01

「なにしてんの?」

 淀みのない滑らかな声が頭上から降ってきて、わたしは我に返った。

 眼窩、鼻孔、口腔。顔面の至る所から噴き出た多量の血液は流動性を失い、すでに赤黒く凝固を始めている。人の原型を留めないかんばせには、途方もない死の恐怖が克明に刻まれたままだ。

 まるで風船のように膨張した忌庫番から視線を外せば、背中を丸めてこちらを覗き込んでいる細身の青年と目が合った。

 白い歯を見せて無邪気に笑っているのに、どこか不健康そうな印象を受ける。血が通っているのか不安を覚えるほど、青白い面差しをしているせいだろう。

 継ぎ接ぎだらけの血色の悪い皮膚に浮かぶ、茶目っぽい双眸。左右で色の異なるそれを見つめ返す。折り畳んだ両膝は固まっていて、すぐに立ち上がる気になれなかった。

 地面にしゃがみ込んだまま、わたしは首を傾げてみせた。

「こんな風にされてしまうなんて、前世でどんな悪いことをしたのかなって」
「現世で悪いことをしたって発想はないわけ?」
「真人くんの機嫌を損ねたとか?」
「そうそう」

 硬直した筋肉をほぐすように膝を伸ばすと、真人くんが帆布のトートバッグをわたしに差しだした。呪力を完全に遮断できるそれは、わたしが夜ごと織りあげた生地を使用して作ったものだった。

「ほら、が欲しがってたやつ」

 瞬きを繰り返しながら、「あったの?」と掠れた声で尋ねる。震える手でトートバッグを受け取れば、ガラスがぶつかり合う小気味いい音が耳を打った。

 中をそっと覗き見た途端、視界の解像度が一気に落ちた。

 分厚い涙の膜で滲む、標本瓶で眠りについた特級呪物。無色透明の保存液で揺蕩うのは、何度も目に焼きつけた赤黒い呪胎だった。

 泣き顔を見られたくなくて、頭を深く伏せる。掠れた声に湿り気が含まれていく。

「真人くん」
「うん?」
「真人くん」
「なーに?」
「真人くん……」
「よかったじゃん」

 ぐしゃぐしゃと雑に髪を撫でつけられる。視界が揺れるたび涙が落ちて、円柱状の瓶の側面が雨に打たれたように濡れていった。

「本当にありがとう」
「はいはい、どういたしまして。礼なら夏油にも言っとけよ?」
「うん」

 小さく首肯すると、トートバッグをきつく抱きしめた。

「脹相くん、壊相くん、血塗くん……おかえり」
「あれ?」

 真人くんが怪訝そうな顔をしながら、わたしの目元に指を這わせる。

「それって呪胎九相図1番から3番だろ?名前があるわけ?」
「わたしが付けたの」

 その名は特級呪物“呪胎九相図”の基となった仏教絵画“九相図”になぞらえたものだ。仏僧の煩悩を払うため、人が朽ち果てる過程を九つの段階にわけて描いたという絵画である。

