04

 銀色の器具から噴射される大量の湯水に打たれながら、まるで驟雨のようだと脹相は思った。

 黒い蓬髪としなやかに引き締まった躯体を伝ったそれは、僅かな熱を含んだまま、丸い排水溝へと音を立てて飲み込まれていく。

 風呂に入れと命じられた脹相の想像とは全く異なるこの風呂場は、聞けば西洋式のものだという。広さ一畳ほどの窮屈な風呂場では、場所を要しないこの西洋式を取り入れる他なかったのだろう。

 男性的な直線を描く顎を引いて、一片の光も通さない瞳を左の手のひらに落とした。絶え間なく続く水音の中で、おもむろに拳を作って解いていく。

 そんなことを何度も繰り返しながら、脹相はの頬の感触を思い出そうとしていた。

 しかし、あのとき感じた温かさや柔らかさは、すでに明確な輪郭を持たない。手のひらが捉えているのは、断続的に衝突する湯の熱さだけだった。

 脹相は感情の欠けた顔を上げて、形よく整った鼻先を左へと向ける。

 狭い風呂場の壁には型ガラスの窓が設置されていた。三日月形の締め金具を回転させて片側の窓を開けば、鼠色に混濁した空から無数の雨が降り注いでいるのが見えた。

 人工的な雨に打たれたまま、四角に切り取られた鈍色の空をしばらく見つめ続ける。血染めの和傘を開いたときの記憶を遡りながら。

「脹相、君には別のお遣いをお願いしたいんだ」

 夏油と名乗った長身の呪詛師に呪霊側につくことを告げると、物腰柔らかな響きと共に法衣と袈裟と和傘とを手渡された。脹相の弟である血塗が受肉したマンションの一室には、凄まじい血臭と負の情念が充満している。新たな呪霊が産み堕とされてもおかしくないほどに。

 光らない目が夏油の顔に浮かぶ軽薄な笑みをなぞれば、その微笑はさらに色濃くなった。

「何も難しいことじゃないさ。そう、真人のお遣いよりもずっと簡単だ。本来なら“九相図”の長兄である君にも、壊相や血塗と共に宿儺の指の回収をお願いしたいところだが――」
「余計な御託はいい」

 剃刀のように鋭い声音が、部屋の窓を叩く雨音と撹拌する。特に気分を害したような様子もなく、夏油は真面目くさった顔で腕を組んだ。

「女の子をひとり、他でもない君に迎えに行ってほしくてね」
「……女?」
「彼女には私が行くと伝えているが、女性はサプライズに弱いだろう?ここ数日は本当に忙しそうだったから、私から何かご褒美をあげたくて。まずはその袈裟に着替えてくれないかな?」

 笑みを湛えた夏油が草木染の黒い法衣と黄蘗の袈裟を指差した。感情の乏しい双眸はその指先を追うように落ちる。

 両手に収まる袈裟の上質な生地からは、ほのかに白檀の香気が漂っていた。術師を弄する匂いの奥に練り込まれた微量の呪力を感知すると、伏せた顔を静かに持ち上げる。

「脹相が嫌だと言うなら私が行くよ。君は真人と一緒に――」
「いや構わん。俺が行く。は俺の女だ」

 瞬間、揶揄するような口笛が耳を打った。

 血塗れの床にしゃがみ込んで、二人の会話をじっと聞き入っていた人型の呪霊――真人が悪戯っぽく唇を尖らせている。

 脹相の返答を耳にしても、夏油に張り付いた軽薄な笑みは変わらなかった。だがその手がぴくりと震えたのを光らない目の奥から確認して、脹相は内心で呆れ返っていた。微量な日光すら差し込まず、照明灯さえも滅多に点かない昏い蔵で眠っている間に、難儀な虫が付いてしまったらしい。

 纏った衣類を脱ぎながら、脹相は死んだ魚のような瞳を夏油に向ける。

「ひとつ訊いておきたい」
「いいよ。何でもどうぞ」
「何故は呪霊側についた」
「それ、がコッチにつくのは変だって言ってるように聞こえるけど?」
「そう言っている」

 即答して、黒い法衣に袖を通していく。

「神仏は衆生を救うための存在だ。だからこその呪術は“祝い”の色が濃い。人の良心に寄り添い、数多の害を祓う。他者の息災を願うがお前たちに味方する道理はなんだ」
「デウス・エクス・マキナ」

 澄ました顔で夏油は答えた。聞き慣れない異国の言葉に、帯を結んでいた脹相の手が一瞬止まる。夏油は白い壁に背を預けながら、淡々と言葉を紡ぎ続けた。

「いつか神仏は人々の信仰から外れ、その信仰心は“機械仕掛けの神”に奪われるだろう、と。つまりこの文明社会が行き着く先を憂惧したのさ。科学技術の発展と目覚ましい機械化……便利な世の中と言えば聞こえはいいが、猿どもはどこを目指している?その果てにあるのは一体何だ?核戦争か?パンデミックか?バイオテロか?はたまたナノマシンによる生態系の破壊か?脅威を恐れる猿がその脅威を生み出す、寒気のするような負の連鎖。彼女は“神の器官”として正しい審判を下したまでだよ」

 呪詛師の冗長な解説が途切れるまでの間に、脹相は黄蘗色の袈裟まで身に着け終わっていた。

 折れ曲がった袈裟の裾を軽く叩いて伸ばすと、鼻孔を焦がすほどの白檀の香りが立ち昇る。まるで微熱を孕んだの声音が脳髄で反響するようだった。

 脹相は夜を溶かした双眸を訝しげに転じた。

「納得できん」
「というと?」
「それは本当にの言葉か?」

 胡散臭い笑顔を穿つように問い質せば、ほんの一瞬ではあったものの、欠けた月のような瞳からは感情が消え失せていた。

「ふっ、ふふ」と込み上げる何かを堪えようとする呼吸音に続いて、まるで子どものように無邪気な笑い声が部屋いっぱいに響き渡る。真人が上体を折って爆笑していた。

 夏油は苦笑を浮かべると、観念するように軽く両手を挙げる。真人の三日月形に割れた唇から楽しげな響きが溢れた。

「あーあ。牽制されちゃったねぇ、夏油」
「そのようだね」

 他人事のような台詞を吐いて、夏油は肩をすくめた。立ち上がった真人が脹相の顔を覗き込む。

「でもがデウス・エクス・マキナを恐れているのは本当だよ」
「だろうな」

 左右で色の違う瞳を瞬かせる真人の隣を抜けて、和傘を片手に脹相は自らの身長ほどある巨大な窓へと歩を進めた。眉月の締め金具に触れると、どこかあどけない声が耳朶を打つ。

「あれ?には手を出すな!とか言わないの?」

 その問いかけに対して、深淵に沈む瞳は雨空を映したまま微動だにしなかった。

「何故」
「だって夏油も俺も割と本気でのこと狙ってるよ?」
「だから何だ。他に目をやる暇など与える気はない」

 締め金具を回して窓を大きく開き、殺風景な露台を踏みしめた。雨に濡れた手すりに手をかけるや否や、それを軽く飛び越えるようにして、袈裟姿の男は躊躇なく九階の部屋から勢いよく落下する。

 受肉して間もないというのに、脹相は自らの筋肉の動かし方を充分に心得ていた。己が魂の輪郭を縁取る肉体で危なげなく着地すると、血染めの和傘を開きながら大股で歩き出した。

 降りしきる雨の中でも手に取るようにわかるの気配を辿りながら。