02
深い夜の底を見ていた。そこに命の息吹はない。生きるもの全てが死に絶えた孤独な夜だった。暮夜を縁取る瞳に視線を絡め取られている。微動だにしない視野の中心は、気づけば精巧な仮面じみた怜悧な相貌に独占されていた。
一体どれほどの間そうしていたのだろう。世界が音を取り戻したのは、背後から声をかけられたときだった。
「ごめんなさい。そこ、通ってもいいですか?」
困惑に満ちた女性の声音が、直にわたしの脳髄を揺らした。焦点はようやく昏い双眸から外れ、眠りから覚めるように聴覚が周囲の音をまとめて拾い始める。
「あの――」
「す、すみません」
謝罪の言葉がもつれるように転げ落ちる。雑居ビルの出入口を塞ぐ形で立ち尽くしていたわたしは、身体ごと右に避けようとした。
しかし足が動くより早く、ぬっと太い腕がこちらに伸びていた。
骨張った大きな手が左の二の腕を掴む。腕を強く引っ張られ、前のめりになりながら濡れた歩道を頼りなく踏み鳴らした。黒のパンプスが脹相くんの足を踏んづけそうになって、つま先にぐっと力を入れて何とか立ち止まる。
視界の端に映る女性はどこか気まずそうに会釈をすると、水玉模様のビニール傘を広げて足早に去っていった。
目と鼻の先に脹相くんが立っている。わたしはひどい混乱に陥っていた。どうすべきかわからなかった。ひとつの傘で雨をしのぐことができるほど接近した緊張から、伏せた顔を持ち上げることもできない。
草木染の袈裟から、淡い表情の白檀が立ちのぼる。昨夜、呪力拡散の香をしっかりと焚き染めたせいだろう。優艶な香りがわたしの意識に、ひとつまみの冷静さを与える。
受肉したというだけでなんだこれは。
心拍数が面白いほど上昇しているし、皮膚という皮膚から変な汗が噴き出している。身体が火照ったように熱を持って、咥内はすっかり干乾びていた。
触れられない標本瓶の中ではなく、人の形を成して目の前にいるという事実。脹相くんを瓶越しに見つめていたときとはまるで違う感覚に侵されている。
会うことをあれほど待ち望んでいたのに、どうしてだろう。今すぐ脱兎の如く逃げ出したい。そう思うくせに、次の瞬間にはこの時間が一秒でも長く続くことを祈っている。
感情の収拾がつかない。矛盾だらけの思考は散らかる一方だった。
不規則な雨音が和傘を打つ。こわごわと視線を上げれば、死んだ魚を思わせる瞳がわたしをじっと見下ろしていた。
息が詰まる。何もかも絡め取られてしまいそうで。根こそぎ奪われてしまいそうで。
耐えがたい沈黙を拭うように、震える唇を懸命に割った。
「どうして」
「夏油にを迎えに行けと言われた」
抑揚のない低い声が返ってきて、顔がみるみる熱くなる。夢心地だった。生命を止めて封印を保ってきた脹相くんと会話が成立している。標本瓶に一方的に話しかけていた頃からは全く考えられないことだった。
何とか会話を続けたい一心で、取っ掛かりを懸命に探す。
脹相くんが身に纏う袈裟に視線が落ちた。傑くんが外出するときに着用するそれに目をやったまま、確認するように問いを重ねる。
「それ、傑くんの」
「術師に気づかれては困る」
受肉して人の身を得たとはいえ、少なからず呪物の気配は残ってしまうものだ。それが特級呪物ならば尚更だった。こんな肉体で街中を歩けば、受肉体だと術師に容易く見破られかねない。
術師の目を掻い潜るために傑くんは己の法衣と袈裟を貸与したようだが、脹相くんは歩道を行き交う人々の目線を独占している状態だった。
都会の街中では稀有な僧侶の姿に好奇の眼差しを送るのは当然だろうし、加えて鮮血の色をした和傘が物珍しさに輪をかけている。目立つ袈裟を貸したのは、今まさに傑くんが外出用の洋装を着用しているからだろうか。
「行き先は?」
突然耳朶を打った無機質な声音に、思わず瞬きを繰り返すと、
「アイツらの潜伏先を知らん」
僅かに眉をひそめた脹相くんが言葉を継いだ。
頭を抱えたい気持ちに襲われる。傑くんはわたしに空言を吹き込み、九相図の受肉を成し遂げたばかりか、受肉したての脹相くんに何も告げず送り出したらしい。無責任にも程がある。
返す言葉を探していると、黒一色の瞳がわたしを射抜いた。
「何故黙る。もっと饒舌だっただろう」
少し驚いてしまった。どの程度かは定かではないが、標本瓶で封印を保っていた頃の記憶があるらしい。呪胎という“個”のまま深い眠りについたことが、何らかの影響を及ぼしているのかもしれない。
