「全然帰ってこないと思ったら……」

 地下へと繋がる無機質な扉を開いた五条悟は、ひどく呆れた様子で肩をすくめた。

 丸いサングラスの奥で縹色の瞳がなぞるのは、二人用のソファを占領する巨大な毛布の塊だ。ノルディック柄の分厚い毛布の隙間から、華奢な細腕がだらりと垂れている。この地下室を根城とする女主人はどうやら就寝中らしい。

 時刻は午後十一時――寝静まる時間帯であることに間違いはないが、この地下室は呪術高専の敷地内の一画にある。つまりここは自宅ではないし、ましてや寝泊り可能なホテルでもない。一日ならまだしも、三日も四日も平気で泊まり込むような場所ではないのだ。

 悟は毛布の塊から視線を外すと、電気の点いた明るい空間に足を踏み入れる。左手からぶら下がった白いビニール袋が身体と擦れ、かさかさと小さな音を立てた。

 剥き出しのセメントで囲われた地下室はそれほど広くはなかった。牢獄じみた飾り気のない内装が、見る者全てに硬質で寒々しい印象を与えている。どこにも行けない閉塞感すらも。

 部屋の中心を陣取るデスクの上には、三台の大きなモニターが並ぶ。漆黒のキーボードと繋がった正面の一台を挟むように、残りの二台がハの字に設置されている。使用者が眠りこけている最中でも、画面上では大小さまざまなプログラムが走り続けていた。

 デスクに近づいた悟のつま先が、ふいに何かを蹴った。目を落とせば、床に銀色のスマホが転がっている。上体を屈めるようにして、悟はそれを拾い上げた。長方形の液晶画面は無残にひび割れているが、昨日今日の傷ではないことを悟はよく知っていた。

 揺動にまるで反応しないスマホに小さな予感を覚える。ホームボタンや電源ボタンを何度か押してみたものの、スマホはうんともすんとも言わなかった。

「やっぱり充電切れてる。仕事用じゃないからって扱いが雑すぎだろ」

 ため息混じりにぼやきつつ、ただのインテリアと化したスマホをデスクの上に置く。

 鼠色のソファを占領する毛布の塊からは、すうすうと規則正しい寝息が漏れ聞こえている。唇を横一文字に結んだ悟は分厚いそれを空いた右手で掴むや否や、躊躇することなく一瞬で剥ぎ取ってみせた。

 毛布の下から現れたのは、喪服めいたパンツスーツ姿の女だった。

 うつ伏せの状態で眠っている女は、やがて身震いしながら「さむ……」と小声で呻いた。そして何かに気づいたようにゆっくりと頭を持ち上げる。白い天井灯が眩しいのか、マスカラに彩られた瞳を何度も瞬かせながら。

 たっぷりと眠気を滲ませた視線が、ようやく己を見下ろす男を認識した。

「あれ……悟くんだぁ」

 輪郭のはっきりしない暢気な声音に、悟はたちまち毒気を抜かれる。連絡ひとつ寄越さなかったことに何かひとつでも文句を言ってやろうと思っていたのに、全てがどうでもよくなってしまう。

 長い足を折り畳むようにしてその場にしゃがみ込むと、眠たげな双眸と目線の高さを合わせた。

 すぐに伸びてきた華奢な手が、悟の青みがかった白髪頭を撫で始める。まるで宝物に触れるかのような、ひどく優しい手つきで。

 ソファに寝そべったままの女――がふふっと幸せそうに笑みをこぼす。

「どうしたの?」
「それはこっちの台詞」

 うんざりとした口調で答えると、今度は悟が質問を投げかけた。

「首尾は?」
「んー……上々?」
「家には?」
「しばらく帰れないかも」
「ああ、だと思ったよ」

 答えを予想していた顔で頷けば、の双眸に茶目っぽい色が走る。

「わたしがいなくて寂しくなっちゃった?」

 揶揄するような問いに、悟は表情ひとつ変えなかった。から視線を外し、デスク周りを目でなぞり始める。

「ところでスマホの充電器、どこに置いたの?先週買ってあげたよね?」
「あ、話そらした。図星だな?」
「違ぇよ。そろそろが寂しがってる頃だと思ったから、忙しい合間を縫ってわざわざ来てあげたんだよ。それで、せっかく買ってあげた純正品の充電器はどこ?」
「乙骨くんが充電器壊れたって言うから、あげた」
「……あのねぇ」

 しかしその先を続けることなく、悟は白いビニール袋をちょうど顔の高さまで掲げた。ビニール袋からは食欲をそそる香りが漂っている。鼻孔を焦がされたの表情がぱっと明るくなった。

