09

 閉塞感を伴う沈黙が場を満たしていた。この空間だけが世界と断絶されているせいで。

 壁や床を這うように張り巡らせた特殊な結界のせいだった。それは“帳”とは全く異なる代物だった。常世との隔絶――つまり、ありとあらゆるものとの繋がりを断つ結界。死んだことにするわけではなく、元より存在しないことにするのだ。生きていく上で世界に及ぼす何かしらの影響を、全て無に帰すために。

 だから今ここには二人だけだった。脹相くんとわたし、たった二人の世界だった。

 ――胸に黒百合を抱いた少女が目覚めるまでは。

「結界消滅まで約二分。その間に祓除しなければ龍脈に影響が出る」
「案ずるな」

 一呼吸置いて、抑揚に欠けた平板な声が耳朶を打つ。

「すぐ始末する」

 暮夜の瞳は静かに凪いでいた。鼻を横切る一文字から溢れた鮮血が、赤みのない頬をゆっくりと伝っていく。怜悧な横顔から視線を外すと、少女の青白いかんばせを視界の中央に映した。抜け殻と化した伽藍洞の“器”に、禍々しさを含んだ歪な魂がじわりと滲む。

「――来るよ」

 その瞬間、少女の蒼白な唇が裂けるように歪曲した。

「呵、呵呵呵、呵呵、呵呵呵呵呵、呵」

 気味の悪い嗤笑が腹の底にまで響き渡る。ひび割れた声音はこの世の全てを呪い尽くそうとしていた。殺意をふんだんに散りばめたそれは、邪悪と形容するには生ぬるいほどだった。

 呪霊としての明確な輪郭を得た怨嗟の塊は、少女の躯体を緩慢な動作で持ち上げる。白濁していたはずの双眸がぎょろぎょろと動き回っていた。左右の動きは不揃いで、より一層奇妙な印象を与える。異形であることの証明、それ以外の何物でもなかった。

 だからといって、身構えることはしなかった。たとえ“祟り神”とはいえ、特級呪霊であることに変わりはない。課せられた役目は対象の速やかな祓除だ。人々の安寧のため、一刻も早く穢れを祓わねばならない。

 真っ先に動いたのは脹相くんだった。

「――“赤縛”」

 まるで狡猾な蜘蛛の巣のように、こぼれた血液が宙に大きく広がった。覚醒したばかりの少女に向かって飛散したそれは、しかし寸でのところで空を切っていた。真横に跳躍した少女が猫のような身のこなしで攻撃を躱してみせたのだ。

「呵呵呵呵」と肩を震わせて嘲笑する少女を、光らない瞳が冷ややかに撫で付ける。

「どこを見ている」

 次の瞬間には血の気の失せた幼い顔が歪んでいた。少女の華奢な右足首には鮮血の枷が絡み付いている。さも個としての意思を持つかの如く。脹相くんはおそらく、血溜まりの中に前もって混ぜていた自らの血液を、巧みに操ってみせたのだろう。

「知能は低いようだな」
「呵呵ッ」

 嘲るように少女が咆哮した途端、深紅の呪縛が夢幻の如く霧散していた。精悍な太眉が僅かに持ち上がり、脹相くんは何かを察した様子で後方へと素早く身を引いた。

 あどけない少女には不釣り合いなほど歪な笑みが口端に宿る。禍々しいそれに嫌な予感を覚えた次の瞬間、業火のような熱風が身体を刺すように吹き抜けていた。たったそれだけで室内温度がぐんと急上昇する。額から汗が噴き出すほど、部屋は高温を帯びていく。

 どうやら高熱によって鮮血の枷を蒸発させたらしい。無機的な表情に戻った脹相くんは、どこか気の抜けた素振りで再び術式を使用した。

「――“赤縛”」

 虚ろな響きと共にばら撒かれた血液は、しかし少女に届く寸前に消し飛んでしまう。

 人間の身体を廻る血液のその約八割が水分で出来ているという。血液を操る加茂家相伝の術式“赤血操術”にとって、水分を奪う炎や熱は鬼門のひとつだった。

「分が悪い?」
「見縊るな」

 こちらの心配を即座に一蹴するや否や、脹相くんがその場で合掌した。

「――“百斂”」

 隙間なく重なった指の先端から、深紅の血液が溢れていく。それは百円玉ほどの大きさの球体と化すと、重力に逆らうように次々と空中へ浮かび上がっていった。

 その瞬間、わたしは敵の攻撃の射程圏内であることを忘れていた。危機感が頭から抜け落ちるほど、大きな期待に心が浮き立つ。ここで見ることが叶うなんて。

 加茂憲倫に出会うまで加茂家出身の術師には興味がなかったこと、その加茂憲倫が戦闘よりも研究に没頭していたこと、そしてこの呪術自体がそれほど古いものではないこと。わたしがこの目で直接見たのは片手で数えられる程度だ。だからこそ見逃したくなかった。かっと目を見開いて、その光景を懸命に焼き付けようとする。

