06

「“僕は君に一目惚れ”。傑くん、結婚してください」

 ひどく真剣な色を纏った声音でそう告げながら、わたしは掲げるようにして婚約指輪を差し出した。目と鼻の先で、指輪を彩る緑玉色の宝石が部屋の照明を反射している。眩い光を放つ宝石はアクリルアイス――つまりアクリル樹脂製の偽物である。

 貴金属としての価値を一切持たない婚約指輪だというのに、眼前のソファに座る傑くんの目尻には柔らかな笑みが宿っている。言葉を噛み締めるように深く頷くと、微笑みを湛えたまま指輪に向かって手を伸ばした。

「もちろん。一目惚れだなんて知らなかったよ。式の日取りはいつがいいかな?」
「コラ夏油!ルール!ルール無視すんな!俺と脹相が残ってるだろ!」
「私は次の大安がいいと思うんだけど、もちろんの希望も――」
「人の話を聞けよっ!」

 隣席からの猛然とした抗議にわざとらしく肩をすくめると、傑くんは未練がましい様子で渋々と手を引っ込めた。

「冗談じゃないか」
「夏油の冗談は冗談に聞こえないんだよ。じゃあ次は脹相ね」

 真人くんの明るい声に反応した脹相くんは表情ひとつ変えず、手に持っていたカードを一枚ずつ木製のテーブルに置いていく。そして、カードに印字された文字を無機的な声色で淀みなく読み上げた。

「“君は僕の玩具”。結婚してほしい」

 付け足されたプロポーズの言葉と共に、唐紅に染色された宝石が乗った婚約指輪を傑くんに示す。だが傑くんの琴線には触れなかったのだろう、先ほどと打って変わってその表情は硬い。

「なるほど。ある種の主従関係というわけだね」
「好みじゃないって?」
「まあね。従うのは好きじゃない」
「あ、それは俺も同感。でもさ、コレ一部の層には絶対に――」

 二人の会話を聞き流しつつ、テーブルに広げた自分の手札を整えるふりをして右隣をこっそりと覗き見る。

 感情を欠いたかんばせに浮かぶ黒い双眸は、こちらを全く映していなかった。平板な声で紡がれた言葉が、決してわたしに向けられたものではないことを改めて突き付けられる。

 下唇を噛んで顔を逸らすと、腕を組んだ真人くんと共に平然と評する傑くんを視界から外した。これが深い意味など持たない遊戯だと理解していても、醜い嫉妬心は際限なく膨張している。

 キーマカレーを煮込む間の暇潰しとして提案されたのは、真人くんがここ最近夢中になっているボードゲームだった。

 プレイヤーは配られたカードに書かれた言葉を制限時間内に自由に組み合わせて、“親”に対してプロポーズを行う。“親”は最も心に響いたプレイヤーの婚約指輪を受け取る。“親”はプレイヤーが順番に務め、手持ちの婚約指輪がなくなったプレイヤーの勝利――という単純明快なルールに従ってゲームは進行する。

 制限時間内に作り上げるプロポーズの言葉は、プレイヤーのセンスと引いたカードによって大きく変化する。そのうえ勝敗の基準は“親”の嗜好に左右され、百枚以上のカードの組み合わせで生まれるプロポーズの言葉は無限にも等しい。真人くんはその自由度の高さをいたく気に入っているようだった。

 いつものように安易な気持ちで参加を決めたものの、このゲームの趣旨をすっかり忘れていた。わたしはゲームが終わるまでずっと、脹相くんが口にするプロポーズの言葉を聞き続けなければならないのだ。

 たかが遊びだ。勝ちを得るための嘘八百だ。無意味で無価値な言葉だとしても、自分以外の誰かに向けられる告白がこれほど胸を掻き乱すなど想像以上だった。もう自分ではどうにもできない見苦しい感情を完全に持て余している。

 今すぐカレー鍋の前に戻りたい。事務所の窮屈な簡易キッチンでは、傑くんの呪霊操術によって喚び出された低級呪霊が黙々と鍋をかき混ぜている。低級呪霊の仕事を奪ったところで、執務スペースの声は丸聞こえだろう。家にこもって機織りの続きでもしたい気分だった。