「牛丼だ!」
「どうせまた何も食べてないんでしょ。僕も食べるからソファ空けて」

 は即座に身体を起こすと、膝を合わせてソファに腰かけた。その隣に腰を下ろした悟がテイクアウトの牛丼を取り出す様子を見つめながら、小さな子どものようにうきうきと肩を弾ませる。

「特盛?大盛り?やっぱり特盛?」
「大盛り。今何時だと思ってんの」
「ショック……特盛がよかった……」
「足りないならあげるから」
「やった!」

 両手を上げて喜びを露わにした後、「いただきます!」とは口いっぱいに牛丼を頬張り始めた。悟は割り箸を割りながらに視線を滑らせる。「んー!しあわせ!」と悶えるようにおいしさを噛み締めるを見ていると、たった数百円の牛丼がどんな高級料理よりもおいしそうに見えるのだから不思議だ。

「この僕にここまで世話を焼かせるのはくらいのもんだよ?」
「わたしってば果報者?」
「本当にね。ちゃんと自覚して」

 湯気の立ちのぼる牛丼を口に運ぼうとしたとき、が悪戯っぽい笑みを結んだ。

「じゃあお茶も淹れてくれる?」
「なんでそこで“じゃあ”になるのかが全くわかんないんだけど」
「悟くーん」

 砂糖をまぶした甘ったるい声に引き上げられるように、渋々といった様子で悟は両膝を伸ばした。この部屋の勝手は知り尽くしていた。こぢんまりとした冷蔵庫から取りだした緑茶を紙コップに注いでいく。

「なんだかんだ言いながらワガママきいてくれるところ、大好きだよ」

 耳を打ったその一言だけで報われた気持ちになるのだから、始末に負えない。悟は紙コップを両手にのもとへ戻る。

「下心がたっぷりあるからね」
「あ、やらしい。そんな悟くんにはとびきり素敵な仕事を頼んじゃおうかな」
「どうせ“特級案件”だろ?報酬は?」

 紙コップを差し出すと、それを受け取ったが悟を笑顔で見上げる。

「あなたの可愛い恋人を丸一日好き放題できます。どう?」

 その提案に即答することなく、悟はソファに深く腰かけた。逡巡しながら更に問いを重ねる。

「他に抱えてる特級案件とかないの?」
「他?……んー、そうだなぁ。急いでないのが一つ、二つ……四つかな。一級案件は六つ。あとは一級なのか特級なのかが微妙で調査中の案件が三つあるよ」

 指折りながら答えたに、悟は「そう」と深く頷いてみせた。しばらく沈思した後、牛丼を咀嚼するの顔をじっと覗き込んだ。の目蓋がゆっくりと上下すると、悟はひどく真剣な声音で条件を並べ立て始める。

「それ僕がまとめて全部やるから、世界で一番可愛い恋人を二日間好き放題できる権利に変えて。あと出張の場合は同伴の術師は無し、宿泊は必ず補助監督と同室にすること。それからこれが一番大事」

 そこで一旦言葉を切ると、真面目くさった口振りで明朗に告げた。

「全ての案件において、補助監督はが務めること」

 は牛丼を喉奥に押し込めて、静かに首肯した。その唇には不敵な笑みが浮かんでいる。

「いいよ。その条件、全て飲みましょう」



 * * *



「資料はこれで全部だよ」

 食事を終えたがタブレット端末を手渡すと、「ありがとう」と悟は軽薄な笑みを口端に刻んだ。電子化された大量の資料に素早く目を通しながら、呪術高専からの経路を脳内で簡単に組み立てていく。

「悟くんがわたしの資料に目を通すなんて珍しいね。いつもはぶっつけ本番なのに」
を信頼してないわけじゃないよ。ただ今回は調べなくちゃいけないことがあるからさ」

 澄ました顔で悟は自らのスマホを取り出し、タブレットに表示された任務地を検索エンジンに入力していった。目を瞬かせたが悟に身体を寄せるように位置を変えると、ソファが僅かに上下する。

 スマホの画面を見せつけるように、悟はのほうへと上体を傾けた。画面を目にしたが小さく首をひねる。

「ホテル?」
「そう。どこに泊まろうかなぁと思って」

 理解の及んでいないに体重をかけながら、悟がくつくつと喉を鳴らす。

「だって経費でラブホ代が落ちるようなもんでしょ。最高だよね」
「あ、本音は厳禁だよ悟くん」
「ごめん、ついうっかり」

 特に悪びれた様子もなく呟くと、咳ばらいをして胡散臭い建前を口にする。

「ダブルに宿泊することで経費削減に努めました。これでオッケー?」
「百点満点花丸です。本音は絶対言っちゃ駄目だからね」

 とはいえ、悟の邪な本音を知らない人間は呪術高専にはいないだろう。

 出張にかかる諸経費が大幅に浮いているから黙認されているものの、そうでなければ非難を浴びることは避けられないはずだ。もちろん、経費が浮くような小細工をしているも同罪なのだろうが。

