※大人になった乙骨君とのお話です。










ちゃん、ただいま」

 突として耳朶を打った挨拶が、深い眠りの森に落ちていたわたしの意識を引っ張り上げた。それはあまりに突然のことだったから、目蓋を持ち上げたわたしは大袈裟なほど肩をびくっと派手に震わせる。

 ちょっとだけ値の張ったソファから上体を起こし、大好きな声音が響いたほうを見れば、そこには帰宅したばかりの憂太くんが立っていた。艶やかな黒髪はところどころ跳ねていて、まるで強風にでも煽られたかのような有り様だ。もしかすると、仕事が終わるや否や、急いで帰って来てくれたのかもしれない。

 ああそっか、もうそんな時間なんだ。眠気の残る頭の片隅でそんなことをぼんやりと考えながら、わたしは憂太くんの挨拶に掠れた声音で応えた。

「……おかえり」

 わたしが手にするスマホからは、好きなバンドが今朝発表した新曲のミュージックビデオが流れ続けている。目を瞬かせながらわたしを見つめる憂太くんの顔と、賑やかな色彩を映し出すスマホの画面の間で、眠気を引きずる視線を何度も行ったり来たりさせた。

 自らが置かれている状況を飲み込んだ瞬間、全身から音を立てて血の気が引いた。放り投げるようにしてスマホから手を離すや、わたしは噴いた焦燥を剥き出しにしたまま叫んだ。

「あ、ごめん!晩ご飯作ってない!」

 言い終わる前に勢いよくソファから立ち上がれば、憂太くんが暮夜にも似た双眸をぱっと丸くした。

ちゃんにしては珍しいね。何かあった?」
「……そう、かな?別に、何もないよ?」
「本当?」
「うっ……ない、こともない、かなぁ……」

 目を逸らして歯切れ悪く白状すると、憂太くんがやや緩慢な足取りでこちらに近づいてきた。わたしは彼から逃げるように俯いたけれど、彼は決してそれを許してくれなかった。

 どこか躊躇う素振りを滲ませながらもわたしの顔をそうっと覗き込むと、憂太くんはわたしと視線を深く絡める。垂れ目がちの双眸はすでに心配の色に染まっていた。

「どうしたの?」
「えっと……」
「言いたくないこと?」
「……ううん。今日、ね……仕事で、結構大きなミスして……」
「うん」
「原因は……わたしの、確認不足で……」
「うん」
「そのせいで、周りにいっぱい、迷惑、かけちゃって……」
「うん」
「それで……なんか、全然やる気が起きなくて……」

 つまらない事実を声に乗せてしまったあとで、わたしはひどく後悔した。なんてくだらない理由なのだろう。わたしの分はまだしも、繁忙期で疲労困憊であるはずの憂太くんの晩ご飯を作らなかった理由になるわけがない。

 怠けた自らに腹が立って仕方なかった。憂太くんはお腹をぺこぺこにして帰って来ているのに。後悔が後から後から湧いていた。心がどんどん毛羽立っていくのを憂太くんに気取られたくなくて、わたしは喋ることで必死に取り繕うとする。

「まだ何も作ってないって、先に連絡しておけば良かったね。ごめんね、お腹空いたよね。何かデリバリーでも頼もっか」

 口早に提案したわたしに、しかし憂太くんは小さくかぶりを振った。何か言われるのかと半ば反射的に身構えたけれど、彼の顔に浮かんだのは苛立ちではなく、いつもと変わらぬ穏やかな笑顔だった。