 わたしの目から溢れた涙を指で拭うと、真人くんは不満を募らせたように唇を尖らせた。

「そんなに大事なものなら、どうしてちゃんと管理しておかなかったんだよ」

 もっともな指摘だった。答えに詰まって、そっと静かに目を伏せる。

 頭の後ろで、多くの爆撃機が飛んでいく轟音が聞こえたような気がして。

「……自分の身を守るだけで精一杯だったから」

 光る空。焼けた街。人の肉が焦げる臭い。そして、おびただしい数の呪霊たち。耳をつんざく怒号と悲鳴を思い出しながら、トートバッグを強く抱いた。

 無意識に身体を縮こませていたわたしの頭を、真人くんがポンポンと叩いた。目を上げると、いたずらっぽい笑みがこぼれている。

「人間は弱いから大変だよね」

 優しく寄り添う声音に目を瞠る。わたしは記憶を振り払うように笑みを返した。

「人間扱いしてくれてありがとう。真人くんだけだよ?傑くんなんてわたしを妖怪か何かだと思ってるし、漏瑚くんも花御くんも同類だと――」
「あ、花御っ!」

 真人くんは思い出したように大声を上げると、わたしの手を取って歩き出した。

「用は済んだし、さっさと行くよ。花御は無事かな……」

 ぼそっと呟いて、トートバッグに視線を滑らせる。

「あ、そうだ。言うの忘れてた。それ受肉させるってさ」
「えっ?!」
「詳しいことは夏油に訊いてよ」

 呪術高専の蔵から特級呪物を華麗に盗み出した大泥棒は、話を締めくくるように嗤笑を浮かべた。

「任務完了っと」



* * *




「こういう呪物ってさぁ、なんで壊さないの?」
「壊せないんだよ。特級ともなるとね」

 黒を塗り潰したような暗闇で、男二人の会話が響いている。一片の光も通さない目隠しで視覚を奪われたわたしの頼りは、右手を覆う大きな手のひらだけだった。

 氷のように冷えた手を持つ傑くんが、淡々と説明を加えていく。

「生命を止め、他に害を為さないという“縛り”で存在を保障するんだ」
「宿儺の指は有害じゃんか」
「アレは特別。呪物と成って、そのうえ二十に分割してもなお時を経て呪いを寄せる化け物だよ。それ故に器を選ぶ」
「ふうん。じゃあ、コッチは誰でもいいわけだ」

 呪術高専襲撃から数日経った今日、二人は戦力増強を理由に呪胎九相図を受肉させようとしていた。

 呪物が人の肉体を持つことを“受肉”という。その方法はいたって簡単だ。器となる人間が呪物を取り込む――つまり食べるだけでいい。たったそれだけで受肉は為されるものの、器の意識は呪物に乗っ取られてしまうことがほとんどだ。場合によっては器の形さえも大きく変えられてしまうこともある。

 受肉には反対しなかった。

 そもそも反対する理由が特になかったし、呪胎九相図の制作者である憲倫くんも「の好きにしろ」と言っていた。いつかは受肉させようと考えていたことも大きいだろう。その時間が少し早まっただけのことだと割り切るのは容易かった。

 とはいえ、受肉の瞬間には立ち会いたくて同行を強く願い出たのだが、傑くんはまるで良い顔をしなかった。それどころか大反対されたほどだ。

 丸一日かけて懸命に食い下がった結果、目隠しの条件を飲むことで付き添うことをなんとか許された。それでは意味がないような気がしないこともないが、同行を拒否されるよりはまだいいほうだろう。

「おいっ!アンタ!金……金?!オレ!そんなに持ってないけどさっ、サラ金とかなんかあんだろ?!」

 器にされるらしい若い男性のけたたましい声音が耳朶を打つ。その必死な声色に多少の同情心を抱きながら、右手を強く握って抗議してみる。

「傑くん見えない」
「全裸の猿ほど見るに堪えないものはないからね」

 さも突然と言いたげな口振りに、困ったわたしは唇を横一文字に結んだ。

 はてさて、非術師を猿呼ばわりする傑くんをいかにして言い包めよう。動物園にいる猿は例外なく全裸だし、それは漏瑚くんや花御くんと“社会見学”と称して先月見に行ったばかりだとでも切り出してみようか。

 弁の立つ相手に立ち向かう方法を逡巡したそのとき、肩が大きく持ち上がるほどの凄まじい呪力を感覚した。

 ついに標本瓶の蓋が開いたのだ。

 瓶が床に倒れる鈍い音が響き渡る。保存液の上に蓋が落ちたのか、跳ねるような水音が耳を打った。

 漏出する呪力の持ち主を特定するより早く、真人くんの不安げな声がぽつっとこぼれ落ちる。

「大丈夫かなぁ、この状況で俺が見えてないとかマジで才能ないよ」

 獣じみた低い悲鳴に被せるように、「はい、あーん」と軽い調子の声音が続いた。

 ――受肉が始まる。封印が解かれる。

 浮足立つ感情がわたしの身体を強張らせ、呼吸を浅いものへと変えていく。自然と瞬きの回数は増えて、咥内はあっという間に乾いていった。

 緊張を覚えながら手ぐしで髪を整えたとき、指通りがさほど良くないことに気がついてしまった。傑くんを説得しようと夜遅くまで言葉を尽くしたために、髪の手入れにまで時間を割くことができなかったせいだろう。

