犬、猫を拾う

「ツナマヨ」

 アイドルや女優顔負けのうるうるとした上目遣いで、恋人の棘が俺を見つめている。

 何もしていないのに罪悪感を覚えてしまう、つぶらで潤んだ瞳。眠気たっぷりで覇気のない普段の視線は一体どこへ行ったのだろう。俺の弱点を充分に理解した上で自らの武器を存分に使うのだから、この狗巻棘という男は本当に質が悪い。

 とはいえ、その穏やかな薄茶色を覆う膜が自らの涙ではなく、数秒前に差していた眼精疲労用の目薬だということには触れないでおくべきか。

「ツナマヨ」

、お願い”と棘が鼻にかかった甘い響きで繰り返す。その直後、まるで援護射撃のように「みゃあ」と声がした。潤んだ双眸から視線を落とせば、棘の腕の中で丸くなっている黒い子猫と目が合った。子猫は鼻先をこちらに向けたまま、「みゃあ」と健気に一鳴きする。

 棘が猫を拾って呪術高専に帰ってきたのは、ちょうど五分前のことだった。

先輩、見て見て!」

 二年のホームルーム教室に勢いよく飛び込んできたのは、後輩である虎杖だった。読み耽っていた文庫から顔を上げれば、笑顔の虎杖の後ろに、同じく後輩の伏黒とこの後輩ふたりを任された棘が続く。俺は本を閉じながら、呪霊祓除の任務から帰った三人に首をひねってみせる。

「どうかした?」

 問いかけると、虎杖が棘の腕を指差した。導かれるように視線を移動させて、毛むくじゃらの黒い塊を視認する。あれは何だという疑問は、「みゃあ」という小さな声で解決した。

「その子猫、どうしたの?」

 すると待ってましたと言わんばかりに、虎杖と棘がきらきらと顔を輝かせる。

「拾った!」
「しゃけ!」

 明快な答えに目を瞬いていると、険しい表情の伏黒が説明を付け加えた。

「道端に捨てられてたのを、狗巻先輩が見つけたんです。今どき段ボールで捨てるなんて逆に怪しいですし、拾わないほうがいいって止めたんですけど……」
「おかか」
「そうだよ、無視なんてできねぇよ。可哀想じゃん」
「しゃけしゃけ」

 さも当然のように頷き合うふたりを、伏黒は厳しく睨み付ける。

「高専では飼えないって学長に言われただろ」
「そうだけどさ……」
「こんぶ……」
「こっそり飼おうとか言い出すつもりじゃねぇだろうな」
「寮に空いてる部屋いっぱいあるし、一匹くらいならバレないんじゃね?」
「しゃけ」

 棘と虎杖は緊張感もなく和やかに笑い、視線を逸らした伏黒の口端が痙攣したように細かく動く。

 伏黒の途方もない胃痛を感知した俺はイスから立ち上がると、黒猫を腕に抱く棘に近づいた。子猫の埃っぽい黒い毛を撫でながら、助け舟を出すように呆れた笑みを結ぶ。

「この子を拾ったことについては何も言わない。でもね、黙って飼うのはさすがに賛成できないよ。ここはたくさんの人が集まる場所だ。猫が苦手な人やアレルギーを持つ人がきっといる。そういう人達への配慮も含めた“高専では飼えない”という判断を無視してほしくないな」

 ふたりの表情が一気に翳り、ばつが悪そうに目を伏せる。言葉のわからない子猫が「みゃあみゃあ」と寂しそうに鳴いた。段ボールで健気に鳴き声を上げる子猫を、どうしても放っておけなかったのだろう。

 やがて棘は顔を上げて、意を決した様子で俺に向き合った。

「すじこ」
「えっ。ウチで飼いたいの?」
「しゃけ」
「ペット可のマンションだけど……」
「こんぶ」
「棘が世話をするのは当然だとしても……」

 そこで棘は何かを思い付いたような顔をした。懐から疲れ目用の目薬を取り出して素早く点眼し、そして今に至るというわけだ。

「ツナマヨ」

 泣き落とし作戦に打って出た棘から視線を外し、ああもう困ったなと軽く頬を掻く。

「どうしてもって言うなら別にいいよ」
「……おかか」
「賛成してないわけじゃなくて。ただちょっと思うところがあるというか」
「ツナ」

 ちゃんと言ってと棘が戸惑った声音で問う。俺はかぶりを振った。

「俺も棘も昼間はいないだろ?この子に寂しい思いをさせるんじゃないかなと思ってさ」

 目を見開いた棘はしばらく何も言わず、そしてゆっくりと肩を落とした。大人しい毛むくじゃらを撫でながら、「こんぶ」と小さな声で謝る。ひどく落ち込んだ様子の棘に、伏黒と虎杖が声をかけた。

「飼ってくれる人、探しましょう」
「そうだな。そんなに落ち込まなくても大丈夫だって!最近は猫好きのほうが多いって聞くし!」
「しゃけ……」

 とぼとぼと教室を後にしようとする背中を、俺は優しく引き止める。

「棘、待って」
「……おかか」
「誰も駄目だなんて言ってないよ」
「……すじこ」
「そうだね。ウチでは飼わないほうがいいと思う。ごめん」
「こんぶ」
「うん、だからね、“ウチでは”飼わないほうがいいんだよ」