なんと伝えればいいのだろう。あなたと話すことに緊張してしまって――そんな理由が、はたして受肉したばかりの呪物に理解してもらえるのだろうか。
言葉に迷えば迷うほど、わたしの眉間に力が加わる。脹相くんはわたしから目を逸らして、
「いつまでこうしているつもりだ」
と、現状に対するもっともな疑問を投げた。はっと我に返ると、地下鉄で移動するため駅を目指すことにした。
ひとつの傘の下を並んで歩く。俗に言う相合傘に、勝手に身体が強張る。
濡れて歩くつもりだったのに、脹相くんは「何故そうなる」と強く拒絶した。とはいえそれを受け入れてしまえば、濡れ鼠になるのは他でもない脹相くんだ。わたしは折衷案として相合傘を提案せざるを得なかった。
脹相くんが緩慢な動きで歩道を進んでいく。わたしはいつもの歩調ですぐ隣を歩いた。
「ここまでどうやって来たの?」
「の呪力を辿っただけだが」
「そんなことができるの?」
「容易いな」
「壊相くんと血塗くんは?」
「宿儺の指の回収に向かった」
普通に話せば三十秒も要しない会話を終えるために、わたしは実に三分もの時間を費やしてしまった。左手にはすでに地下鉄の出入口が見えている。
受肉したばかりだというのに、脹相くんの返答は滑らかで滞りなかった。短い会話にまごついたのは、人間であるわたしのほうだ。返答に対する感想を口にする余裕もなく、ただ一方的に疑問を投げていただけである。これではどちらが受肉体なのかわからない。
どうしてこうもうまく話せないのだろう。
自己嫌悪に苛まれながら、赤い和傘が閉じられていく様子を見つめる。「え」と素っ頓狂な声がわたしの口から漏れた。眼前の光景を信じられず、何度も目を瞬かせる。
脹相くんの特徴的な撫で肩が、右側だけぐっしょりと濡れている。
「ごめんなさい!」
動揺に染まった謝罪が口を突いていた。ショルダーバッグから急いでハンカチを取り出すと、雨を含んで色濃くなった右肩を押さえるように拭く。
「わたし、全然気づかなくて、その」
「風邪など引かん」
論点はそこではない。光らない瞳が慌てふためくわたしを撫でる。
「本当に、本当にごめんなさい。言ってくれれば、傘を、あの」
謝ることより他に言葉を尽くせず、声がすぐに途切れる。
濡れた手の甲までハンカチを伸ばしたとき、脹相くんがわたしの手首を掴んだ。咄嗟のことに筋肉が硬直する。脹相くんがわたしを見つめている。
無言で注視される状況に耐えられるわけもなく、次第にふらふらと目が泳いでいく。脹相くんが手を離すと、すぐにハンカチをショルダーバッグにしまい込んだ。
最悪の気分だった。会話はままならず、濡れていることにさえ気づかないなんて。普通に接することが、どうしてこれほど難しいのだろう。
尻尾を巻いて逃げ出したい気持ちが足を急かし、階段を駆け降りるようにして改札口に到着した。
焦りを覚えて振り向けば、脹相くんは表情ひとつ変えずわたしの後ろを歩いている。安堵しつつ、長財布からICカード乗車券を二枚取り出した。
「これ使って」
と、若草色のICカードを脹相くんに手渡す。丸目のアデリーペンギンと睨み合う脹相くんの姿を確認しながら、糸目のカモノハシが描かれた白群色のICカードを右手に掴んだ。
「えっと、あんな感じで」
前方を歩く男子高校生が、改札口を通り抜けていく様子を指し示す。通過を知らせる軽やかな電子音が響き渡ると、脹相くんはその表情を一切変えることなく、ICカードに目を落とした。
「妙な時代になったな」
感情の欠けた平坦な声音に苦笑を返して、先に改札口をくぐり抜けた。無事に通れるだろうかと不安を覚えて首を動かせば、真後ろに袈裟姿の僧侶が立っていた。反射的に肩が大きく跳ね上がる。
精悍な眉が動き、怪訝な表情が走った。
「なんだ」
「う、ううん、なんでも」
幼い子ガモを連れた親ガモの気分だった。とはいえ、口の中が砂漠と化すほどの緊張感はあるが。
駅のホームに向かう途中、現在では至る所で見受けられる装置が目に入った。咄嗟に振り返ると、死魚の瞳がこちらを見つめている。脹相くんなら大丈夫だろうと結論を下し、それに鼻先を戻す。
動く階段。昇降装置。機械式階段。あの花御くんに苦戦を強いた代物――すなわちエスカレーターである。
今も花御くんはエスカレーターが大の苦手で、足元を見つめてはずっと首をひねっている。