「……傑くんずるい」

 気づけば、無意識のうちに本音がこぼれ落ちていた。呪力の素となる負の感情が腹の中で巨大な渦を巻いている。小声で独り言ちるほどの嫉妬は子どもじみていて、いっそ情けなかった。

 誰にも聞かれていないことを確かめるように視線だけを動かせば、どこまでも昏い死魚の瞳がわたしを撫でていた。わたしの肩は面白いほど大袈裟に跳ねる。

 すぐにでもこの場から逃げ出したかった。それが無理なら両手で顔を覆って大声で叫びたかった。どうして一番聞かれたくない人に聞かれてしまうのだろう。

 わたしが失態の言い訳を逡巡し始めたそのとき、抑揚のない声が鼓膜を叩いた。

「真に受けるな」
「……え?」
が“親”のとき以外は」

 唐突に流れ込んできた脹相くんの言葉は、意外にもすぐに意味を結ばなかった。わたしの頭はそれどころではなかったのだ。己が晒した醜態の言い訳と挽回方法を考えることに追われていたせいで。

 わたしは今、何を言われたのだろう。何度も瞬きを繰り返しつつ言意を汲み取ろうとしていると、「はーい!最後は俺!」と童子のような無邪気な声音に思考を遮られる。

「“君に高級マンションを買ってあげる”。夏油、俺と結婚しよう!」
「うーん……高級マンションは魅力的だけど、一目惚れって言われたからね」

 穏やかな響きが耳を打ったときには、わたしの手から安っぽい婚約指輪が消え失せていた。意識はたちまちゲームに戻り、口角が自然と持ち上がる。

「やった」
「コラー!私情を挟むなー!」
「失礼だな。ほら、次は真人が“親”だよ」

 傑くんの言葉を合図に、山札から言葉の書かれたカードを六枚引いた。プレイヤーにカードが渡ったことを確認すると、“親”の真人くんは顔を伏せて制限時間のカウントダウンを開始する。

 このゲームの醍醐味は、引いた手札でいかに心に響くプロポーズを完成させるかというところにある。つまり、どんな手札を引くかによって明暗が大きく分かれるのだ。

「うっ……」

 今回、わたしに運は巡ってこなかった。思わず呻いてしまうほどひどい状況だ。いわゆる“ブタ”というやつで、カードをどう組み合わせても前後の繋がりが不自然になってしまう。

 傑くんや花御くんほどではないにしろ、真人くんもわたしに対して甘い判定を下すほうだ。しかしこれではどう足掻いても勝てやしないだろう。また脹相くんのプロポーズを聞かなければならないのかと思うだけで気が滅入るし、うっかり“親”の真人くんを呪い殺しかねない。早くこの場から離れたい以上、さっさとプロポーズを成功させて笑顔で立ち去りたいのだが。

 とはいえ、どれだけ思考を巡らせようともカードの言葉は変わらない。支離滅裂な言葉の並びに頭を抱えているうちに、

「はい終了ー!」

と絶望にも似た無情な響きに、声にもならない呻きが漏れる。投げやりな気持ちで選んだ三枚のカードを掴んで項垂れると、悪戯な笑みを浮かべた真人くんが覗き込んできた。

「その様子じゃには期待できないかな?」
「……うん」
「順番的にはが最初だけど、どうする?」
「最後がいい……」
「オッケー。ってことで夏油からどうぞ!」

 指名された傑くんは首肯すると、居住まいを正して咳払いをする。真人くんに向かい合いながら、四枚のカードをテーブルに広げ、瑠璃色の宝石に装飾された婚約指輪を差し出した。真面目くさった口調でプロポーズの言葉を口にする。

「“そろそろ僕と暮らさないか?愛してる”。結婚しよう」
「クソ真面目だな!夏油のことだからもっと振り切ったプロポーズかと思ったのにー!」
「今日は面子が面子だからね。ふざけている余裕がないんだよ」

 その言葉に反して余裕たっぷりの微笑が、傑くんの左隣に座る脹相くんをなぞった。

 無論、次は脹相くんの番だ。わたしは平静さを装いながら、骨張った手がカードを並べていく様子を注視する。いつもと変わらぬ無感情な表情で、脹相くんは躊躇いも見せずカードの言葉を低い声に乗せていく。

