10

 適者生存のための稀有な遺伝的変異は、五条悟に圧倒的な優位性をもたらした。

 それは決して六眼や術式といった呪術的要素だけではなかった。神が悪戯に設計した塩基配列は五条悟から色素を欠乏させ、あらゆる者を唸らせる美貌と体躯を作り出した。生命に進化を促す最も重要な特性――繁殖能力という点において、類稀なほど魅力的な容姿を備えた五条悟は、競争上の強みを際限なく獲得したと言っても過言ではないだろう。

 恋愛市場に自ら降り立つまでもなかった。他者から好意を寄せられることなど日常茶飯事だった。情欲が深く絡み合った経験値は意図せず積み重なり、惚れた腫れたの駆け引きはいつしか朝飯前に変わった。

 だから、こと恋愛において、五条悟がその優位性を手放したことは一度たりともなかった。――そう、今日この瞬間までは。

 時間の流れが嫌に遅く感じた。高地と低地では時の刻み方がまるで違うのは時間構造の常識だが、悟は己の肉体が地球の中心まで落下したのかと思わず疑ったほどだった。それほど強く、時間の減速を感じてしまったのだ。

 しかし瞠目する悟はイスに腰掛けたまま、微動だにも出来ずにいた。深夜の食堂に流れる時間がその単一性を失ったわけではなく、極度の緊張と蒼惶が悟の時間感覚に多大な影響を及ぼした結果だった。

 ――五条くんのこと、好きになりそうです。
 ――ね、五条くん。
 ――好きになっても良いですか?

 の紡いだ蠱惑的な言葉たちが、悟からあらゆる余裕を奪っていた。

 それはこちらを試すような言葉だった。肋骨の内側に眠る本質を探るような言葉だった。額面通り受け取ることも出来るし、何か裏があるのかもと穿った解釈を広げることも可能だろう。とはいえ、問題はどちらが正解であるのか全く検討も付かないことだが。

 内的時間というひどく不確かな変数の中で、悟は眼前ののことを考え続けていた。その言葉の真意に指を伸ばすように。艶美な弦月を描く唇から一向に目が離せず、それこその思惑なのではないかという疑念が廻った、そのとき。

「五条くん?」

 やや間延びした響きが耳朶を打つや、心臓が緊張に大きく跳ねた。催促するような茶目っぽい視線が、青よりもなお蒼い双眸に臆すことなく対峙する。

 うっと怯んだのはもちろん悟のほうだった。特に望まず積み上げ続けた経験値も、引き際を誤ることのない駆け引きも、の前では何もかも役に立たなかった。

 にとって意図せぬ反応を、理解の範疇を超えた反応を返すことを、悟はひどく躊躇った。嫌われたくなかったから。からの好意を確実に手に入れたかったから。もうとっくに戻れない場所まで来てしまったのだと、悟は自嘲混じりに改めて実感する。

 迷ったように羞恥と焦燥に滲んだ六眼が泳ぐと、は顔を背けて小さく噴き出した。胡乱げに眉をひそめた悟を一瞥し、微かに肩を震わせながら笑みを含んだ声音で滑らかに言った。

「そんな顔しないでください。冗談ですから」
「…………冗談?」
「はい。もっと言うなら社交辞令です」
「…………社交辞令?」

 抑揚に欠けた平板な口調でオウム返しを続ける悟を揶揄するように、口元に手を当てたがわざとらしく驚いた顔をしてみせた。

「えっ、まさか五条くんともあろう方が真に受けたんですか?」
「は、はぁ?!んなわけねーだろ!」
「ですよね?」

 ひどく意地の悪い、しかし全く憎めない微笑を軽やかに添えると、は幸福を噛みしめるようにバニラアイスを口に運んだ。得も言われぬ徒労感に襲われながら、悟はひとつ嘆息した。不貞腐れた様子で頬杖を突き、溶け始めた乳白色のアイスに蒼穹の視線を落とす。

 もしも、と思った。あの冗談を真に受けていたら、いつもの調子で「うん、良いよ。俺のこと好きになって?」と返すことが出来ていたら、は一体どうしたのだろう。それでも「冗談ですよ。本気にしないでください」と一笑したのだろうか。それとも自らの言葉を覆すことなく、好きになってくれたのだろうか。無論、恋愛対象として。