 御三家の中でも特に血筋を貴ぶ加茂家の“赤血操術”。術者の周囲に星のように散りばめられた“百斂”から繋がれる呪術といえば、たったひとつしかあるまい。

「――“超新星”」

 感情に乏しい響きが瞬く間に起爆剤と化した。宙に浮かぶ無数の赤い星々が目にも止まらぬ速さで少女へと一直線に向かっていき――刹那、大爆発を起こしたのだ。

 耳をつんざく轟音が弾け、まともに立っていられないほど建物が大きく振動する。百円玉ほどの血液の粒が科学兵器顔負けの威力を発揮するなど、一体誰が想像できるだろうか。

 しかしこの血染めの大爆発が攻撃ではなく、ただの目くらましだと気づいたのは、脹相くんの姿を完全に見失ったときだった。

 “超新星”の衝撃から我に返ったわたしは慌てて首を振った。脹相くんはすでに、壁際まで後退していた少女の鼻先まで距離を詰めている。

 脹相くんは息つく暇もないまま、少女の青白い華奢な足を一閃した。大の大人、それも戦闘に長けた成人男性に蹴り飛ばされては踏ん張り切れるわけもなく、少女の身体は前のめりに容易く崩れていく。

 だが少女は膝をつく寸前、持ち上げた双眸に憎悪を灯した。瞬間、熱風が渦を巻くように部屋の中を暴れ始める。

 灼熱を帯びた風は破壊衝動に身を任せ、部屋を見境なく荒らしていく。火傷しそうなほど熱い風に身体を押され、あわや後ろへ吹き飛ばされそうになる。目を開けて立っているだけで精一杯だった。

 至近距離で熱風を浴びる脹相くんの右手が、力を失ったように突然ぶらりと落ちた。赤く爛れた指先から多量の血液が滴っているものの、地面に染みを作るよりも早く、業火の如く熱風に消し飛ばされていく。

「愚策だな」

 無機的で平板な声が響いたときには、両膝をついた少女が床に真っ赤な血を吐いていた。血の気のない華奢な両手が胸を掻き抱いている。そこから生えているのは鋭利なガラス片だった。

 すでに勝敗は決していた。おそらく、脹相くんが少女を蹴飛ばした時点で。密かに忍ばせていた窓ガラスの欠片を胸に突き立てたのは、あの瞬間の他にないだろう。

「呵、呵呵」
「負け惜しみなど聞くに堪えん」

 うんざりした様子で肩をすくめると、脹相くんはなお足掻こうとする少女に背を向けた。怜悧な顔のあちこちが火傷によって爛れているにも関わらず、その無表情には一片の苦痛すら浮かばない。

 死神めいた静謐な声が、熱に侵された空間を丸ごと穿つ。

「――“苅祓”」

 その直後、少女の頭部は消失していた。息を呑むほど美しい切り口から、鮮やかな赤が一拍遅れて迸る。“祟り神”はもうどこにもいなかった。伽藍洞になった胴体が後ろへと大きく傾き、血を噴き出したまま床にべしゃりと倒れ込む。

 風はとっくに止んでいた。勝利に酔う様子もない脹相くんの脇を通り過ぎ、わたしは少女の傍らに膝をついた。胸に突き立てられたガラス片には、脹相くんの呪力がべったりとこびりついている。

 振り返れば、死魚の瞳と視線が絡んだ。わたしから平静を奪う双眸に息が詰まりそうだったが、息を深く吸い込むことでなんとか質問を押し出した。

「自分の血液を流し込んだの?」
「ああ」

 いくら高熱で血液を蒸発させることが可能といえども、肉体の内側に流された血液だけはどうすることもできないだろう。そんなことをすれば自らの命が危ういのだ。呪霊の頂点に立つ呪いの王ならまだしも、顕現したばかりの受肉体が自らの“器”を壊す愚を冒すわけがない。

 落ちた少女の頭を拾い上げ、見開かれた瞳をそっと閉じてやる。わたしは頭を垂れながら感謝の言葉を口にした。

「ありがとう。それで、えっと……もう少しだけ、時間を貰ってもいい?」

 おずおずと付け足すと、脹相くんは素っ気ない声音を寄越した。

「御霊を送るのか」
「うん」
「好きにしろ」

 わたしは再び「本当にありがとう」と感謝を告げると、一時間ほどかけて死者に祈りを捧げた。脹相くんはその間に乱れた髪を整え、どこからか安っぽいビニール傘を調達していた。そして一言も発することなく、部屋の隅でわたしをじっと待ち続けていた。長い祓詞に耳を傾けながら、ずっと。