「“誰よりも好きな君を檻に”。結婚しよう」

 プロポーズを受けた真人くんが勢いよく噴き出した。「檻って」と手を叩いて爆笑している真人くんから視線を移動させ、カードに印刷された“檻”の一文字を凝視する。

 “親”の反応など気にも留めない、その人形めいた端正な横顔を盗み見る。先ほどの“玩具”といい、今回の“檻”といい、脹相くんは一体どんな基準で言葉を選んでいるのだろう。甚だ疑問である。

「今日のヤンデレ担当は脹相かよ。いつもは漏瑚なんだけどなぁ」
「漏瑚くんのほうが強烈だよ。周りを巻き込むから」
「確かに。アイツ、親も親類も土に埋めようとするヤバイ男と化すからな……」

 しみじみと言ってのけた真人くんは「あー怖い怖い」と白々しく呟いた後、わたしを見つめながらにんまりと笑んでみせた。

、心の準備はできた?」

 その問いかけに一瞬怯んだものの、すぐに観念して小さく頷く。

「先に言っておくけど、ただ結婚したいだけ。深い意味はないよ」
「え、どういうこと?」
「結婚以外の意味は何もないから」

 執拗なまでに前置きをして、静かに深呼吸を繰り返す。どうか脹相くんにだけは妙な勘違いをされませんように。祈るような気持ちのまま、ええいままよとカードを一枚ずつ机に投げ付けた。

「“僕は君としたい”……真人くん、結婚してください!」

 深読みも可能なプロポーズを口にした羞恥から、まともに顔を上げられない。隙間なく密着した両膝を見つめながら、婚約指輪を掴んだ手をぐっと伸ばす。

 数秒の沈黙を置いて返ってきたのは、ひどく間の抜けた声だった。

「……マジで?」
「……マジで」
「うん!結婚しよう!愛してるっ!」

 眩しいほどの満面の笑みで、真人くんはわたしの婚約指輪を受け取ろうとする。だが目にも止まらぬ速さで傑くんが真人くんを羽交い締めにした。わたしの婚約指輪は未だ手の中にある。

「はいストップストップ。一旦落ち着こうか」
「なんで邪魔すんだよ!」
「君が大きな勘違いをしているからだよ」

 呆れ返った様子で嘆息すると、駄々をこねる子どものように暴れる真人くんに言い聞かせる。

は真人と結婚したいだけで、深い意味はないって言ってるんだ」
「は?何言ってんの?それを決めるのは“親”の俺だよ。、俺はちゃんとわかってるからね。そのプロポーズにはマリアナ海溝よりも深い意味があるってこと」

と鼻を鳴らしてどこか自慢げに告げる。無言で聞き入っていた脹相くんが訝しげに眉根を寄せた。

「……鞠…………真人は何と言った」
「マリアナ海溝。太平洋に存在する世界で最も深い海溝で、この日本からも比較的近いかな。水棲の呪霊、それも特級クラスが湧きやすい場所としてもかなり有名でね……あ、そうだ。あとで地図を見せてあげるよ」
「ねぇそこ関係ない話やめてくれる?」

 傑くんの懇切丁寧な解説に、真人くんが拗ねたように唇を尖らせる。

 百五十年もの長きにわたって封印を保ってきた受肉体が、マリアナ海溝を知っているわけがなかった。聞いたことのない言葉に疑問を覚えるのは当然のことだろう。

 ああ、なるほど。そういうことか。

 そこでようやく合点がいった。このゲームに使用されるカードの言葉にはカタカナや英語も多く含まれている。脹相くんは別にヤンデレというわけではなく、おそらくはカードに記された言葉への理解が及んでいないだけだろう。理解できる言葉でプロポーズを組み立てた結果が“玩具”や“檻”だったというわけだ。

 後でたくさん本を貸してあげようと思っていたら、酷薄とも取れる表情で、脹相くんがわたしの並べたカードに手を伸ばしていた。

「脹相くん?」

 一体どうしたのだろう。脹相くんは返事をすることなく、おもむろに“したい”と印字されたカードを拾い上げた。

 光らない瞳がカードをなぞった次の瞬間には、骨張った大きな手が躊躇することなくそれをぐしゃりと握り潰していた。厚みのあるカードは驚くほど小さな姿となってテーブルに落ちる。乾いたような小さな音が耳を打った。

 唖然とする真人くんと傑くんを一瞥して、感情を欠いた声音で堂々と告げた。

「これで無効だな」