「よし!今日は僕が作るよ!」
「……え?」
「今からだとちょっと時間かかると思うけど、待ってもらえるかな?」

 そう言いながらも憂太くんはわたしの返事を待たず、ひとり足早にキッチンへ向かってしまった。わたしはスマホを引っ掴んで彼の白い背中を追いかける。

 今から作るよりデリバリーを頼んだほうがずっと早いし楽だろう。それは憂太くんもわかっているはずなのに、どうして。

 食い下がるために口を開こうとすると、憂太くんが鷹揚に振り返った。まるで後頭部に目でも付いているかのような、完璧に見計らったタイミングで。

「言ったでしょ?今日は僕が作るって。だからスマホは仕舞って」
「でも」
「最近ずっとちゃんにお願いしてたし、そろそろ交代したいんだ。作りたい気分っていうか、まあ、そんな感じ。ちゃんの負担になってること、気づかなくて本当にごめんね」
「ううん、そんなことない。憂太くん今はすごく仕事忙しくて、だからわたしが――」
「仕事が忙しいのはちゃんも一緒じゃない?」
「わたしは、憂太くんより、全然……」

 わたしの返答を聞いた憂太くんはすぐに険しい顔をした。

ちゃんはどうしてそうやって比べたがるのかな」
「……だって」

 少しでも抗弁しようと唇を割れば、彼はどこか呆れた様子で小さく笑った。

「あーあ、この話するの何回目だろ?僕の仕事もちゃんの仕事も、どっちも誰かのためになる大切な仕事だよ。優劣なんてどこにもない」

 そんなことはないとわたしは胸の内で首を振った。常に命の危険が付き纏う彼の仕事に比べれば、わたしの仕事なんてどうということはない。しかも憂太くんは呪術師の中でも桁違いの強さを誇る“特級術師”だ。頼りにされているからこそ海外出張も多いし、休日もわたしよりずっとずっと少なかった。

 だからこそわたしは「でも……」と濁った言葉を漏らしたというのに、憂太くんはひどく真摯な視線でわたしを真正面から穿った。

「お願いだから、“でも”は言わないで」

 彼はわたしの瞳をまっすぐに見据えていた。寸分も揺れ動くことなく。こうなってしまったら、わたしがもう何を言っても無駄だ。憂太くんは絶対に考えを曲げないし、わたしを頷かせるまで根気強く説得を続けることだろう。

 わたしが視線を逸らそうとすれば、間髪入れずに「駄目だよ。ちゃんと僕のほう見て」と少し怒気を含んだ声音が鼓膜を叩く。どうやら逃がしてはくれないらしい。

 憂太くんはびっくりするほど優しいし、優柔不断でちょっとヘタレなところもあるけれど、そう簡単に自分の信念を曲げるような人ではなかった。そういうところが好きで好きで仕方ないのに、こういうときはちょっと複雑な気持ちになってしまう。

「一緒に住もうって決めたときの約束は?」
「……どんなときも気後れしないこと」
「もっと大事なこと忘れてない?ちゃんだけの特権」
「……わたしはいつでも、憂太くんに甘えて良い」
「うん、そうだよ」

 優しい口調で投げかけられる質問にぽつぽつと答えれば、憂太くんは満足げに大きく頷いた。逃げ場のない誘導尋問を終えた彼は、人好きのする垂れ目に柔らかな光を宿して続ける。

「だから今日から僕が作るよ。ちゃんより帰って来られるよう頑張るね。でもたまにはちゃんの手料理が食べたいから、そのときは代わってくれる?」
「……うん」

 とは言ったものの、しんしんと積もり続ける自責とは折り合いが付く気配はない。ひどく申し訳ない気持ちを抱えたまま、わたしは憂太くんの背中をぼんやり見つめた。

 彼は大きなパスタ鍋を取り出して、そこに水をたっぷり注ぎ始める。何を作ろうとしているのか察した瞬間に堪らなくなって、ちょっと猫背気味の背中にぎゅうっときつく抱き付いた。

「わっ」と驚いた声を漏らした憂太くんが、首だけを捻ってこちらに視線を寄越す。困ったような響きでわたしの名を呼んだ。

「……ちゃん」
「憂太くん、ちょっと死臭がするね」
「うっ……わかってるならくっつかないでよ……」
「シャワー浴びて来なかったの?」
「一秒でも早く帰りたかったんだ。既読、付かなかったから」