「今だよ」と足を踏み出す合図を出しても駄目だ。一向に足が前に進まない。
当の本人は“これほど難しいものはありませんね”と愚痴をこぼしていたが、呪術高専の学生たちをたったひとりで相手にするほうがよっぽど難しいだろう。エスカレーターは呪術高専生よりも強敵なのかもしれない。
早々にエスカレーターの攻略を終えた漏瑚くんはといえば、「お前は階段で来い!」ともたつく花御くんに怒声を放っていた。真人くんにいたっては手すりを使って遊び始める始末だ。非術師に視認されない呪霊でなければ、駅員に厳しく注意されていたことだろう。
緩やかに可動する下りのエスカレーターに乗ると、数秒遅れて脹相くんが金属製の踏板を踏んだ。しかしその双眸はエスカレーターではなく、隣接する長い階段を見つめている。
文明の利器の体験を終えた脹相くんは、エスカレーターと階段を交互に見やり、
「歩けばいいものを」
と、ひどく不快そうに文句を垂れた。こんなものに頼るなど怠慢だと言いたげな視線を寄越されて、わたしは頭の中で言い訳を繰り返した。
受肉した以上は非術師にも認識される。呪物ではなく、人として。
何食わぬ顔で人間社会に溶け込んだほうが面倒事は避けられるし、高専襲撃によって過敏になっている術師側にも気取られずに済むだろう。後々のことを考えれば、街中に溢れる機械装置にも少しずつ慣れていったほうがいいはずだ。
しかし不満を色濃く映し出す瞳に見つめられては、つまらない言い訳など簡単に霧散してしまう。わたしは小さく肩をすくめる他できなかった。
人の姿がまばらなホームでも、空いた座席が見つからない電車の中でも、脹相くんは驚くほど寡黙で落ち着いていた。まるで初めての乗車とは思えないほどに。
「あれは何?」「これは何?」と子どものように繰り返し、利用客のスマホや鞄の中を勝手に覗き込んでいた好奇心旺盛な真人くんとは大違いである。
扉付近の壁に濡れた肩を預け、赤い和傘を片手に口を堅く結んでいた。感情の読めない瞳は変わり映えのしない窓の向こう側を映し、時おり思い出したように向かいに立つわたしをなぞった。
ただそれだけの仕草に、心臓の脈打つ速度は加速していった。
スマホの画面に親指を滑らせて、気を紛らすように時事ニュースを読む。小さな文字の羅列はいつまで経っても蟻の大行進で、内容が頭に入ってくることはなかった。
呪霊一派が市街地に構えた唯一の拠点。その最寄り駅に到着したときには、分厚い雨雲に覆われた世界は薄暗さを増していた。
黄昏時が迫っている。傘を開く脹相くんの広い背中に、そっと問いかける。
「えっと……お腹、空いてる?」
「……腹?……わからん」
「ちょっと寄り道してもいい?」
「好きにしろ」
スマホのメッセージアプリで、傑くんにスーパーに立ち寄って帰ることを端的に伝える。返信はすぐに返ってきて、“デート楽しんでおいで”の一言に下唇を噛む。変に意識してしまいそうで、心の中で必死にかぶりを振った。
ぼうっと人々の往来を眺めている脹相くんの肩を叩く。スーパーの方向を指差すと、脹相くんがゆっくりと歩き出した。
デート。簡単に拭い去れない単語が体温を瞬く間に上昇させる。足並みを揃えて歩くだけで精一杯で、スーパーに到着するまで無言を貫き通した。
日頃から利用している近所の大型スーパーは品揃えが豊富だ。従業員のことを考え抜いた営業時間の設定は残業続きの人間には不評らしいが、漏瑚くんは他のスーパーに比べて負の情念は圧倒的に少ないと言っていた。このスーパーに棲み付く呪いの姿がほとんど見られないのは、きっとそのせいだろう。
脹相くんは感情の乏しい顔で自動ドアをくぐり抜けると、買い物カゴを持ったわたしの後ろに続いた。
牛肉、鶏肉、豚肉。もも肉、ばら肉、ひれ肉。多種多様な肉が所狭しと並ぶ売り場で足を止めると、わたしは首をひねった。
「何のお肉がいい?」
「俺に違いがわかると思うか?」
その問いに言葉が詰まった。受肉したばかりの、おそらく食事らしい食事もしたことのない相手に尋ねるべき質問ではなかったと恥じる。
ぎこちない笑みで誤魔化しながら、牛と豚の合挽き肉を選んだ。
入り組んだ通路を迷うことなく進み、飲料水コーナーに移動する。大手メーカーから自社ブランド、硬水から軟水まで。一口に水と言っても、選択肢は幅広い。