 悟の眉間に深い溝が生まれた。に近づいた本来の目的がすでに霞みかけている。東京に呼んだ理由を忘れたわけではなかった。に差し向けられた、汚泥にも似た上層部の黒い思惑のことも。

 思考は尽きなかった。術式を使用するたびに新しく生まれ変わる脳髄はのことを考えるばかりで、眼前の視界情報をろくに伝えようともしなかった。バニラアイスの輪郭がひどく不確かになっていることに気づいたのは、に名を呼ばれたあとだった。

「五条くん。アイス、溶けちゃいますよ」
「……あぁ、うん」
「どうかしたんですか?さっきからずっと百面相ですけど」
「誰のせいだと思ってんだよ」

 他人事のような口調にムッとした悟はやや粗雑な所作でアイスを掬うと、それを勢いよくの開いた口に突っ込んだ。が突然のことに目を丸くしたのも一瞬のことで、咥内で音を立てて弾ける炭酸に「んー」と幸せたっぷりに頬を緩めていく。

 表情筋全てを使って至福を表現するその姿に、悟は一向に整理の付かない思考を手放した。今はもう何もかもどうでも良かった。との時間を楽しみたいという純粋な欲が勝っていた。悟は口元に走る緊張をふっと解くと、頬杖を突いたまま「あーん」と言ってにアイスを与え続けた。

 とはいえ、大容量のカップアイスを用意していたわけでもなかったから、との時間はあっという間に終わりを迎えた。悟はすっかり溶けた乳白色のアイスをスプーンで丁寧に掻き集めると、いつもと変わらぬ軽薄な口調でに告げた。

「はい、これで最後ね」
「最後……」

 気の毒になるほどしおらしく呟いたに、悟の心がちくりと痛んだ。はそれ以上何も言わずに差し出されたスプーンを迎え入れると、ひどく真剣な表情でバニラアイスを味わい始めた。咥内で弾ける感触を記憶に深く刻み付けようとするが如く。

 先ほどの蕩ける笑顔とは打って変わった真面目な顔を、悟は自らの視界の中央に置いた。ほんの子供騙しを加えただけのアイスひとつで、表情をころころ変えるをもっと見ていたかった。何より、の悲しそうな顔は見たくなかった。

「……あのさ」

 その想いは、ほとんど無意識的に口を突いていた。

「明日も、作ってあげよっか?」

 鼓膜が拾い上げた己の声音に、悟は内心ひどく動揺した。作る手間や時間のことより、へ向けた邪な下心を気取られることを恐れていた。

 余計なことを口走った焦燥に駆られながらも、平静を装って眼前のの様子を確かめた。は驚いたように瞬きを繰り返すと、咥内に残ったアイスをごくんと飲み込んだ。唇から滑り落ちた台詞が元に戻らないことを察し、みるみる血の気が引いていく。

 純粋な厚意故の言葉だと受け取っているなら構わない。悟の本心を見透かされていなければそれでいい。しかし、の体質や境遇に対する同情心からの提案だと受け止められていた場合が最も厄介だ。あるのかないのかすらもわからない悟への好感度が、地の果てまで落ちるのはほぼ間違いないだろう。

 この場を乗り切る上手い言葉が見つからなかった。誤魔化す方法として引っ張り出してきたのは、十分前ののそれだった。悟は軽薄な笑みを貼り付け、演技めいた所作で肩をすくめてみせた。

「なーんてね。冗だ――」
「良いんですか?!是非お願いします!」

 悟の声音を掻き消さんばかりの勢いで、はテーブルに手を突きその身を乗り出していた。眩い光を灯した明眸がきらきらと輝いている。想定外の喰い付きように、悟は思わず呆気に取られた。

「…………え?マジで?」
「はい!マジです!お代はお支払いしますので!」

 前のめりに発してすぐ、「あ、でも、ごめんなさい。今すぐ全額お支払いするっていうのは、ちょっと難しいんですけど……」と少し気まずげな様子で付け加えながら、は力を失ったようにイスに腰を下ろした。