 言うと、憂太くんは水を止めた。テキパキと次の工程に進みたいはずなのに、彼は背中に邪魔なわたしをくっ付けたまま緩慢に動いている。

 ここで「邪魔」だとか「退いて」だとか、そういうことを絶対に言わないのが憂太くんの愛情だった。わたしのしたいようにさせてくれる。約束通り、存分に甘えさせてくれる。彼はきっと、わたしのことが大好きなのだろう。

「だから今日はトマトスパゲティなの?」
「そうだよ。誰よりも笑っていてほしい人が落ち込んでるからね。少しでも笑顔にさせてあげたくて」

 その響きに柔らかな微笑みを含ませる憂太くんの背中に、わたしはそっと額を預けた。

「その人を言葉で励ましたりしないんだね」
「うん、今日はね。そういうのとは違うかなって」
「どういうこと?」
「“誰だってミスはするよ”とか、“次、同じことをしなければ良いんだよ”とか、僕がどうこう言うのは簡単だよ。でも、明日からも変わらず仕事をしていくのは僕じゃないから。明日もまた頑張ろうって思ってもらえるように、僕はその人が元気になるようなことをするだけだよ」

 今にも呼吸が止まりそうだった。目の前で幸せという幸せがぱちぱちと音を立てて弾けているようだった。かっと熱を持った目頭から涙が滲んで、視界の解像度が一気に落ちていく。今ですら憂太くんのことがどうしようもなく好きなのに、ああもう、また好きになってしまう。

 憂太くんに全部見抜かれているようで、何だかちょっと悔しくて、わたしは微かに死臭の残る白い背中に額をぐりぐりと擦り付ける。何も言葉が出て来ないくらいうれしかっただけだというのに、一体何を勘違いしたのか、憂太くんは気まずげな様子でゆっくりと尋ねた。

「好きな料理で元気出して!――なんて、安直すぎる?」
「ううん。きっとすっごい元気が出ると思うよ」
「そっか。それなら良かった」

 ほっと安堵したように花笑む声音で応えた憂太くんに、わたしは少し意地の悪い言葉をぶつけてみることにした。

「でもね、憂太くん」
「……え?」
「憂太くんに優しくキスしてもらえたら、その人はもっともっと元気が出る気がするよ?」
「……えーっと」

 言葉に詰まりながら、彼はわざとらしく明後日の方向を見つめる。背中から腕を離して「ちゃんとわたしのほう見て」とさっき聞いたばかりの台詞を紡げば、「……はい」と憂太くんは渋々わたしと正面から向き合った。

 ちょっとヘタレな憂太くん。そういうところも含めて好きで好きで仕方ない。そんなことを思いながら、わたしは目蓋をそうっと閉じて、顎を少しだけ持ち上げる。所謂キス待ち顔である。さあいつでも来い!と全力で構えていたというのに、聞こえてきたのは憂太くんの照れたような声だった。

「えーっと、それ、今じゃないと駄目、かな」

 遠回しの拒絶にわたしは不満たっぷりに目を開く。甘えても良いと言ったのはどこのどいつだとばかりに睨み付ければ、憂太くんは「いや、何て言うか、その」と言葉にならない言い訳を繰り返した。ふらふらと視線を彷徨わせる彼のかんばせをじっと見つめたまま、わたしは素直な感想を口にする。

「憂太くん、ヘタレすぎる」
「……うっ」
「知ってるけど。そういうとこも好きだけど」
「…………すみません」
「ううん、こっちこそ。料理の邪魔してごめんね」

 わたしがソファに戻ろうと方向転換すると、憂太くんがぱしっとわたしの手首をどこか強引に掴んだ。足を止めて振り返れば、垂れ下がった前髪の下で彼は真っ赤な顔をしていた。しかしこちらを見つめる黒の双眸には、肉食獣めいた色濃い欲が揺らめいている。

