08

 一体どうすればこの窮地を脱することができるのか――脳内を占めるあらゆる思考がその一点に集束していた。まるで微動だにしない精悍な眉の下、底知れぬ深淵を流し込んだ双眸にはわたしの情けない間抜け面が映っている。

 会話から逃げない。黒百合を贈ってくれた花御くんに宣言した時点で、こんな状況に陥ることなど一瞬でも想像ができただろうか。視線だけでも逃げようにも、互いの距離が近すぎて、揺れる視界から怜悧なかんばせが消失することはない。

 残す道は目蓋を下ろすことで闇を呼ぶことのみか。しかし今ここで目を閉じれば何をされるかなどあまりに想像に容易い。視線は固く結ばれた脹相くんの唇を無意識に捉えた。真人くんの揶揄するような声音が脳裏で響いている。ほんの少し考えるだけで、身体は湯上がりによく似た火照りを覚える。

 水分の飛んだ唇を開いては閉じながら、エレベーターが動き出すことを祈る。この近距離では視線を交わすだけでも精一杯なのに、ましてや会話などまともに成立するわけがない。



 不意に名を呼ばれる。氷塊よりも更に冷たく、鋼鉄よりもなお硬い響きだった。焦れた様子は全く感じられないが、それでも返答を促していることは理解できる。身体中を駆け巡る熱を感覚しながら、この場を逃れようと懸命に言葉を押し出す。

「脹相くん、あの」
「俺を欲したくせに何を今更」

 一瞬で逃げ道を塞がれ、閉口する他なかった。僅かな沈黙を挟んで、平坦な声音が狭い箱の中で静かに響く。

「それともあれは戯言だったと?」
「……違う、けど」

 躊躇うように言葉が途切れる。腹の中で芽吹いた不安が頭をもたげたせいで。

 目を伏せようとしたそのとき、金属を引っ掻いたような甲高い耳鳴りが全ての思考を奪い去った。

「――喚んでる」

 ここではない別の世界の、それも遠く星辰の遥か彼方から響いていた。意味を成さない音が運ぶ怖気にわたしの喉が小さく鳴る。

「駄目だ、道祖神の目の前で強姦なんて“祟り”になる」

 複数人から辱められ、尊厳を踏みにじられた彼女は今まさに“神”に助けを請うている。それも道端で鎮座する道祖神の目と鼻の先で、膨大な負の感情を溢れさせながら。

 呪霊は人間から漏出した呪力の集合体だ。人間の持つ畏怖のイメージが呪霊の魂の形を決定付けると言っても過言ではない。つまり人が神を想像すれば、呪力の塊は“神”の形を模った呪霊となって常世に顕現するというわけだ。

 たったひとりが想像したからといって、“神”の名を冠した呪霊が顕現することは非常に稀だ。ほとんどの場合は、古くから根付いた信仰とその土地の穢れ具合に左右される。

 殺人、暴力、強姦といった犯罪は土地を穢す大きな要因のひとつだ。穢れた土地には呪霊の魂を形作るための負の感情が集まりやすくなる。道祖神のような神仏の見ている前で犯罪が行われた日には穢れは更に増し、上級呪霊を生み出すほどの膨大な呪力が集まってくる。

 かつてあの土地に暮らした人々は道祖神を熱心に信仰していた。すでに条件は揃っているのだ。そんなところで“神”を想像すれば――数多の死を撒き散らす“祟り神”が顕現しても何らおかしくはない。

 即座に手を伸ばしてエレベーターの開ボタンを押す。“祟り”を恐れた道祖神の嘆きが頭の後ろで延々と響いている。ここから走って向かうなら電車の乗り継ぎは避けられないだろう。おそらくそれでは間に合わない。供犠を捧げて土地の浄化を促さねばならないところまで嘆きは及んでいる。

 最短で辿り着くには事務所の扉を使う他ないだろう。無機質な扉が開き始めたとき、感情を欠いた声が耳朶を打った。

「場所は」
「ここから近い。北西の――」

 我に返ると慌ててかぶりを振る。反射的に答えてしまったことを悔いながら。

「ひとりで行くから」

 “祟り神”を祓うことはあの悟くんですら嫌がるほどだ。面倒事に巻き込みたくない一心で告げたというのに、一体何をどう思ったのか、脹相くんは無機的な表情で赤い和傘をわたしに押し付けた。

「持っていろ」
「大丈夫だよ。わたしひとりで何とでも――脹相くん?」

 説得の言葉は喉で詰まって途絶えた。立ち位置を変えた脹相くんは軽く膝を曲げると、突如わたしの背中と膝裏に手を這わせたのだ。

 一瞬だった。跳ねるように視界が上下に揺動し、突然のことにわたしは目を瞬かせる。着物から立ちのぼる白檀の香りに鼻腔を焦がされた途端、脹相くんに横抱きにされたことをやっと認識する。