 標本瓶の中で時間を止めた、深淵のような黒い眼。べったりと闇に濡れた双眸と視線を交わすだけの準備が整っていると、はたして断言できるのだろうか。

 地鳴りのような絶叫が鼓膜を震わせたとき、傑くんがわたしの耳元で囁いた。

、どうかした?」

 こんな些細なことで後悔したくなかった。傑くんの冷たい手を軽く引く。

「傑くん、わたし」
「用事でも思い出した?」
「うん」

 察しのいい傑くんはわたしを玄関の前まで連れていくと、視界を遮る目隠しをゆっくりと外した。刺すような天井灯の眩しさに目を細めている間に、廊下の外へと優しく押し出されていた。

「いいよ、いってらっしゃい。の準備ができる頃に迎えに行くよ」
「でも次の受肉が」
「大丈夫。受肉は2番と3番――壊相と血塗だけにするよ。のお気に入りは最後に取っておいてあげるから、好きなだけオシャレしておいで」
「ありがとう」

 その場で首をひねって振り返る。無機質な灰色の扉が閉まっていく。穏やかな笑みを結ぶ傑くんの向こうから、真人くんの陽気で衒いのない声音が響いていた。

「やぁ、起き抜けに申し訳ないんだけどさ。ちょっとお遣い行ってきてくんない?」

 僅かな時間すらも惜しむように、わたしはマンションのエレベーターに慌てて駆け込む。ショルダーバッグからスマホを取り出すと、当日予約が可能な近場のヘアサロンの一覧に目を凝らし続けた。



* * *




 閉じた瞳を覆い隠すのは、強引に視野を奪うような暗闇ではなかった。目蓋を貫通して差し込むほのかな光。しんとした静寂を穿つ水音が鼓膜を震わせている。

「お湯は熱くないですか?」
「はい」
「じゃあシャンプーから始めますね」
「お願いします」

 シトラスとミントを混ぜ合わせた、すっきりと爽やかな香りが鼻孔をくすぐる。頭皮が冷たく感じるのはミントに含まれているメントールのせいだろう。秋の入り口には過剰なほどの清涼感が肺を満たしていく。

 受肉が行われたマンションから徒歩十五分、駅近くの大通りに面した五階建ての雑居ビル。その三階のヘアサロンに運よく飛び込んだわたしは、高級そうなシャンプー台に頭を預けていた。

「いい匂いでしょ?これが嫌いな男は少ないと思いますよ。僕のおすすめです」

 丸眼鏡をかけたアシスタントの青年が、頭皮をマッサージするようにわたしの髪を洗っている。耳触りのいい音とともに、シャンプーが泡立っていく感じがする。眠気を誘うほどの指使いだった。その心地よさに身体を委ねていると、アシスタントが言葉を継いだ。

「彼氏とデートですか?」
「いいえ。まだ好きな人です」
「まだってことは、ゆくゆくは?」

 茶目っぽく問いかけられて、ぎこちない苦笑を口端に刻む。

「……そうなれたらいいなって思うんですけど」
「弱気はよくないですよ。そうなれるように、僕たちが全力でお手伝いさせてもらいますから」

 同じ香りのトリートメントを丹念に施され、眠気に堪えられなくなった頃に、わたしの髪に触れる人間が変わった。三十代半ばに見える優しそうな男性は、この店のトップスタイリストらしい。

 飾り気のない銀色のハサミが、痛んだ毛先を少しずつ切り落としていく。

 長方形の鏡を見つめながら、ずっと脹相くんのことを考えていた。

 受肉を果たした呪胎九相図2番と3番、そして未だ行方知れずの4番から9番。姿かたちこそ違えど全て同じ標本瓶に封じられた呪胎にも関わらず、わたしがここまで心惹かれるのは呪胎九相図1番――つまり脹相くんだけだった。

「恋は事故みたいなものでね、理由なんて求めるだけ無駄だよ」

 豊かな知性と教養を感じさせる声が、記憶の奥底から浮かび上がる。

「どれだけ思考を重ねたところで、どうせ全てが後付けになる。必要なのは恋に落ちたという事実、たったそれだけだからね」

 呪物ひとつにいつまでも心を絡め取られたわたしに、由基ちゃんは慈愛に満ちた優しい視線を寄越した。色の抜けた長い睫毛が、飛び立つ蝶のようにゆっくりと羽ばたく。

「調べがついたよ。ちゃんを焦がしてやまない例の呪物は高専に保管されている」
「呪術高専に?」
「ああ。天元のことは知っているかな?あれの結界術の中さ」
「由基ちゃん」
「駄目だよ。他ならぬちゃんの頼みとはいえ、さすがにそこまでは力になれない。悪いね。でも、好きな相手の居所くらいは知っておいたほうが、不安な気持ちも少しはマシになるだろう?」

