「今一番欲しいもの?」

 どこか意地悪そうな笑顔が好きだった。

「あ、わかった。それ卒業式に渡すつもりなんでしょ。先輩、卒業おめでとうございます!って言って」
「違っ、違いますよっ」
「どうだか」
「それで?」
「うーん、そうだなあ……笑わない?」
「は、はい。絶対に笑いませんので」

 夕日の差しこむ放課後の教室。卒業をすぐ目の前に控えた彼女は、視線を天井に這わせると、桃色に染まった唇を開いた。

「名字かな」
「名字?」
「欲しい名字があるんだよ」

 それが私の名字でないことは明白だった。悪だくみを重ねたような笑顔の先には、いつだってたった一人の男がいたから。

 その笑顔が私に向けられることは一度もなく、少し離れた場所から彼女の笑顔を見つめる他、私はなにもできなかった。

 初恋は決して実らないという。そう言い聞かせることで彼女への未練を断ち切ろうとしたものの、手に入れられなかったせいだろう、どんな女性と交際しても彼女への想いはくすぶったままだった。

 だから、あの意地悪な笑顔がスマホに映し出されたとき、心臓が止まったような気がした。不変的なはずの時間の流れが、どんどんゆるやかになっていくのを感覚した。

「ちょっと伊地知、暇だからこれで婚活してみてよ」と五条さんに勝手にダウンロードされて、勝手に課金までされていた婚活アプリ。暇なのは私ではなく五条さんのほうだろう。課金をされたからにはと貧乏根性丸出しでちょっと操作して、私は見つけてしまったのだ。

 おすすめの女性として表示されたのは、私が学生時代からずっと焦がれていた女性――その人だった。


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 結論から言えば、彼女は私が知り合いであることに気づかなかった。

 婚活アプリ内で“いいね”をしたときも、メッセージのやりとりをしたときも、メッセージアプリのIDを交換したときも、彼女は私が呪術高専の後輩である“伊地知潔高”であることにまったく気づかなかった。

 実際会うことになっても、それは変わらなかった。

「遅れてしまってごめんなさい」

 昼間の熱気が残る夜の七時すぎ。もうすぐ八月が終わるとは思えない暑さの中、人のごった返す駅前に現れたのは、黒いワンピースを着た彼女だった。

 学生時代よりもずっと大人びた彼女に、たった一瞬で目を奪われる。なにも言い返せずにいると、彼女は不安げに首をひねった。

「キヨタカさんですよね?」
「……覚えていませんか」

 ぼそぼそと問いかけても、彼女の表情は晴れない。それどころか、訝しげな色がますます濃くなるばかりだ。

「伊地知です。伊地知潔高」

 観念して名乗ったところで、ようやく彼女のマスカラで彩られた目蓋が上下した。

「あーっ!伊地知?!」

 駅前で叫んだ彼女を引きずるようにして、予約していた近くのイタリアンに入った。若い男女が多い店内はカジュアルな雰囲気で、私たちの間に張られた緊張を少しずつ和らげてくれた。

 赤ワインを口にする彼女に目を向ける。

「仕事は順調ですか?」
「うん。最高の商売敵でしょ?」
「上層部が苛立っていますよ。仕事が流れる、と。もう少し依頼価格をあげてほしいようですが……」
「フリーランスだからね。君たちみたいに余計なところでお金は取らない主義なの」
「呪術師がフリーでできるような仕事だとは思ってませんでしたよ」
「価格設定はもちろんだけど、実績と信頼があってこそかな。口コミに助けられてる部分が大きいよ」