「えっ?……えっ?!」

 耳を打ったはずの驚嘆の声など気にも留めず、脹相くんは閉まりかけたエレベーターの扉に持ち上げた右足を滑り込ませた。その衝撃に驚いたようにエレベーターは轟音を奏でながら箱ごと大きく振動する。ややあって、再び扉が開かれる。

 荒々しい行動とは裏腹に、脹相くんの表情はいたって冷静そのものだった。廊下に飛び出すや否や、その突き当たりまで一息に駆け抜ける。わたしを抱えたまま無骨な非常階段へ繋がる重い扉を器用に開け放てば、驟雨に濡れた冷たい風が廊下に向かって勢いよく吹き込んできた。

 雑居ビルの側面を這うように設置された螺旋階段が、眼前にその姿を現す。赤く錆びた金属を打ち付ける乾いた雨音が断続的に聞こえている。

「お願い、待って脹相くん、これはわたしだけで――」
「行くぞ」

 抑揚に乏しい声と共に脹相くんの手に力が入る。もはや制止など無駄だった。脹相くんのつま先が床を強く踏んだ瞬間、置き物のように硬直していた己の肉体が更に強張った。

 助走もなしに腐食した手すりをいとも容易く飛び越えると、人をひとり抱えていることなど全く感じさせない身軽さで隣のビルの屋上に両足を着いた。躯体を丸めるように着地したというのに、その衝撃はこちらにほとんど伝わらず、水溜まりを踏んだ音は激しい雨音に掻き消されていた。

 脹相くんは北西の方角に向かって躊躇なく駆け出した。その人間離れした脚力で建物の屋上や細い電柱の天辺を、まるで点と点で結ぶかのように跳躍していく。風を切るほどの凄まじい速さで。

 少しでも雨を避けようと和傘を開こうとしたときには、目的地である廃墟ビルはすでに目と鼻の先にあった。雑居ビルを飛び出してまだ四十秒も経過していない。

「脹相くん!」

 呼ぶと、脹相くんは廃墟ビルからほど近い電柱に片足で着地する。人形めいた怜悧な顔を見上げながら、雨音に負けないよう腹から声を出して指を差した。

「あれ!あの建物!」

 暮夜を縁取る双眸が雑居ビルを一瞥した。その瞬間、感情を欠いた平板な響きがわたしに命令を下す。

「歯を食いしばれ」

 問い返す暇もなかった。

「赤血操術――“赤燐躍動”」

 術式の使用を告げる声音が耳朶を打ったときには、脹相くんのつま先は電柱から離れていた。しかし先ほどまでとは違う、廃墟ビルに飛び込むような跳躍に血の気が引く。

 ――このまま窓を破るつもりか!

 三階の濁った大きな窓には、薄っすらと“法律事務所”の文字が並ぶ。正面衝突すればわたしはおそらく無事では済まないだろう。窓に引っかかりそうな和傘は即座にその場で手放した。

 覚悟するように奥歯をきつく噛んだ途端、脹相くんが弾丸のような速さを保持したまま空中で半回転し、足を折り畳んで身体を丸めた。

 目を瞠ると同時に長方形の窓枠が視界に映る。脹相くんが背中から窓ガラスを破ったのだ。

 窓に突っ込むと同時に床を強く踏んだ脹相くんの両足が後方へと滑っていく。衝突の衝撃を殺すようにして。目の前では割れた窓ガラスが宙を舞い、耳をつんざくような騒音が響き渡っている。

 侵入口である窓からずいぶんと離れた位置で、脹相くんの足は完全に停止した。粉々になったガラス片が床に散らばっている。息を細く吐き出しながら膝を伸ばし、死んだ魚のような昏い瞳をこちらに寄越した。

「無事だな」

 確認するように呟くと、脹相くんが無感情な視線を上げた。ふと何かに気づいたように。

 その直後、家具ひとつない部屋の扉が勢いよく開け放たれる。

 顔を出したのは軽薄そうな金髪の青年だった。無残に割れた窓と突然の侵入者を視界に入れるや否や、悲鳴にも似た引きつった声を上げる。

「な、なんだお前らっ?!」

 気にする素振りひとつ見せず、脹相くんはわたしをそっと床に下ろした。その光らない瞳はすでに「ありがとう」と短く礼を告げたわたしではなく、「ま、窓からどうやって」と蒼白の青年をなぞっている。

 わたしが早足で歩き出すと、青年はどこか怯えた様子で身体を仰け反らせた。距離を詰めようという意図はどこにもなかった。ここから一階へ向かうには扉を通る必要があったからだ。