「……キス、したくないわけじゃ、なくて。ごめん。その……今日は、きっとそれだけじゃ終われない、と思う……最近、ちゃんとそういうこと、全然してないから……だから、えっと……ベッドで、させてください……」

 ひどく自信なさげに並べられた言葉に、わたしは何度も瞬きを繰り返した。憂太くんは素早くわたしの手首を離すと、慌てた様子でかぶりを振った。

「ごめん、調子に乗った。ちゃん元気ないのに、何言ってんだろ。本当にごめんね。今の聞かなかったことに――」
「うれしいよ」
「……え?」
「だからね、うれしいよって言ったの」

 わたしが笑うと、憂太くんはますます顔を赤くした。繁忙期真っ只中の憂太くんを誘うのは気が引けていたのだ。わたしとそういうことをする暇があるなら休息を取ってほしかったから。わたしは憂太くんの胸に飛び込んで、その身体をぎゅうっときつく抱きしめる。

「うれしいから、いっぱいして」
「……またそんな可愛いこと言って。ここで襲ってもいいの?」
「ヘタレな憂太くんにはそんなことできないって知ってまーす」
ちゃんのこと大事にしたいだけだよ。わかってないなぁ」

 わたしを優しく抱きしめながら、憂太くんは拗ねたように唇を尖らせた。

 それからしばらく経って、憂太くん特製のトマトスパゲティがダイニングテーブルに並んだ。食欲をそそる匂いがわたしの鼻腔を刺激している。憂太くんと向かい合って座り、ふたりで同時に手を合わせて、いつものように声を揃えた。

「いただきます」

 煮蕩けたトマトの赤い実をパスタに絡めると、口の中を目掛けてゆっくりと運ぶ。柔らかな幸せで目が眩んでしまいそうな、心がほっと落ち着くような美味しさがわたしの舌の上に乗った。この美味しさの秘密はスパイスだと憂太くんが言っていたっけ。わたしはもぐもぐと口を動かしている憂太くんに笑いかけた。

「美味しい。すっごい元気出る」
「良かった」

 味わって食べ進めながら、悪戯心が湧いたわたしは裸足のつま先を憂太くんのほうへ伸ばした。素知らぬ顔をしたまま、それを彼の足に這わせていく。

 しかし残念なことに、わたしの心が完全復活するには、もうちょっと元気が足りないかもしれない。憂太くんの指に絡めるように足を動かしていると、険しい表情の彼がとうとう口を開いた。

「……ちゃん」
「なに?」
「僕の言いたいことわかってるよね?」
「うん?何のこと?」
「……大人しくご飯食べてくれる?」
「食べてるよ?」

 白々しく答えれば、じっとりと睨め付けられる。とはいえちっとも怖くなくて、わたしは思わず噴き出してしまった。憂太くんの口から小さな嘆息がこぼれ落ち、諦念を含んだ視線がトマトスパゲティに戻る。

「そうやって余裕な顔してられるの、今だけだよ」

 憂太くんにしては珍しい、ひどく強気な言葉だった。肋骨の内側で疼くような熱が生まれて、わたしはつま先で彼の少し冷たい足の甲をつうっとなぞった。

「狗巻君に“乙骨憂太は体調不良のためお休みします、ごめんなさい”って連絡してあげるから、覚悟してね」

 勝気な台詞とともに底意地の悪い微笑を拵える。憂太くんとするのは久しぶりだし、今夜はわたしもいっぱい頑張ろう。ちょっとくらい寝不足になってもいい。だって、そのほうがうんと元気が出るのだから。

 憂太くんはわたしの我儘に付き合ってくれるだろうか。付き合ってくれるといいなぁと頭の隅で希望を結んだとき、げほげほと噎せ返った響きが眼前から聞こえてきた。

 わたしは苦笑を滲ませながら肩をすくめる。「大丈夫?」と言いながら、水の入ったグラスを優柔不断でちょっとヘタレな憂太くんに差し出した。


20210403
幸福の彩度