唐突な意識の覚醒は、ひどい圧迫感を伴う鈍痛によってもたらされた。わたしは狭いベッドの中でゆっくりと寝返りを打つと、隣で静かに眠り続ける脹相くんの肩を軽く揺さぶった。

「……頭痛い」

 眠気を過分に含んだ声音で体調不良を訴えれば、脹相くんは僅かに眉根を寄せながら目蓋を開いた。ちょっと面倒臭そうに顔の向きを変えて、わたしを視界の中央に置く。眠気を払うように一度だけ瞬きをすると、寝起き特有のやや枯れた声を押し出した。

「寒気は?」
「……する」

 言われてみれば異様なほど寒気がして、指先や肩が小刻みに震えていた。自覚した途端、身体が自分のものではなくなったような感覚に襲われた。肋骨の隙間から、粘り気のある不安感が徐々に染み出していく。

 わたしは震えを堪えるように背中を丸めた。しかし、すぐに「」と呼ばれて視線を持ち上げる。

 こちらを見つめる脹相くんの顔に、もう面倒臭そうな様子はなかった。ぎゅっと縮こまるわたしに顔を寄せると、前髪を指で除けつつ自らの額をわたしの額にくっつける。脹相くんのそれはひんやりとして、とても気持ちが良かった。

「……熱いな」

 小さく呟くや、脹相くんは直ちに上体を起こした。そして流れるような動作で部屋を出て行ってしまう。あっという間の出来事だった。

 とはいえ、ひとりぼっちで取り残された感じがしなかったのは、脹相くんがベッドから離れる際に優しく頭を撫でられたからだろう。つまり、いい子で大人しく待っていろ、という意味だ。

 脹相くんはわたしを大人の女性として扱ってくれるけれど、こうして聞き分けの悪い子どもを相手にするような扱いもしてくれる。まるで、好きなように振る舞っていいよ、きみのことは全部わかってるよ、と言うみたいに。

 “呪い”なんて不可解なものが見えるせいで、不思議なことにはもう慣れっこだ。でも、脹相くんだけは例外だった。脹相くんの前で何重も猫を被ったところで、全て丁寧に剥がされてしまう。簡単にわたしの鎧を外してしまう、脹相くんのそういうところがとても好きだ。

 数分後、脹相くんは体温計と飲料水を持って戻ってきた。照明灯を点けた部屋で、ひどく呆れた顔のまま体温計を差し出す。「病気だと思うと余計つらくなる」とやんわり抗議したものの、脹相くんは鋭い眼光を寄越すだけで取り合う様子は全くない。

「だったら何故起こした」と今にも言わんばかりの表情に、わたしは下唇をきゅっと噛んだ。体温計を渋々脇に挟んで数秒、表示された38.9という数字の並びに自分でも驚いてしまった。

「雨に濡れて帰ってくるからだ」
「降るなんて思わなかった」
「俺は傘を持っていけと言ったんだがな」

 そういえば、そんなことを言われたような気がする。わたしは聞こえなかったふりをして飲料水に手を伸ばした。とにかく体温を下げたかったし、後頭部を強く圧迫するようなひどい鈍痛から早く解放されたかった。喉奥に水を流し込んでいると、脹相くんが言った。

「薬はあるのか」
「……あったような、なかったような」

 わたしは曖昧な記憶をぼそぼそと告げた。脹相くんは呆れた様子でひとつ溜息を吐き、「少し出る」とだけ言い残し、また部屋を出て行ってしまった。今度は遠くのほうから玄関扉の開閉音が聞こえた。きっと買い出しに行ってくれたのだろう。

 思考を鈍らせる頭痛に呻きつつ、枕に顔をぎゅっと押し付ける。わたしの帰宅時間を狙ったように心変わりした天候を恨む元気すらなかった。痛みが引くことをただひたすらに願う。

 ほどなくして、玄関のほうから物音がした。脹相くん、と思ったのも束の間、頭まですっぽり被っていた布団が力任せに剥ぎ取られる。急に視界が明るくなって、あまりの眩しさに目を細めた。歪に狭くなった世界の中心に、顔をしかめた脹相くんがいる。

「大人しくしていろ」

 抑揚に失せた平板的な声音が耳朶を打った瞬間、突然ショートパンツを膝まで引き下げられた。勢いそのまま、下着まで一緒に下がってしまって、わたしは色気のない素っ頓狂な声を押し出す他なかった。

「えっ?!」
「何度も言わせるな。じっとしていろ」

 念を押すようにゆっくりと言うと、脹相くんはわたしの膝を掴んで大きく押し開いていく。情事を彷彿とさせる開脚に、理解が全く追い付かない。病人を犯さざるを得ないほど溜まっているなんて可哀想にと思っていたら、「そこまで飢えてはいない。どこかの誰かのお陰で」と脹相くんが心外そうな顔をした。

 露わになった鼠蹊部に、熱を下げるための冷却シートが手早く貼られた。思わず「ひゃっ!」と変な声が出たけれど、脹相くんは眉ひとつ動かすことなく無視をした。額と首と脇にも冷却シートをぺたぺたと貼り、解熱剤と水を半ば無理やりわたしに飲ませた。手荒い看病だった。

 ぴりゃりと打つように「寝ろ」と言われ、わたしは大人しくそれに従った。頭痛はどんどんひどくなっていて、もはや抵抗する元気はどこにも残っていなかった。脹相くんは部屋の明かりを消して、ベッドに潜り込んだ。

「朝になっても高熱なら、病院に行け」
「……ついてきてくれる?」
「ああ。そのつもりだ」

 鼓膜を叩いた柔らかな響きに、自然と笑みがこぼれる。わたしは脹相くんの胸に顔を寄せると、弱音を吐くように訴えた。

「……頭、すごく痛い」
「薬が効くまで我慢しろ」
「……身体が熱くて、息苦しい」
「喋ってないで早く眠れ」
「……渋谷、わたし参加できない」
「馬鹿なことを。一週間もあれば治るだろう」

 鬼だ。スパルタだ。じっとりと睨め付けると、脹相くんがわたしの頭を撫でた。

「何が気に入らない」
「……全部」
「だからと言って、東京を離れるつもりはないんだろう?」

 答えなど最初からわかっているかのような問いかけだった。わたしは脹相くんの胸に額を押し付ける。冷却シートが肌により密着して、ぬるいような冷たいようなそれの心地好さだけを感じ取ろうとした。熱が下がったあとのことは、何も考えたくなかった。

 脹相くんが「おやすみ、」と言う。ひどい頭痛が和らいでいくと同時に、意識が少しずつ遠のいていく。揺蕩うような浮遊感は、しかしあっという間に消えてしまった。


20210821
香雨に逃げる