 運ばれてきたピザに手を伸ばす彼女に、ずっと訊きたかったことを投げかけた。

「素性を隠して結婚するつもりなんですか?」
「うん。いけない?」
「……いえ」

 気まずさを取り払うように、彼女はこちらに視線を送った。

「五条とは年に一回くらい会ってるよ」
「そうなんですか」
「あいつ、今すっごく楽しそう。革命家にでもなるつもり?」

 口の端についたトマトソースを舌で舐めとる、その仕草に心臓がばくりと音を立てた。視線をピザへ移動させながら、彼女の言葉を待った。

「もしも五条が女だったら、あんな待遇じゃないだろうね。そもそも五条のあの性格で、“特級術師”の地位を与えられていたかどうか……まあ、だから私はフリーランスになったわけだけど」
「仕事は自由にできていますか?」
「うん。今の政治を牛耳ってる偉い人たちに直接電話できるくらいにはね」
「そこまで……」
「がむしゃらに働いた甲斐があったってもんよ」

 意地悪な笑みが浮かぶ。その表情は学生時代となにも変わらないし、肋骨の奥でうずく私の感情の質もそれほど変わっていない。

「それで、先輩……いえ、さん」

 私は居住まいを正した。

「本題に入りましょう。結婚相手に、なにを求めますか?」

 彼女の目が大きく見開かれる。

「その……私は、本気ですので」
「伊地知、マジで言ってんの?」
「学生時代からずっと、先輩のことが好きでしたから」
「うっそォ、知らなかった。すっごい爆弾発言。なんで告白しなかったの?」
「……恋人が、いたでしょう」

 彼女は些細なことのように「うん」と小さく頷いた。去年のクリスマスのことが頭をよぎって、私は口を開く。

さんが婚活を始めたのは、もしかして」
「いいよ」

 明るい声に言葉を遮られた。

「結婚しようか」
「え?」
「伊地知と結婚したからって、そっち側に戻るつもりはない。今まで通りフリーランスでやっていく。その条件でもいいなら」
「かまいませんが……そんなにあっさり決めていいんですか」
「逆に聞くけど、私でいいの?」

 ワイングラスを傾けながら、彼女が続けた。

「繋がっていた証拠はなにも残してないし、子どもだって作ってない。作ってないっていうか、作れないんだけどさ。私、子宮取られちゃったから」
「……取られた?」
「食べられたって言ったほうが正しいかな。失敗しちゃって、内臓のあちこちがないんだよ」

 彼女の術式は降霊呪法だ。呪いを使役するのではなく、自らの肉体に呪いを宿す――呪いを降ろすことでその力を自在に操る呪術である。呪術が生まれた頃から存在する歴史のある呪術だが、その危険度は他の呪術よりも遥かに高い。

「それ、いつの話ですか」
「十五だから、高専一年のときだね。入学してすぐ」
「……みなさん、知ってたんですか?」
「ほとんど言ってないけど、多分硝子だけは気づいてたと思う。生理痛に悩んだことないって言ったとき、妙に物分かりよかったし」

 私はしばらく彼女の顔を見つめて、やっと言葉を絞りだした。

「どうして、今更そんなことを言うんですか。関係を認めるようなことだって。私が上に報告する可能性も――」
「だって結婚したいから。伊地知と」

 至極当然のことのように、彼女は言った。頭の中で話がうまく繋がらず、咄嗟にこぼれ落ちたのはすがるような声だけだった。

「好きでもないのに」
「意外とロマンチストだね。結婚なんて打算でできるでしょ。呪術師はみんなそうじゃん。まあ、子どもを作るって前提があるけどさ」

 伏せられた双眸に秘められた、憂いの感情を理解する。

 それが前提だというなら、あなたは。いや、あなたたちは。

 ぱさぱさに乾いて固くなった唇を小さく割った。

「ロマンチストなのは、あなたたちのほうでは?」
「……伊地知の名字が欲しくなっちゃったな」

 残ったワインを一気に飲み干すと、彼女は流れるような動きで財布から紙幣を取りだした。

「こんな私でもいいなら、また連絡して」

 彼女は一万円札を一枚置いて、颯爽と店をあとにした。引きとめる暇もなく、紙幣に印字された偉人の顔を食い入るように見つめることしかできない。

 答えは決まっていた。そこに彼女の心がついてくるかどうかが不安なだけで。

 雑踏に消えた彼女の背中を思い出しながら、冷めてしまったピザにゆっくりとかぶりついた。


20190702
何にもなれない羊たち