 言葉の意味を汲み取れなかったらしく、猫を抱いた棘が怪訝な顔をする。俺はスマホを取り出して素早く操作すると、流れる動作で耳に当てた。

「もしもし、母さん?急にごめん。棘が母さんにお願いがあるんだって」

 棘はその伏し目がちな瞳を丸くしている。きっと察しがついたのだろう。俺は狼狽する棘に向かってスマホを差し出した。

「自分で言いな」
「……おかか」

 かぶりを振って目を落とした棘の頭を、俺は優しく撫でつける。相手が恋人である俺の母親だからこそ、迷惑をかけたくないとでも思っているのだろう。しかし棘が沈黙を貫いている間にも、スマホからは棘くん棘くんと女子高生かと思うほどの落ち着きのない声が聞こえてくる。俺は笑いを堪えながら、スマホを指差してみせた。

「大丈夫だよ。“家族”のお願いは二つ返事で叶えてくれる人だから」

 子猫が黒い瞳で棘を見上げる。迷いを吹っ切った様子で棘は子猫を虎杖に預けると、スマホを手に掴んだ。そして。

「こ、こんぶっ」

 少し裏返った声で“お久しぶりです”と挨拶して、たどたどしく説明を始めた。

 呪言のせいで語彙に制限をかけている棘では、電話越しの会話にはどうしても限界がある。棘との会話に慣れていない母さんが相手なら尚更だった。それでも棘が交渉しなくては意味がないと思ったし、それは棘自身が一番よくわかっているようだった。

 おにぎりの具を懸命に並べ、時おり子猫の鳴き声を聞かせ、四苦八苦しながらスマホの向こう側にいる母さんに自らの想いを伝える。虎杖と伏黒は不安そうな眼差しでそれを見守り、俺は棘のくるくる変わる表情を楽しく眺めていた。

 そして十分後、棘は満面の笑みで俺にスマホを返却した。

「ツナマヨ!」

 指でピースサインを作ると、破顔した虎杖が子猫を天井高く掲げる。

「よかったなお前!」

 わかっているのかいないのか、子猫が小さな声で「みゃあ」と鳴いた。感情の爆発した何とも言えない表情の棘は身体を寄せて、緊張の残る冷たい指を俺の手に軽く絡めた。

「いくら」
「俺は電話をかけただけ。この子の家族を見つけたのは棘だよ」

 笑顔で答えながら、俺はスマホで親父宛に簡素なメッセージを送る。“週末、家に猫が一匹増えます。棘が拾ってきた子です。すみませんが、よろしくお願いします。”――すぐに“了解”と返事が来て、ほっと胸を撫で下ろした。

「本当にいいんですか?」

 伏黒の不安げな問いに、俺は間断なく頷いた。

「うん、大丈夫。俺の実家は猫屋敷だからね」
「しゃけしゃけ」
「え、どんだけ飼ってんスか?」

 虎杖が興味津々な様子で身を乗り出す。俺が答えるより早く、棘が両手で数字を示した。

「すじこ」
「十四匹?!」
「意外と多いですね……」

 小さな黒猫は虎杖から棘へ渡る。棘は帰る場所が見つかった子猫を愛しげに見つめると、俺をじっと見上げた。

「こんぶ」
「オスの名前か……この子で十五匹目だし、ノクトでどう?」
「しゃけ」

 あっさりと決まった名前に、虎杖が首を傾げた。

「なんでノクトなの?」
「ゲーム大好きな親父の影響で、昔からそういう縛りなんだよ」
「しゃけしゃけ」
「ちなみに俺はケフカとビビに懐かれてる。で、棘のお気に入りはシド」

 すると虎杖が勢いよく手を挙げた。

「はい!クラウドはいますか?!」
「いる。当たり前だろ」
「じゃあ一番強いボス猫は?!」
「トンベリだな。アイツには最強の悟も勝てない」
「遊びに行きてぇー!」

 うずうずと叫んだ後輩に、俺は笑みを向ける。

「いいよ。冬休みはどう?どうせ高専にいたって暇だろうし、一緒に年越ししようぜ」
「いいんスか?!」
「大歓迎だよ。伏黒もね」
「じゃあお言葉に甘えてタダ飯ご馳走になります。A5の松坂牛がいいです。あと松葉ガニ」
「はいはい。いくらでも食べさせてやるよ」

 釘崎や真希、パンダも誘って皆で騒がしく年越しするのもいいだろう。楽しそうに耳を傾けていた棘に、悪戯な視線を送る。

「もう棘はお客さんじゃないからね。家事はちゃんと手伝うこと」
「しゃけっ」

 元気よく頷いた棘の腕の中で、黒猫が幼い牙を剥いて欠伸をする。喪服じみた制服と同化しそうなほど黒い頭を、指の腹で優しく撫でる。

「お前も今日から俺の家族だよ、ノクト」

 毛むくじゃらの小さな子猫は、「みゃあ」と返事をするように鳴いてみせる。