焼べる命などひとつもない、孤独な暮夜にも似た黒瞳が、ただ一点をじっと見つめている。死魚の如く濁ったその視線を独占しているのは、ふっくらと柔らかな曲線を持つ面長の白い生き物だった。小洒落たカフェの前に置かれた大きなぬいぐるみのそれと対峙するように、脹相くんはすでに十秒以上その場に縫い付けられている。

 感情の凪いだ無機質なかんばせに、ようやく胡乱な色が微かに滲んだ。遥か遠いフィンランドのどこかに住むという、世界中で愛される架空の生き物に目を置いたまま、脹相くんは微かに眉を寄せる。

「……白いカバ」
「“僕はカバじゃない!”って怒られるよ?」

 半歩後ろから揶揄するような声音を滑り込ませれば、首をひねった彼が不服そうな視線をこちらへ寄越す。納得いかない様子でのほほんとしたその白いキャラクターを睨め付ける彼に、わたしは会話を広げようと質問を投じた。

「脹相くんの一般常識的にはカバなの?」
「……正直よくわからんな。正体不明の生き物としか言いようがない。初期の此奴はもっと痩せていて不気味だったはずだが」
「その知識はあるんだ。ちょっと意外」
「妖怪か?」
「そこはせめて妖精って言おう?」
「正解は何だ」
「何だろうね。わたしにもよくわからないかも」

 すると、脹相くんがやや驚いた様子で片眉を持ち上げた。

「よくわからんのに好きなのか」
「よくわからないから好きなんだよ」

 噛み締めるように微笑を湛えて答えると、わたしはぽやんとした表情のぬいぐるみを見つめる。妖怪なのか妖精なのかもわからぬ彼以上に、特級呪物“呪胎九相図1番”が受肉した存在である脹相くんのことも、わたしは正直よくわからなかった。

 自他の肉体への執着を滅するための仏画“九相図”をなぞらえた九つの呪物、その始まりであり長兄である彼が一体どのようにして生まれたのか。“最悪の呪詛師”の異名を戴冠する加茂憲倫――もとい羂索くんからはその辺りのことをほとんど聞いていない。そもそも結果に至るまでの過程を耳にすることは、わたしにとって無粋以外の何物でもなかった。

 結果から過程を想像するのが面白いのだ。至るまでの道程に想いを馳せるのが楽しいのだ。全てわからないからこそ、わたしは脹相くんが好きで好きで堪らないのだろう。

「入らんのか」と平板な響きで促され、わたしは間断なくかぶりを振った。彼に手を引かれる形でカフェに足を踏み入れる。そこはその白いキャラクターが登場する童話の世界観や、彼の故郷である北欧の雰囲気を落とし込んだ、柔らく穏やかな雰囲気のカフェだった。奥まった四人掛けのテーブル席に通され、わたしたちは向かい合うように座った。

 平日の開店直後とはいえ、客足が全く絶えているわけではない。すでに入店していた数名の客が、脹相くんへと物珍しげな視線をちらちらと送っている。

 精巧な彫刻のように整ったかんばせに、頭の高い位置でふたつに結われた黒い髪。すっと通った鼻筋を横切る、黒く酸化した血色の一閃。極め付けは仄かに白檀が立ち昇る和装だろうか。ビジュアル系バンドのメンバーと説明すれば納得されそうなその出で立ちは、奇抜と言えば奇抜な恰好に違いなかった。

 わたしは眼前に焦点を固定すると、好奇の目に晒される脹相くんに向かって念を押すように尋ねた。

「本当に良かったの?」
「何がだ」
「こういうところ、苦手なんじゃないかと思って」
「苦手というより興味がない」

 抑揚に失せた響きで応じるや、何もかも見透かすような黒瞳がわたしを撫で付けた。

「興味はないが嫌ではない。勘違いするな」
「どうして一緒に来てくれたの?」
「俺が頷かなければ誰を誘う気だった?」

 まるで問い質すような厳しい口調だった。わたしはそこにたっぷりと塗り込まれた嫉妬を掬い上げると、しかし何も言わず曖昧に笑って誤魔化した。途端に彼はきつく顔をしかめ、「のそういうところが好かん」と不機嫌極まりない様子で吐き捨てる。

 嫌なことを嫌だと、そうやってはっきり言ってくれるところが好きだ。脹相くんが嫌だと思うことも、その理由も、もっとたくさん知っておきたかった。これからも長く付き合っていくために。わたしは鋭利な視線から逃げるように少しだけ目を伏せると、口端に微笑を拵えて質問を重ねた。

「わたしに好意的な人を誘うことの何が悪いの?」
「そこに付随する性行為の如何についてはどう言い訳するつもりだ」
「非道い言い草。すぐに死ぬ生き物に情なんて移さないのに」
「夏油の件は棚に上げるのか」

 言葉を奪うような鋭い指摘に思わず眉根を寄せる。数秒の沈黙を挟んで、わたしは眼前に視線を送った。

「そんなに嫌なら見張ってくれて良いよ?」
「だからこうして付いて来たんだろう」

 諦念が滲む小さな嘆息を鼓膜が拾い上げたときだった。眩しいばかりの営業スマイルを貼り付けた店員がやって来て、脹相くんの隣の空いた席にぬいぐるみを座らせた。黄色の前髪を持つ彼女はカフェの軒先に飾られていた彼のガールフレンドだ。目を瞬いている間にも店員の手によって、わたしの隣に緑色の帽子を被った青年のようなぬいぐるみが腰掛ける。

 阿るような媚笑を残して店員が去る。わたしたちの間に流れる空気を少しでも和やかなものに変えようと、気を遣ってくれたのかもしれない。脹相くんがわたしの隣席に座る青年を見つめて呟いた。

「……相席か」

 感慨深げな声音に、わたしは堪え切れず小さく噴き出す。

「……ふ、ふふ」
「何がおかしい」
「ごめんなさい。脹相くんがそんなこと言い出すとは思ってなくて」

 やや口早に言うと、旅が好きな青年を模したぬいぐるみに目を滑らせた。

「男の子だけど良いの?」
「人形相手にまで妬くと思うな」
「残念。わたしは脹相くんの隣の彼女に妬いてるのにな」

 わたしが茶目っぽく笑って見せれば、脹相くんが数秒の間を置いて「……正気か?」と尋ねる。人間の命より長く残るもののほうが、わたしにとっては脅威かもしれないと思う。彼の問いに肯定とも否定とも付かない曖昧さで首を振り、わたしはメニューに視線を落とした。

「なに食べる?」
「何でも構わん。こだわりはない」
「じゃあ適当に頼むね」
「ああ」

 軽食の注文を終えると、わたしは脹相くんを見つめた。彼はすぐに感情の失せた表情をこちらへ寄越す。

「何だ」
「わたしの恋人は優しいなぁって」
にだけだ」
「そうなの?」
「下心があるからな」
「……えっと、あの、それは、この後の?」
「俺にだけ付随しないと言うわけでもあるまい」

 さも当然のように答える彼にわたしは何も言えなくなった。すでに心臓が早鐘を打ち始めている。身体中の熱という熱が顔に一点集中しているような気がした。

 茹で上がったように紅潮しているであろう顔を隣へ向けると、旅人である彼に「どうしよう」と面映ゆさの混じった戸惑いを口にする。やがて数秒も待たずして、「其奴に相談してどうする」と呆れ返った低音が確かに響いた。


20210414
君の渇きがわかる(お題箱より)