贅沢な鱗番外編その参

 呪術史の授業を担当する夜蛾学長が出張ということで、二限目は急遽自習になった。今日は二年生との合同授業の予定だったから、教室はいつもよりうんと賑やかだ。

「自習って要は“授業が終わるまでは教室にいなさい”ってことでしょ?」

 欠伸混じりにスマホを操作する野薔薇ちゃんが言うと、スマホを片手に頬杖を突く狗巻先輩が「しゃけ」と気だるげに頷いた。真希先輩は授業開始早々「寝る」と言って机に突っ伏し、すでに夢の中である。

「お前ら、もうちょい真面目に課題やれよ」とパンダ先輩が窘めたものの、野薔薇ちゃんと狗巻先輩は素知らぬ顔でスマホに夢中だ。

 わたしは課題として配布されたプリントに目を落とし続けている。けれど、どれだけ記憶をひっくり返してみても答えが全くわからなかった。

 問1、禹歩の法は誰が伝えたとされる呪術的な歩行法か。

 見事に1問目からつまづいてしまった。そもそも“禹歩”とは何と読むのだろう。読み方がわからなければ調べようもないので、完全にお手上げ状態である。

 相変わらずの記憶力の悪さに辟易する。気を紛らすようにふと隣に視線を滑らせれば、恵くんが鞄から新書を取り出している。わたしは目を瞬いた。

「恵くん、プリントは?」
「もう終わった」
「まだ五分しか経ってないのに?!」

 素っ頓狂な声を上げて驚けば、野薔薇ちゃんと狗巻先輩がふたり揃って振り返る。

「伏黒~プリント貸して~」
「は?お前答え写すつもりだろ。自分でやれ」
「すじこ~」
「見せません。自分でやってください」

 その冷たい対応にふたりはぶうぶうと非難を投げたけれど、恵くんは取り合うこともせず黙殺した。わたしは新書を目でなぞる彼におそるおそる視線を送った。

「恵くん、えっと、答え写させてください……」

 胡乱げに眉を寄せた彼がこちらを軽く一瞥する。

もかよ」
「この課題もすごく大事なんだけど、でも、今週の呪符ノルマ達成してなくて……締め切り今日だし、できればそっちを優先したいというか……」
「計画的に作らないからだろ。テレビばっか観てるが悪い」
「う……」

 言い返す言葉もなく、わたしは恵くんをじっとりと睨め付けるにとどまる。一緒になって観ているくせに。恵くんのせいで捗らないのだと言うと責任転嫁するなと叱られるに決まっているので、わたしは次の作戦に出ることにした。

「恵くん」
「見せねぇからな」
「答えを見せてくれたら、ちゅーしてあげます。これでどう?!」

 我ながら名案だと思ったのだけれど、彼は眉根に刻んだ縦皺をさらに深くして言った。

「……そんなことで見せると思ってんのか?」
「じゃあいっぱいちゅーしてあげます!恵くんがもういいって言うまで!それでも駄目?!」
「駄目だ。回数の問題じゃねえよ」

 嘆息した恵くんがわたしから視線を外すと、会話を聞いていた三人が愕然とした表情で身を乗り出した。

「嘘だろ恵!にいっぱいちゅーされたくないのか?!正気か?!」
「おかかおかか!」
「答え見せるだけでがいっぱいちゅーしてくれんのよ?!ちょっとアンタどうかしてるわよ!」
「どうかしてんのはそっちだろ……」

 呆れ返った様子で恵くんが肩をすくめる。「うるせぇ……」と机に伏した真希先輩が小さく唸った。わたしは一縷の望みに縋るように、精一杯の上目遣いで恵くんに甘えてみる。

「恵くん、プリント見せてほしいな?」
「そうやって猫撫で声出しても無駄だ。あきらめろ」
「はーい……」

 渋々頷くと、再び意味のわからない設問に向き合う。どうしても“禹歩”の読み方がわからない。今夜悟くんにこっ酷く叱られるのだと思うと、何だか泣きそうになってきた。もうあきらめて次の問題に進もうと思った矢先、小さな嘆息が耳朶を打った。

 呆れたような顔で彼はわたしのすぐ隣までイスを移動させ、目を瞬くわたしに呪術史の教科書を開いてみせた。左下のページを無骨な指で示す。

「ここ」
「え?……あ、“禹歩”!あった!」

 答えである“禹”を回答欄に記入すると、次の設問へ視線を移動させる。

「えっと、問2は――」
「ん」

 恵くんは無愛想に教科書を数ページ捲った。わたしは彼の怜悧なかんばせをじっと見つめる。

「恵くん……」
「早く解け。呪符、作るんだろ」
「うん!」

 誘導してもらったお陰で課題はあっという間に終わったし、野薔薇ちゃんと狗巻先輩はわたしの答えを悪びれもなく丸写しした。そんなふたりに呆れ返る恵くんに笑いながら、わたしは呪符作りに精を出した。

 とはいえ、ほんの僅かのところでノルマを達成できず、悟くんと行った“罰ゲーム”が恵くんの逆鱗に触れて大騒ぎになったのだけれど――それはまた、別の話だ。

2021.05.26