 大量に表示されるホテルに目を滑らせながら、がぽつっと呟いた。

「悟くんと仕事なんて久しぶりかも」
「かも、じゃなくて、久しぶりだから。しかも一ヶ月ぶりなんて有り得ない」
「補助監督の希望、出してないの?」
「出してる、出してる、出しまくってる!でもここ最近は全ッ然通らないんだよ!伊地知ならすんなり通るのになんで?!僕とを別れさせようって魂胆?!」

 憎々しげに顔を歪める悟に、が苦笑を返す。

「悟くんが“最強”だから仕方ないよ」
「いや絶対に違うね。それが理由なら尚更僕はと仕事すべきだろ。単純にの競争率が高いだけだ。そりゃそうだよな、と組めば絶対に死なないんだから」

 愚痴のような投げやりな言葉はまだ続く。

「弱いヤツほどと組みたがる。補佐が仕事の補助監督に平気で守られるなんて、術師としてのプライドはないのかな。は子守りが仕事じゃないんだよ、それなのにさぁ」
「モテモテでごめんね。でも誰も死なせたくないから断りたくないの。それに、悟くんなら死なないでしょ?」
「まぁそうだけど……あー駄目だ、なんかすっげー腹立ってきた。この間の休みもそうだよ。せっかくの遊園地デートも電話一本で呪霊祓除デートに変わるだろ?この十年でマトモにデートしたことある?全く記憶にねぇんだけど」

 はスマホから目を上げると、苛立ちを露わにする悟を見つめた。きょとんとした顔で首を傾げる。

「だってアレ、わざとだよ?」
「……は?」
「知らなかったの?」

 目を見開いて唖然とする悟に、は懇切丁寧に説明を加えた。

「仕事を断らないわたしと少しでも長く過ごすために、悟くんは本気で呪霊を祓ってくれるでしょ?瞬間移動も使って秒殺。ううん、瞬殺かな。どんな危険な案件だろうと確実に終わる上に、一般人の避難や戦闘の後始末なんていう面倒な仕事はわたしが全部片付けちゃう。だからみんなわかってて、わたしの休みに電話してくるんだよ。忙しくて海外出張も多い“最強”の悟くんが確実に捕まるのも大きいと思うけどね」
の休み、イコール、僕とのデート……」
「そういうこと。わたしが国内から出られないことも、みんな知ってるから」

 助けを求める同僚たちの狡い魂胆を理解していながら、それでもは仕事を引き受けているようだった。悟はの顔を真正面から見据えると、真摯な視線で必死に訴えかけた。

「ね、また術師やろう?今度はちゃんと昇級してさ、特級同士仲良くしようよ」
「やだ。術師がしたくてここにいるわけじゃないし」
「給料も待遇も全然違うのに、それでも補助監督がいいなんて本当に変わり者だよね」
「でも悟くんはそんな変わり者が好きなんでしょ?」

 が悪戯っぽく唇を尖らせれば、悟は噛み付くような口付けを落とした。顔の角度を変えながら深い口付けを繰り返す。互いの舌の上に残った牛丼の甘辛い味がすっかりなくなってしまうまで。

 沸騰するような欲が滲んだ視線を交わす。のとろりと蕩けた黒瞳を見つめたまま、笑みを浮かべた悟が熱っぽく囁いた。

「うん、大好き」
「デートの邪魔は我慢してね。それで誰も死なないなら万々歳なんだから」

 その言葉にわざとらしく肩をすくめると、やれやれといった様子で悟は言い放ってみせた。

「ま、仕方ないか。最強の呪術師と最強の補助監督――僕らに敵なんかいないからさ」
「世界征服もできるかも」
「違いないね」

 自信たっぷりな悟の同意に茶目っぽい笑みを返して、は再びスマホに目を落とした。空いたの手に悟の大きな手が重なる。一ミリの隙間もないほど、深く強く絡んでいく。

「ね、悟くん。ここは?天然温泉だって」
「貸切がいいんだけど……うっわ、金取るのかよ」
「それ経費で上げられないからね」
「そこは何とかしてよ」
「無理です」


20191207
最強を冠する者の謀略
(五条悟生誕祭夢企画「Rub the Night」様へ提出)