戸棚を物色していた夏油が振り返った。
「ああ、やっと見つけた。脹相、缶切りならここに――」
「赤血操術――“苅祓”」
色濃い赤が空を走った瞬間、切り刻まれた缶詰とともに、白と黄の桃が一口大の大きさになって落ちた。流し台を叩く鈍い音が響き渡り、ひどく甘ったるい匂いが鼻を掠めた。
「遅かったか」
肩をすくめる夏油から、底の深い白い皿を一枚受け取る。真人の三日月形に割れた唇が弾んだ声を紡いだ。
「なに作んの?」
「が身を清めるときによく食べていた」
「へぇ、優しいじゃん。でもなんで桃?」
「桃は邪気を祓う」
細かくなった桃を皿に移していると、「ここ雑菌塗れなんだって」と真人が事も無げに言った。もっと早く言えと強く睨み付けつつ、念のため桃を水洗いしておいた。
「さっき言ってた酒って料理酒じゃないよね?これでいい?」
どこか得意げに夏油が掲げた酒瓶を視界に入れるや、凛々しい眉がぴくっと跳ね上がった。
「八塩折之酒……まだ作っていたのか」
「げ。さっさと捨てろって言ったのに」
かの八岐大蛇を泥酔させたという曰くつきの日本酒を、真人がうんざりと視界から払い除ける仕草をする。特級呪具と呼んでも差し支えないそれを手に取り、脹相は最大限の警戒をしつつ蓋を開けた。仄かに漂う酒気だけで眠気に襲われる。
眉間に皺を刻む脹相を見やると、真人は悪戯を企む子どものように笑った。
「俺には猛毒。一杯で酩酊状態だ」
「……ならば俺も無事というわけにはいかんだろうな」
「夏油はどうなの?」
「これを飲んで酔わずにいられるのはくらいだよ」
その香りを不用意に肺に取り込まぬよう呼吸を止めつつ、が身を清めるには持ってこいの酒を桃にたっぷりと浴びせていく。混じり気のない透き通ったそれに桃を半身浴させたところで、酒瓶の蓋を隙間なく閉めた。
「それを?」
「冷やす」
「冷蔵庫に入れるならラップしたほうがいいよ」
真人に渡された透明なラップフィルムを皿に被せ、小型の冷蔵庫にそっと仕舞い込む。が少しでも喜んでくれればいいのだが。冷蔵庫の扉を閉めると、どこか空しい音がうわんと響いた。
脹相は振り返ると、物珍しげに観察していた夏油を死魚の瞳で睨め上げた。そして満腔の悪意を込めた鋭い声音でせせら嗤う。
「これも知らず再現とは笑わせる」
「……そう。喧嘩なら買うよ。ちょっと外に出ようか」
「こらこらふたりとも、喧嘩しなーい!」
一触即発のふたりを笑顔で仲裁しつつ、真人はどこか楽しそうに叫んでみせた。
「ー!早く帰って来てー!」