 しょんぼりと項垂れるを見やると、悟は「……あー」と言葉に迷ったように後頭部を掻いた。どこまで本心を伝えるべきか、その線引きに躊躇していた。よくよく考えてみればを口説き落とすと秋霖の中で堂々と宣言した以上、何を言っても悟の真意は悟の思う形で正しく伝わらないような気がした。けれど、今はそれで良いと思った。

「別に金なんか取らねーよ」

 数秒の沈黙を挟んで放たれたその言葉に、の表情が硬く強張った。

「……だから協力しろ、とでも言うんですか」
「言わない。言っただろ、今夜はそういう話は抜きだって」
「じゃあ何の魂胆で」
「そんなのひとつしかないでしょ」

 ようやく普段の調子を取り戻したように、悟は軽薄な笑みを結んだ。緊張に張り詰めたに向かって、どこか冗談めかした浮ついた答えを提示する。

「気になってる女の子に手料理を振る舞えば好感度が上がるかな、ってね。つまりただの下心。単にそれだけだよ」

 念を押して言えば、は神妙な顔で頷いた。

「……なるほど。つまり身体を差し出せと」
「何でそうなるんだよ。話が飛躍しすぎだろ」

 悟は間断なく苦い顔で否定したものの、無論その全てが本心ではなかった。への劣情は間違いなく存在するし、機会があるなら迷う暇もなく飛び付くだろうし、あわよくばシたいという生物に深く根付いた生殖本能を否定することは困難を極める。

 とはいえ、己の欲望よりもを傷つけたくない気持ちのほうが大きいのも事実だった。そこには自分をより良い男に見せたい一心の矜持もあった。下半身に脳味噌が付いているような、短絡的で即物的な生き物として見られたくないが故の否定は、しかしの中で“何か裏があるのではないか”という疑念を膨らませただけに過ぎないようだった。

 はどこか納得いかない様子で眉根を寄せていた。悟は軽薄な笑みを拵えながら、脳裏でこの場に最も相応しい言葉を探した。相手がでなければ「じゃあヤラせて」と遠慮なく言い放っただろうが、今は迷うことなく選択肢から除外する。から嫌われることだけはどうしても避けたかった。

 しかしそうは言っても、五条悟は己の優位性を取り戻せるこの好機をみすみす逃すような人間ではなかった。「ちょっとした下心だよ。本当にそれだけだから」などと念を重ねることが、自分にとって最大の愚策であるということは充分に理解していた。

 悟は右手指を三本立てると、胡散臭い微笑の傍らにぴったりと添えた。あざとい女子のそれを真似たような媚びた仕草で、小さく首を傾げてみせる。

「それでも何か気に掛かるっていうなら、俺のお願い三つ叶えて?」

 するとは一拍置いて、「わかりました」とひとつ首肯した。その表情には先ほどまでの強張りはなかった。たとえタダであろうと悟相手に貸しなど鐚一文作りたくないのだろう、手料理の対価として差し出す何かが明確に在るほうが安心できるらしい。信頼されていないことの裏返しのようで、全く好い気持ちはしなかったが。

 肋骨の内側で燻る複雑な感情には見て見ぬふりをして、ともあれ悟は会話を進めることにした。

「じゃあ、まずひとつめ。その喋り方やめて」
「……喋り方、ですか?」
「その敬語。同い年だろ、俺たち」

 は小さく頷くと、「これでいい?」とこちらの様子を窺うような、どこか躊躇いを含んだ口調で尋ねた。満足げな微笑を返した悟は、必要以上の間を挟むことなく質問を続けた。

「次にふたつめ。補助監督が殺された件について答えて。犯人の目的って一体何なワケ?」

 一切の淀みなく紡がれた問いに、は困惑を孕んだ視線を落とした。それは決して答えに窮しているわけではなく、どこから話すべきかを悩むような素振りだった。

「五条くんが見た記録には、“生存者はいない”って書かれてたんだよね?」
「うん、そうだけど」
「生存者はふたりいるよ」
ともうひとりってこと?」

 は首肯すると、空になったカップアイスの容器をじっと見つめた。

「……でも、これはきっと由基ちゃんも知らない。由基ちゃんが到着するずっと前に、わたしは“彼”を見逃したから」
「見逃した理由が今回の目的とどう関係すんの?」
「……わたし、そのとき“彼”と約束をしたんだ。大切な――とても大切な、約束。多分、“彼”はそれを果たそうとしているだけ」
「大切な約束って?」