“広告の品”“特別価格”と目立つように表示された価格を見比べていると、背後から鋭利な視線を感じた。ペットボトルが陳列された棚を、どこか険しい顔で見つめている脹相くんに説明する。
「こっちの水は、あまりおいしくないから」
脹相くんが心臓を止めたあのときから、時代は目まぐるしく変化したのだ。ついていくだけで精一杯なほどに。
合挽き肉を取り出しつつ、大きなペットボトルを三本、買い物カゴに横たえる。重量を増したそれを手にレジへ向かっていると、後ろからカゴをひょいと奪われた。
「遅い。貸せ」
「あ、ありがとう」
スーパーを後にする頃には、雨足は強まっていた。ゲリラ豪雨と呼んでも差し支えないほどの勢いだった。そのうえ横殴りの風が吹いているせいで、容赦なく雨粒が身体を打ち付けてくる。
脹相くんはわたしに和傘を手渡すと、抑揚のない声で「走れ」と命じた。ビニール袋が擦れる小さな音がする。脹相くんがペットボトルの入った買い物袋を強く掴み直していた。
戸惑う暇もないまま、急かされたわたしは濡れた地面を強く踏んだ。
* * *
「ああもう、びしょびしょ……」
スーパーから全力疾走して五分後。潜伏先の事務所が入った四階建てのオフィスビルにようやく辿り着いたものの、雨風に打たれたせいで頭からしとどに濡れていた。
傘を差す意味などなかった。パンプスの中まで水浸しの状態で、スカートの裾からは雨水が滴っている。
濡れ鼠と化した脹相くんの顔には不満ひとつ浮かんでいない。感情を抑えるが故に無表情というわけではないだろう。充分に理解していながら、それでもわたしが口にできる言葉などたったひとつだけだった。
「ごめんなさい」
「天候だけはどうにもならん。何故が謝る」
「……本当にごめんなさい」
寄り道などしなければよかった。悔やんでも悔やみきれない。
何度も謝罪を重ねながら、逃げるように片開きのエレベーターに乗り込んだ。四階を示すボタンを押すと、見慣れた事務所の名が刻まれた案内板をじっと見つめる。
呪霊一派の根城である事務所は、数か月前、真人くんたちが非術師から強奪した場所だ。
充分な広さと充実した設備、そして堅気の人間が寄り付かない立地。元々は詐欺企業の事務所として使用されていたのだが、ひどく悪趣味だった内装は傑くんとわたしで勝手に改装してしまった。今では真人くんも入り浸るほど、穏やかで快適な空間となっている。
階数の表示灯に焦点を移しながら、ぐっしょりと濡れた髪に触れる。
緩やかな曲線は薄っすらと残っている程度で、見る影はほとんどない。前髪から雨水がぽたぽたと滴り落ちて、顔を濡らしていく。きっと化粧も剥がれ落ちていることだろう。
ただの自己満足だと自らに言い聞かせる。
人間の持つ視覚的センスを熱心に学ぶ真人くんならまだしも、百五十年もの間、特級呪物として眠りについていた脹相くんに、着飾ることの良し悪しを理解してもらおうとは端から思っていない。脹相くんの前に立っても恥ずかしくない自分でいたいだけだった。
形の崩れた後頭部に視線を感じて、目が泳ぐほどの気まずさを覚える。四角の箱には始終沈黙が流れていた。
エレベーターから降りると、すぐ正面に安っぽい扉が見えてきた。磨りガラスの向こうには白い光が灯っている。
ドアノブに手をかけようとしたとき、
「」
と、不意に名前を呼ばれた。反射的に振り向けば、視界が水を含んだ黒に染まっていた。知らぬ間に脹相くんが眼前に立っていて、突然のことに呼吸が止まる。
何か機嫌を損ねるような真似をしてしまったのだろうか。嫌われたのかと思うだけで恐ろしく、視線を交わす勇気など微塵も湧いてこなかった。
骨張った指が梳かすようにわたしの前髪に触れる。わたしは目を瞠った。その間にも指は緩慢に動き、雨水が垂れるその束を耳のほうへと移動させた。額に張り付く不快感がなくなって、視野が明るくなったような気がした。
目を上げなくてもわかる。脹相くんがわたしを見つめている。分厚い手のひらが濡れた頬を覆い、ゆっくりと持ち上げる。顎が少しずつ上向きになっていく。
何が起こっているのか理解できなかった。
肩からショルダーバッグが滑り落ちて、床とぶつかる鈍い音が廊下全体に響き渡る。ひやりと冷たい手の温度を認識したとき、とうとう感情の乏しい双眸に視線を絡め取られてしまった。
あっという間に囚われる。手を引いて導かれるように、深い夜の底に沈んでいく。