 青年の着崩された衣類からは真新しい死臭が漂っている。それが誰の物かなど考えるまでもなかった。長いため息混じりに青年を謗る。

「外道も外道、悪鬼羅刹の類に等しい」
「……は?」
「死んだ彼女は下にいる?」

 静かに問いかけると、血相を変えた青年が血走った目で睨んだ。

「お前、何で知って――」
「急いでるの。そこを退いて」
「はぁ?!通すわけねぇだろ!お前らもまとめて……え?」

 青年の言葉がぷつりと途切れた。その双眸は自らの喉を見下ろしたが、すぐに仰向けに落下する。驚愕を孕んだ首だけが、黒ずんだ床に転がっていた。

 滑らかな切り口を見せる頚部から、鮮やかな色の血液が勢いよく噴き出す。

 はっとして振り返れば、脹相くんの鼻を横切る一文字から毒々しいまでの赤が垂れている。青年が叫んでいる間にしれっと術式を使用していたらしい。

 遠くのほうから階段を駆け上がる複数の足音が聞こえる。きっと仲間のただならぬ叫び声に反応したのだろう。脹相くんは眉一筋動かさずわたしの脇を通り抜けると、落ちた生首には目もくれず、倒れ込んだ胴体を跨ぐようにして平然と部屋を出た。

「なんだお前?!どこから入って――」
「――“苅祓”」
「ああああああっ!」

 その直後、青年の仲間らしき連中の悲鳴が鼓膜を叩いた。あまりの喧しさに顔をしかめながら身を屈めると、わたしは傷んだ金髪を鷲掴むように血だまりから生首を拾い上げる。ガラスのように平らな切断面から、真っ赤な血がぼたぼたと滴り落ちていく。

 急いで部屋を出れば、少し丸くなった背中の先には複数の惨殺死体が転がっていた。死体の切り口はどれも息を呑むほど綺麗なものだった。

 こちらを振り返った脹相くんが、わたしの左手からぶら下がる頭部に目を落とす。太い眉が微かに動いたことを認めたわたしは、苦笑を浮かべながら小さく肩をすくめた。

「ごめんなさい、もう間に合わない。だからこれはただの悪足掻き」
「身体は」
「いらない。首だけで事足りる」

 即答すると、脹相くんは無言で三つの生首をむんずと掴んだ。人形めいた無機的な表情のまま、一階へと続く階段を目指して歩き始める。

 薄汚れた廊下に、色鮮やかな血痕が点々と続いていく。



* * *




「高津神の災、高津鳥の災、畜仆し蟲物せる罪許々太久の罪出でむ、此く出でば天つ宮事以て天つ――」

 横一列に並んだ生首のすぐ後ろで、わたしは滑らかに大祓詞を唱え続けていた。災禍からは逃れられぬことを知りながら。

 視界の端では息絶えた女子高生が横たわる。廃墟ビルに沿うように、黒塗りのワゴン車が一台停められていた。おそらく帰宅途中に連れ去られ、人目につかないこの建物に連れ込まれたのだろう。

 紺のセーラー服は破られ、きめの細かい白肌が覗いている。あどけなさの残る顔は赤く腫れ上がり、細い首には紐か何かでの絞殺痕がはっきりと残されていた。

 外道どもに蹂躙される際、少女は懸命に抵抗したのだろう。そして首を絞められ意識が遠のく中で、もがくように“神”に助けを求めた。それが道祖神の耳に入り、わたしに伝わったという具合か。

「――畏み畏みも白す」

 数多の祓詞を唱えようともすでに遅い。少女の事切れた場所が負の感情の多く集まる“廃墟”ということも原因のひとつだろう。全ての条件がことごとく揃っているのだ、これで顕現しないほうが逆におかしい。

 深く垂れた頭を持ち上げ、首だけで振り返る。控えるように背後で胡坐をかいている脹相くんと視線が絡んだ。

「早ければ今夜にでも顕現する。等級は特級、“祟り神”に間違いない」
「そうか」
「急いでくれたのに本当にごめんなさい」

 死魚のような淀んだ瞳から逃れるように、深く顔を伏せる。この場に花御くんがいれば状況は好転したかもしれないが、嘆いたところでどうにもならない。

 このことが運悪く高専側に気づかれ、それも更に運悪く悟くんの耳に入れば――

「いつも言ってるだろ?中途半端な仕事しかできないなら、“神の器官”なんて辞めて僕のところへ嫁においで、って。絶対に苦労はさせないよ?」

と、前回のように嘲弄されることだろう。質の悪い嗤笑がはっきりと目に浮かび、口角が痙攣したようにぴくぴくと持ち上がる。

 この場を放棄するという選択肢は完全に消失した。髪に挿していた黒百合を引き抜くと、それを絶命した少女の胸の上に置く。脹相くんが平板な声音で尋ねた。

「どうするつもりだ」
「今からその子を依り代に“神”を降ろす」

 淡々と告げると、脹相くんは膝を伸ばして立ち上がる。濁った黒瞳が黒百合を撫で付ける。

「祓除なら手を貸す」

 怜悧なかんばせを横切る一閃が、じわりと赤黒く滲んだ。