* * *




 脹相くんが調達したビニール傘は何故か一本だけだったので、またもや相合傘をする羽目になってしまった。

 しかもわたしが投げ捨てた和傘よりもうんと直径が狭いため、身体をぴったりと密着せざるを得ない状況に陥っている。熱風を浴びていたときよりも遥かに顔が熱いように思うのは、きっと気のせいではないだろう。

 視線だけを動かすようにして、脹相くんをそっと盗み見る。一切の表情が浮かばない端正な横顔には傷ひとつ見当たらない。

 治したのはわたしだが、まさかこれほど綺麗に治るとは思ってもみなかった。普通、神仏の加護は呪霊に対して強く及ばない。とかく相性が悪いのだ。呪符や呪具を用いて神仏との感応を底上げしたとはいえ、ここまで完璧に治癒を施せたのは、脹相くんが受肉体であることと深く関係があるのだろう。

 思案に耽っていたせいで、脹相くんに見られていることに遅れて気づいた。

「なんだ」
「な、なんでもない」

 まともな会話すらできないまま、事務所から最も近いコンビニに到着した。花御くんの黒百合には暗示の効果でもあったのだろうか。脹相くんと触れていた肩に残る熱は、仄かな冷気を放つ陳列棚の前に立っても消えることはなかった。

 隙間なく陳列された缶ビールを一通り目でなぞると、その中のひとつを手に取った。この中では傑くんが最も好んでいる銘柄である。一本目を買い物カゴに入れて、続くように二本目と三本目を放り込んだ。うわばみには物足りない量かもしれないが、わたしに合わせて飲むならこれで充分だろう。

 多種多様な酒を眺めながら、わたしは自らと相談をする。さて何を飲もうかと視線を落としたとき、後ろからぬっと伸びてきた大きな手が缶ビールを掴んだ。傑くんのそれとは違う銘柄が買い物カゴに落ちる。

 わたしが振り向いたときには、すでに三本目の缶ビールがカゴの中に堂々と居座っていた。

「……えっと、脹相くんも飲むの?」
「ああ」

 淡泊な声で即答しながら、わたしから平然と買い物カゴを奪う。受肉した身体で初めての飲酒を楽しみたいのだろうかと思った瞬間、

「深酔い目的の女が男と酒を共にすればどうなるかなど、想像に容易い」

 苛立ちを含んだ視線がわたしを真っ直ぐに貫いた。手のひらに冷や汗が噴き出す。

「あ、あの、わたし、そんなつもりじゃ――」
「夏油はそのつもりだが」

 返す言葉もなく、酒を選ぶふりをして目を伏せる。逃げ出したくなるほど気まずい。後頭部を刺す暮夜の視線から逃れる方法を必死に考えてしまう。

 酒に逃げるのはやめようかと思い始めたそのとき、思いがけない言葉が鼓膜を叩いた。

「両面宿儺を祓う算段はどうなっている」
「……え?」
「先ほどの呪いのように“格”を下げるつもりか」

 瞬きを繰り返しながら視線を持ち上げれば、深淵に縁取られた双眸がこちらを見つめている。

が呪霊に与する目的は両面宿儺だろう」

 わたしは黒瞳から鼻先を背けると、色鮮やかな酒の缶で視界を懸命に埋めた。咥内が一瞬で干乾びていく。会話から逃げることは認めることだった。素朴な疑問を掠れた声に乗せる。

「……いつから?」
「最初からだ。が呪霊につくこと自体、道理から外れている」

 断言するような口振りに、反論の意思が瞬く間に削がれる。脹相くんは畳み掛けるように言葉を継いだ。

「両面宿儺の完全な祓除のため、“夏油傑”の情報を売った」

 それは質問ではなく、明らかな事実の提示だった。

「どうして急に、傑くんの話を?」
「いくら呪詛師といえども、あの真人が人間と組むとは考えられん」

 きっとわたしのあずかり知らぬところで、傑くんたちと何らかの会話が交わされていたのだろう。観念するように、わたしはゆっくりと息を吐き出した。

「傑くんが悟くんに殺されることはわかってた。だから利用したの。悟くんがわたしに遺体の処理を頼んできたから、ちょうどよかったな」

 なんとなくハイボールを飲みたい気分だった。商品に掲げられた値札を見比べていると、脹相くんは無機的な声音で質問を続けた。

「ならば何故模倣ではなく再現を選んだ」

 ハイボール缶を二本掴むと、流れる動作でカゴに放り込んだ。怪訝な表情を浮かべる脹相くんを見つめながら、わたしは口元に笑みを結んでみせる。死んだ魚のような黒瞳には、嘘が張り巡らされた胡散臭い笑みが写り込んでいた。

「早く帰ろう。傑くんたちが待ってる」