カクリヨ番外編その弐

「もうすぐ棘くんと付き合って一月なんですよね。でも全然実感なくて」
「……何故その話を私にする?」
「記念日に温泉旅行なんて夢みたいです。バカップル感否めないですけど」
「帰る」
「加茂くんごめんなさーい!待ってくださーい!」

 ひどい棒読みで引きとめると、うんざりした様子で加茂くんがイスに座り直した。呪術高専東京校の姉妹校である京都校、その空き教室にいるのは加茂くんとわたしだけだった。

「……ならば早く本題に入れ」
「じゃあお言葉に甘えて」

 スマホのボイスレコーダーアプリを起動させると、わたしは前のめりに尋ねた。

「加茂の術式って空気中の水分量にはどの程度左右されますか?そもそもどれくらいの濃度の血液を血液と定義していますか?湿度が高い日は低い日に比べてパフォーマンスは何%くらい落ちますか?他人の血液は操れますか?雨の日、特に土砂降りの日はどの程度術式の使用が可能ですか?」
「そんなに天候が気になるのか……」
「術式が成り立つ条件ですよ?数学でいう公理です。気になって当然じゃないですか」

 どんな術式にも前提条件が存在する。それを知らずして術式の理解など無理な話だと思うのだけれど。すると嘆息をひとつ落として、加茂くんは眉間に皺を刻んだ。

「何故私を選んだ。お前のような半端者を殺すとは思わなかったのか?」

 それは回答からはほど遠い言葉だった。わたしはアプリを停止させながらにっこりと笑んでみせた。

「ここまで術式を開示されたら、きっとわたしは即死でしょうね。そもそも太刀打ちする手段がありませんから、殺すのは赤子の手をひねるより容易いと思います」
「わかっていて、何故」
「だからこそですよ」

 どこか驚いたように加茂くんの細い瞳が僅かに開いた。隙間から見えた双眸を見据えて、わたしは滔々と言葉を紡ぐ。

「わたしが京都で死ねば、疑いの目は必ず京都に向きますから。だって棘くんとの念願の温泉旅行を控えたわたしが自殺なんて絶対にありえない。となれば他殺を疑うのが筋でしょう?」
「……」
「交流会前に余計な騒ぎなんて起こしたくないですよね?あの五条悟がわたしの死を利用しないはずがないですから。被呪状態にあるとはいえ、呪術もロクに使えない丸腰の凡人高専生を殺すことは、上層部や京都校を糾弾するだけの正当な理由に値します」
「何故呪術師に殺されたと断言できる?呪霊による可能性も充分に考えられるはずだが」
「被呪したわたしを殺すなら必ず呪術で殺さなければならない――となれば、あとはもう五条悟の独壇場です。“最強”の“六眼”が見抜けないほどの小細工ができるとは思えません」
「……」
「交流会を控えた今、五条悟にこれ以上アドバンテージを与えたくない上層部は、結局わたしを泳がせておくしかないんですよね」

 笑みを含んだ声を漏らせば、加茂くんが長いため息を吐いた。

「すべて理解した上で、あえて京都に来たわけか」
「だれにも邪魔されず加茂くんに会いたかったので」
「私でなくとも五条悟や伏黒がいるだろう」
「五条先生や伏黒くんには血に対する敬意がありません」
「敬意?」
「血筋が繋ぐ術式に対して、最も敬意を払っているのが加茂くんだと思います。たくさんの呪術師に会ってきたけれど、あなた以上に自らの術式に敬意を払っている術師は知らない。だからこそ加茂くんに教わりたくて」
「……それこそとんだ買い被りだな」

 そこで言葉を切ると、声音に鋭いものを含ませながらわたしをにらみつける。

「私の考えを聞いて何になる。そもそもお前がやろうとしていることは呪術とは呼べない邪道だろう。その上で呪術を知ってどうする?何故そこまで呪術にこだわる?」
「ずっと続いてきた伝統だから――でしょうか。そこには大なり小なり、たくさんの人の想いが詰まっているでしょう?」
「お前がやろうとしていることは伝統でも何でもない気がするが」
「わたしのやり方とは別の話ですよ。別にわたしは無科を否定したいわけでも、呪術を冒涜したいわけでもない。そこは勘違いしないでほしいんです。凡人のわたしには全然合わないから、ちょっと視点を変えてみようかなって、ただそれだけ。でもそのためにはたくさんの人が命懸けで繋いできた想いを知る必要があると思うから」

 術式と才能と血筋に縛られた呪術界で生きていくためには、もっとその歴史を知る必要があるのだ。多くの人の想いを知らなければならないのだ。わたしのやり方に明確な道筋を示すために。

「想いを蔑ろにして発展するものに価値はない」

 きっぱりと言い切って、わたしはずいっと身を乗り出した。

「前提条件は百歩譲って我慢しても、物理法則無視についてはちゃんと教えてもらいますからね」
「そもそもお前はそれを訊きに来たんだろう。他のことを訊く必要性など感じられないが」
「必要あります。だって加茂くんが敵になったときの対抗策くらいは考えておかないと」
「そのイスに座る前に考えてこなかったのか」
「もちろん考えてきましたよ」

 口元に微笑をこしらえると、小さなポシェットからすでに薬剤の入った注射器を取り出した。注射針のついたそれを見せびらかすように眼前に掲げて、わたしは淀みなく声を継ぐ。

「この薬で加茂くんの血液の外因系凝固を活性化させ、DIC――播種性血管内凝固症候群を誘発させます。血管内に大量の血栓がばらまかれ、虚血状態になった臓器は次々に壊死する。臓器が機能不全に陥れば加茂くんだろうと術式は使えないし、命だって危険ですよね?」

 実験的にわたしの術式で作った薬剤の効果は、家入先生によればマウス相手に充分な効果を発揮したらしい。加茂くんが今日はじめて表情を引きつらせた。

「……どこが“太刀打ちする手段がない”だ。最初から脅すつもりだったな」
「脅しじゃなくて牽制です。棘くんのためなら喜んで死にますけど、それ以外の理由で死ぬ気はさらさらないので。タダで殺されるつもりないんです、わたし」

 そう言うと、わたしは立てた人差し指をそっと自らの唇に押し当てる。茶目っぽい笑みを浮かべながら。

「あ、この薬のことは棘くんにはくれぐれも内密に。こっぴどく叱られちゃうので」
「狗巻の女の趣味を疑う……」
「先に言っておきますけど、これでも棘くんには従順な女ですよ」
「ぬけぬけと。どうせ猫を被っているだけだろう。お前、呪術師より呪詛師になったほうがよかったんじゃないか」
「それよく言われます。さあ観念して話してくださいね」

2020.6.28