贅沢な鱗番外編その弐

「……“○○しないと出られない部屋”」

 白い看板の上に存分に振るわれた達筆を、伏黒恵は抑揚に欠けた平板な声音で読み上げた。長く使われていない空き教室の扉に堂々と掲げられたそれを見つめながら、「この“○○”って何?」と恵の傍らで五条が不思議そうに首を傾げる。

 起きたばかりのが「悟くんに呼び出された。恵くんも一緒に来いって」と言うから警戒しつつ同行すれば、案の定あの軽薄な男はひどく下らないことにを巻き込むつもりだったらしい。達筆なそれを憎々しげに睥睨した恵は、スラックスのポケットに手を突っ込んで素早く踵を返した。

「帰るぞ」
「えっ、まだ入ってないのに?」

 驚いた声を上げると、はすぐに恵を追いかけた。眉間に深い皺を刻んだ恵が苛立ちを露わにする。

「まだ入ってねぇからだ。絶対碌な目に遭わねぇよ」
「例えば?」
「……ふたりでいかがわしいことしろとか、どうせそういう内容だろ」
「いかがわしい……」

 難しい顔をしたは数秒黙り込むと、はっと何かを閃いたように恵の顔を覗き込む。

「キスしないと出られない、とか?」
「それで済むなら良いけどな」
「ふぅん……」

 は納得したように唇を軽く尖らせ、その場で足を止めた。つられて立ち止まった恵が「……?」と名を呼べば、は恵の声を黙殺して来た道を引き戻り始める。

 突然の行動に呆然としたのも束の間だった。は怪しい看板が掲げられた教室の扉に、あろうことか手をかけたのだ。血相を変えて廊下を蹴った恵はその細い手首を強く掴んで慌てて制止した。

「なんで入ろうとするんだよ!」
「恵くんといかがわしいことがしたい」

 恵を見上げて大真面目に欲望を吐き出したに、恵は呆れ返る他なかった。

「…………お前馬鹿だろマジで」

 ここのところ毎晩しているアレはいかがわしいことではないのだろうか。の言う“いかがわしい”の基準がわからず、芋づる式で昨夜の行為を思い出した恵の頭はあっという間に劣情に侵された。見た目によらず己が欲に忠実なは、しかし恵の複雑な胸中を一蹴するように二の句を継ぐ。

「とまぁ冗談はさておき」
「……冗談かよ」
「本当に出られないのかなって興味あるんだ。何だかちょっとワクワクする」
「本当に出られなかったらどうするつもりだ」
「呪術だったら無効化するよ?わたしに任せて!」

 不敵な笑みを浮かべて胸を張るに対し、恵は至極真っ当な質問を投げた。

「領域使う大義名分は?何かあるのか?」
「部屋に閉じ込められた恵くんが餓死しちゃう。可哀想」
「恋人の餓死を可哀想の一言で済ませんな」

 とはいえ、こうも乗り気なを止めるのはもはや不可能だろう。恵は小さな嘆息とともに抵抗を諦めると、扉を勢いよく開くの背中をじっと見つめた。

「いざっ!頼もーうっ!」
って救いようのない馬鹿だよな……」

 それに付き合う俺も同じくらい馬鹿なんだろうけど。そう腹の内で自虐しつつ、恵は堂々と空き教室に足を踏み入れるに続いた。

 教室の壁に沿って机と椅子がまとめられ、中央には広い空間が作られていた。そこに置かれているのは二台のハンガーラックと簡易更衣室だ。古びた黒板に白いチョークで書かれた文字に、恵の顔がみるみる引きつる。

「……がコスプレしないと出られない部屋」
「わたし?」

 首をひねったは次の瞬間、雷にでも打たれたかのように「あ、鍵!」と視線を扉へ向けた。我に返った恵がすぐに扉に手をかけたが、いつの間にやら完全に施錠されている。

「……駄目だな。外から鍵が掛かってる」
「内側からは開けられないみたいだね」
「壊すか」
「駄目だよ!そんなことしたら夜蛾学長に叱られて反省文だよ?!弁償だってさせられるかも!」

 の強い抗議に恵が眉を寄せたそのとき、

がコスプレしないと出られない部屋へようこそ!」

 年季の入った扉の向こうで、呪術高専で最も軽薄な声が響いた。「悟くんだ」とが緊張感に欠けた調子で、この馬鹿げた部屋を作り上げた犯人の名を口にする。

「どう?どう?驚いた?」
「そうですね。下らなさ過ぎて引いてます」

 噴いた怒りを抑えつつ恵が腹の底から低音を絞り出したときには、の姿は恵の隣から忽然と消えている。嫌な予感を覚えた恵が振り返れば、はハンガーラックに釣り下がる数々の衣装を物色し始めていた。

「ど、れ、に、し、よ、う、か、な」
「着ようとするな!」
「どうして?ちょっと着れば出られるんだよ?」

 不思議そうに言うと、は丈の長い白衣を自らの身体に当ててみせた。

「はーい恵くーん、お注射の時間ですよー」

 噴き出したような五条の不愉快な笑い声が、唖然とする恵の耳朶を叩き続ける。恵の反応など気にする様子もなく、は次に警察官風の衣装を手に取り身体に沿わせた。

「逮捕しちゃうぞっ!」

 白群の双眸から光が消え、みるみる感情が死んでいく。白と黒のメイド服を選んだは恵に向かって丁寧にお辞儀した。

「お帰りなさいませ、ご主人様」

 ひとり楽しげに次々と衣装を手に取るから視線を外すと、恵は扉の外で大爆笑している五条に問いかけた。

「……五条先生、これまさか」
「そ!張り切ってイメプレ用の衣装揃えてみたんだけど、いやぁのノリの良さったらないね!ホント最高だよ!そうそう、気に入ったのがあったらどれでも好きなだけ持って帰って良いから。あ、ちゃんとクリーニングしてから返してね」

 全ての感情が死んだような表情で恵は早口に捲し立てた。

「おい今すぐ扉ぶっ壊してここから出るぞ」
「え、どうして?!壊したらお説教と反省文だしきっと弁償だよ?!」
「大丈夫だ。五条先生に弁償させる」
「恵くん天才!じゃあお説教と反省文は?」
「道連れに決まってんだろ」
「それはやだっ!絶対に嫌だーっ!」

 しかしの懸命な抗議も空しく、滾った憤怒をぶつけるように、恵はたった一度で扉を蹴破り鍵を容赦なく破壊した。下らない企てをした五条の姿はどこにも見当たらず、鋭い舌打ちをひとつ落とす。思い切りぶん殴ってやろうと思ったのに。

「お説教と反省文……」と悲しそうに項垂れるの手を攫うように握ってやると、はあっという間に笑顔になった。恵の手を優しく握り返しながら、茶目っぽい口調とともに口端を吊り上げる。

「いっぱいキスしてくれたら全部許します」
「……夜にな」
「やった!でも残念。せっかくだし一着くらい着ておけば良かったな。勿体ないことしたかも。ね、恵くんはどれ着てほしかった?」

 無邪気な笑みを見せるに、恵は視線を逸らして重い唇を開いた。

「……強いて言うなら」
「強いて言うなら?」
「……………………いや、やっぱやめとく」
「えーっ!」

2021.01.02 拍手御礼夢
2021.03.24 加筆修正