三分間の幸福

、起きろ」

 大好きな人の平板な声音が、深い眠りの底に落ちた全ての感覚を引っ張り上げる。肩を軽く揺さぶられ、朦朧とした意識が少しずつ覚醒する。小さな唸り声とともに、わたしは重い目蓋をこじ開けた。一足早く起床していた脹相と視線が絡む。

「おはよう。どうしたの?」
「ホワイトデーは何が欲しい」
「……え?」

 突拍子のない質問にポカンとした。感情の読めない脹相の向こうから賑やかな声が聞こえる。確かめるようにベッドの上で裸の身体を転がせば、テレビが朝の情報番組を映し出している。

 その内容は数日後に迫ったホワイトデー特集だった。受肉して間もない脹相は現代の文化に疎い。きっとテレビを観て初めて、ホワイトデーがバレンタインデーのお返しをする日だと知ったのだろう。

 人形めいた怜悧な顔を見上げながら、布団の中でかぶりを振ってみせた。

「ううん、いらない」

 すると脹相が途端に険しい顔をして、身を乗り出すようにわたしに鼻先を近づける。

「何故」
「お返しがほしくてあげたわけじゃないよ。ただ単にわたしが脹相にあげたかっただけ。だから気にしなくていいんだよ?」
「駄目だ。俺の気が済まん」
「意外と律義だよね」

 小さな声を漏らして笑うと、深淵を溶かし込んだ死魚の瞳が返事を急かした。シーツで肌を隠しながら、ゆっくりと上体を起こす。

「なんでもいいの?」
「ああ。俺にできることなら」

 わたしは少しだけ考えて、それから口端を吊り上げる。穏やかな弧を描くように。感情の浮かばない脹相の顔をじっと見つめた。

「じゃあ、脹相の手料理が食べたい」



* * *




「本当にいいのか」
「なにが?」

 お気に入りのワンピースに着替えたわたしが小首を傾げると、脹相はその眉間に深い皺を刻んだ。眼前の白い容器からは湯気が立ちのぼり、香ばしいソースの匂いが絶えず鼻孔を焦がしている。

「カップ焼きそばは革命だよ?」
「手料理と言っただろう」
「手料理じゃん。お湯を注いで、お湯を切って、ソースと混ぜる。手間暇かかった食べ物だよ」

 茶目っ気たっぷりに言えば、一片の光も通らない黒瞳に怪訝な色が走った。納得していない様子の脹相に笑んでみせる。

「作るの、初めてだったでしょ?」

 そもそも料理はもっぱらわたしの担当だったから、脹相がキッチンに立つことなど初めてだった。「これが食べたい」と手渡したカップ焼きそばのパッケージをくまなく観察し、やっと見つけた作り方の説明をじっくりと読んでいた。ひどく真剣な顔をして。

 電気ケトルで湯を沸かし、白い容器に湯を注いだ後はずっと壁時計の針を見つめていた。三分を待ちわびる大きな背中に声をかければ、「話しかけるな」と視線もくれずに低い声で叱られた。そして三分きっかりに湯を捨て、説明通りにソースを混ぜてわたしの目の前にできたてのカップ焼きそばをそっと置いたのだった。

「面倒臭がりな脹相が、わたしのために説明を読んで、その通りに作ってくれた。一分一秒を気にしてくれた。それがいいの。わたしのために作ってくれたことがうれしいの」
「安上がりな女だな」
「だって一緒にいてくれるだけで充分幸せだから」

 本心からの言葉だった。目を離せばふらふらとどこかへ行ってしまいそうな人が、こうして今でもわたしのそばにいてくれるのだ。これ以上のものを望めば、きっとバチが当たるだろう。

「いただきます」

 両手を合わせて、カップ焼きそばを頬張る。いつもの数百倍おいしく感じるのだから、わたしの味覚はずいぶんと単純らしい。あっという間に白い容器は空になった。

 ぺろりと平らげる姿を、脹相はずっと見つめていた。何も言わず、飽きもせずに。その瞳が少しだけ優しげに見えたのは、きっとわたしの勘違いではないはずだ。