 目を伏せたわたしの頭頂に手を置くと、由基ちゃんは自らの肩に引き寄せた。駄々をこねる子どもをなだめるように、垂れた頭を何度も撫でつける。

「そんなに暗い顔をするな。いつか会えるよ。きっと、そう遠くない未来に」

 屈託ない笑顔が脳裏から消え失せたときには、わたしの髪は緩やかな曲線を描いていた。

 白い照明を浴びた艶やかな髪には、天使の輪とも呼ばれる丸い輪っかが浮かんでいる。髪が整っただけで一気に垢抜けたような印象を受ける。満足したことを示すように、美容師に向かって笑顔で頷いてみせた。

 会計を手早く済ませると、アシスタントが無機質な重い扉を開けてくれた。

「外、雨が降ってるそうです。傘はありますか?」
「迎えが来るので大丈夫です。ありがとうございます」
「足元には気を付けて下さいね。後悔しないように、頑張って!」

 胸の前で作られた固い握りこぶしに、自然と笑みがこぼれる。もう一度だけ礼を口にして、雑居ビルの古びた階段を駆け下りていく。外の様子を確認して、そこで足を止めた。

 灰一色に染まった重い空から、無数の雨粒が落ちている。

 日本列島に跨る秋雨前線の影響だった。雨足はさほど強くないものの、今日は終日雨が降り続くのだと天気予報士が言っていた。

 傘を片手に、多くの人が目の前を行き交っている。

 傑くんの姿を探そうと視線を右に移動させたとき、曼珠沙華の色をした骨の多い和傘が視界に飛び込んできた。裾の長い法衣から覗く、藁草履のような黒い履物が濡れた歩道を踏んでいる。そのつま先は少しずつわたしに近づいていた。

 傑くんだった。

 雨を避けるように和傘が傾けられているせいで、顔は見えない。それでも傑くんだと断言できた。傑くんが愛用している草木染の黒い法衣と黄蘗の袈裟。織りも染めも縫製も、全て自らの手で行った“呪物”を見間違えるはずがなかった。

 それは非術師並みの呪力の漏出を勝手に行う呪物だった。身に着けた人間の呪力を完全に断ちながら、非術師のように際限なく呪力を垂れ流す呪物。着るだけで術師の目を容易く欺くことができるそれを目で確認しながら、濡れ鼠にならずに済むことにほっと安堵する。

 雨を踏んだ足音が眼前で止まる。真っ赤な和傘から雨粒が滴り落ちていく。

「傑くんごめんね、お待たせ」
「夏油がよかったのか?」

 硬く凍てついた声が響いた瞬間、わたしの世界から全ての音が消失した。

 降り注ぐ秋霖の音も、雑踏にこぼれる会話も、走り去る車のエンジン音も、何もかもが消えていた。咄嗟のことでうまく機能しない脳髄は、目の前の彼だけを認識しようとしていた。

 鮮血よりもなお昏い和傘が持ち上がる。わたしは目を大きく見開いた。

 恐ろしく表情の乏しい顔がそこにあった。

 健康的な肌を押し上げる、男性らしい直線的な骨格。底知れぬ深淵を溶かした双眸の真下には、鼻を横切って酸化した血色の太い一文字が刻まれている。頭の高い位置で結い上げた後ろ髪には収まらなかったのだろう、行き場を失った短い前髪が額にぽつぽつと垂れ下がっている。

 視線を交わしても、精悍な眉は微動だにしない。幅の狭い二重目蓋は上下することなく、感情の一片さえも窺わせようとしなかった。

 浅くなった息を何とか繋ぎながら、眼前の青年の輪郭を視線だけでなぞっていく。頭の中には大量の言葉がぶちまけられているのに、一向に声に変わる気配はない。脈打つ心臓の音がひどくうるさかった。

 赤い和傘がこちらに傾く。

「俺が欲しいと言ったのはだろう?」

 死魚のように光のない瞳が、わたしを捕らえて離さない。