※百合夢です。苦手な方はご注意ください。










「真希ちゃん」

 私の名を紡ぐその声は不安に染まりきっていて、今にも泣き出しそうな雰囲気だった。

 決して泣くようなことで悩んでいるわけではないことを、私はよく知っていた。呆れた感情が込み上げてきて、その場で小さくため息を落とした。には聞こえないように、そっと。

 ベッドに寝転がっていた私は雑誌から目を上げ、すぐそばまでやってきていたに顔を向けた。化粧だけは完璧に終えたらしいは、その華奢な両手にワンピースを持っていた。眉をへの字に曲げて、私をまっすぐ見据えている。

「こっちとこっち、どっちがいいかな?」

 言いながら差し出されたワンピースを見つめる。私から見て右が淡いピンクのシンプルなデザインで、左が紺色の可愛らしいデザインだった。

 どちらものお気に入りの一着であり、私と出かけた際に購入したものだ。どちらも似合うから正直何でもよかったのだが、そういう適当なことを言うとはすぐに拗ねてしまうので少しだけ考えることにした。

 はたと思い至る。ついこの間行ったスイーツバイキングで、彼女がピンクのワンピースを着て楽しそうに笑っていた姿が脳裏に蘇った。

「右」
「真希ちゃんから見て?」
から見て。紺のほう」
「わかった。髪もセットするから、あと十五分ちょうだい」

 真面目くさった顔で言うと、はその場で着替え始めた。白く艶やかな肌が見えて、私は雑誌に目を戻した。疼いた欲に蓋をするために。今日は一日部屋で過ごそうなんて言ったら、きっとは不貞腐れて口も効いてくれなくなる。

「ちょっと出かけるだけだろ」
「違います、デートです。原宿デートなんです」

 今日の行き先は原宿なのかと思いながら、ページをめくる。

 が毎月買っているファッション誌には所々に折り目や付箋がついていて、色とりどりの付箋には“買う!”だとか“試着する!”だとか“真希ちゃんが好きそう!”だとか、テンションの高い言葉が書き添えられていた。

“真希ちゃんが好きそう!”だというコーディネートを目でなぞる。ざっくりとした大きめのニットとタイトなミニスカートの組み合わせだった。

 私はワンピースの袖に手を通しているに視線を送った。

「もっと狙ってないほうがいい」
「どれ?」

 が背中のファスナーを引き上げながら、雑誌を覗き込んできた。一人では引き上げきれなかったのだろう、はすぐに「んっ」と顔をしかめた。私が体を起こしてファスナーを代わりに上げた後、ついでにホックもきっちり留めてやった。相変わらず細い体だなと思いながら。

 ファスナーに向かっていたの意識が、再び雑誌に戻った。

「これ、好きじゃなかった?」
「露骨すぎだろ。はもっと可愛い格好が似合うよ。こういうの」

 ファッション誌の冒頭に戻って、人気女優のインタビューページを指で差す。タイトなトップスにフリルのついたスカートを着こなす姿を目に入れたは、途端に苦い顔をした。

「似合わないよ」

 ぴしゃりとはねつけると、洗面台に向かってしまった。床を踏む足音は大きかった。の機嫌を損ねたかと思った瞬間、

「真希ちゃんみたいに顔が綺麗じゃないから」

と、拗ねたような声が飛んできた。

 私はベッドからするりと下りて、ヘアアイロンで髪を巻き始めたその後ろ姿に声をかけた。

は綺麗だよ。私よりずっと」
「お世辞をどうもありがとう」

 その場で恭しく一礼すると、は洗面台の大きな鏡に映った私を見つめながら言う。

「綺麗は無理でも可愛くなりたい。もっと可愛くなりたいよ」
「今でも充分可愛いだろ」
「でも一番じゃないでしょ?わたしより可愛い人なんて、ごまんといるんだもん」

 髪をゆるく巻いているの目が、みるみるうちに冷めていく。いつもの柔らかな光はもうどこにもなかった。

「好きな人に世界で一番可愛いって言ってもらうためなら、なんでもするよ」
「……なんでもって、大袈裟だな」
「大袈裟じゃないよ。“呪い”に魂だって売ってもいいと思ってる」

 ヘアアイロンから手を離すと、ワックスを手に取って髪に丁寧に揉み込んだ。「リップ塗り直そ」とひとりごちると、立ち尽くす私の脇を通り過ぎて化粧ポーチを開いた。

 は時折、物騒なことを口にする。私の愛情を独占しようというときのは氷点下の目になるのだ。鋭利で冷徹なその瞳はぞっとするほど美しかった。何かよからぬモノが宿っているのではないかと思うほどに。

 鏡を手に、口紅を塗っている彼女の名前を呼んだ。


「なあに?」

 振り返ったの顎を手ですくって、赤く彩られた唇に自分のそれをきつく押しつけた。

 絶対零度の瞳に私が映るやいなや、じわりと溶けるように熱が生まれて艶やかな色に変わった。この瞬間がたまらなく好きだった。を私で塗り潰しているような感覚が、何にも代え難い高揚感を生んだ。

 顔を離すと、が私の唇に釘づけになっていた。

「付いちゃったね」

 すぐに察しがついた。の赤色が薄くなっていたから。口紅を塗るのは趣味ではなかった。取ろうとティッシュに手を伸ばそうとしたとき、

「拭わないで」

と、に優しく手を取られた。彼女は頭を引いて、私の顔をじっくりと眺めた。うっとりするような目を向けられて、途端に居心地が悪くなる。

「うん、やっぱり綺麗。真希ちゃんが世界で一番綺麗だよ」

 満足気に言うと、はティッシュで私の唇をなぞった。

「馬鹿じゃねえの。そんなこと言うの、だけだかんな」
「みんな黙ってるだけでそう思ってるよ。真希ちゃんは美人だから」

 ティッシュをゴミ箱に放り込んだが、大きなため息をついた。

「どんな“呪い”に魂を売れば可愛くなれるんだろう」
「知らねえよ」
「可愛くなりたいなあ。真希ちゃんの隣に並んでも恥ずかしくないくらいに。真希ちゃんがわたし以外の人なんて選ばなくなるくらいに」

 魂など売らなくとも、は充分に可愛かった。それに私のために何かを差し出そうとしているときの顔は、誰よりも何よりも綺麗だ。背筋がぞくりと粟立つくらいに。

 しかしその顔を知っているのは世界でたった一人、私だけで充分だった。私からの愛情を渇望しているが世界で一番可愛くて美しいことも、そんなを手放す気など更々ないことも、私だけが知っていればいい。

 だから、私は全てを口にしない。態度にしない。表さない。それでいいと思っている。私からの愛情を独占したいと、が思い悩んでいるくらいがちょうどいい。

 そう考えている私の瞳も、きっと氷点下の色をしているのだろう。とは違う、禍々しさを孕んだ色を。

「ほら、早く支度しろ」
「はーい」

 私を笑顔で見つめるその瞳には、ぬるい熱が浮かんでいた。やっぱり今日は部屋で一日を過ごしたいかもしれない。そんな気持ちを押し込めて、私は扉に手をかけた。


20190218
凍った目蓋に宿る熱
(呪術廻戦女子夢企画「Petal」様へ提出)