 本質に迫るその質問に対して、しかしは何も答えなかった。意識をどこか別の場所へ飛ばしたような虚ろな明眸に、悟はそれ以上の追及を諦める。悟から目を逸らしたを呼び戻すように、黒のサングラス越しに青よりもなお蒼い視線を送った。

「で、最後に三つめ」
「それが本題でしょ?」

 突として耳朶を打った茶目っぽい指摘に、悟は諸手を挙げて降参するように「そうだよ」と肩をすくめてみせた。の意識が再びこちらへ向いたことに安堵しつつ、何喰わぬ顔を精一杯取り繕った。一呼吸置くと、強い緊張を覚えた唇で最も答えが欲しい質問をゆっくりと紡いだ。

「なんで着拒したの?俺のこと嫌いとか?」
「ううん、違うよ」

 穏やかな顔をしたがかぶりを振って断言した。あっさりとしたその端的な否定に、悟は毒気を抜かれた顔で目を瞬いた。緊張を解くように細く息を吐くと、代わりに湧き上がった疑問を直ちに投げかけた。

「じゃあ理由は?」
「通話は傍受されてる可能性が高いから」
「傍受?補助監督を殺した犯人にってこと?」
「わたしが“オリジナル”と親しくしてることは、“彼”への余計な刺激になる」

 ―― “紅”計画。ラーメン屋での口から語られた、“最強”五条悟のバックアップを作るという耳を疑うような非人道的な実験。五条悟の存在があってこその計画に巻き込まれた以上、積み重なった憎悪の矛先が悟に向かうのも無理はないような気がした。

 だからこそ、わからなかった。悟は静かに目を伏せるを見つめた。本来悟に対して抱いて当然であるはずの、滴るような憎悪は微塵も感じられない。

 尋ねるのは怖かった。しかしそうしなければならないという己の直感を強く信じた。との関係を、今ここで足踏みしたくない一心で。悟は躊躇を含んだ可聴域ぎりぎりの声音で問うた。

「……も、俺のこと憎んでんの?」
沈黙サイレンス

 言うと、は瞳を伏せたまま、薄っすらと自嘲めいた笑みを浮かべた。

「憎んでないって言ったら嘘になるかなぁ。“紅”計画のせいでたくさんの人が死んだ。そうせざるを得なかったとはいえ、わたしはたくさんの人を殺した。縋る多くの手を振り払って、ただ一方的に奪った。五条悟さえいなければって思ったこと、一度や二度じゃない。あんな計画に巻き込まれなければ、わたしはまだ人間でいられたんじゃないかって、正直、今でも思うよ」

 落ち着き払ったその声音に、感情の昂りは一切なかった。は緩やかに視線を持ち上げ、偽りの色に覆われた明眸に柔らかな光を宿した。

「でも、わたしが憎んだり恨んだりするべきなのは、きっと五条くんじゃない。五条くんをさも神か悪魔のように扱う、この狂った世界そのものかなって」

 虚を突かれたように悟が目を瞬くと、は悪戯っ子のように笑んでみせた。

「君も普通の男の子だってこと」

 そして悟の反応を待つことなく視線を落とすや、両手でカップアイスの容器を優しく掴んだ。それを軽く傾けながら、目を奪われるほど嫋やかな微笑を湛えた。

「五条くん知ってる?ご飯ってね、幸せなんだよ」
「……幸せ?」
「そう、幸せ。しかも味覚が鈍いわたしにとっては、誰と一緒に食べるかで大きく味が変わるんだよ。好きな人と食べるご飯は美味しいし、嫌いな人と食べるご飯は逆に不味くなる。だからご飯を食べるときは、好きな人と一緒にって決めてるんだ。幸せな気持ちが少しでも膨らむように」

 滑らかに説いたは一拍置くと、瞬きすらも忘れた悟に茶目っぽく笑いかける。

「本気で憎んでたら、こうやって一緒にご飯なんて食べない。それだけは覚えておいてほしいな」



* * *




「……あんないい女、初めて見た」

 肺に溜まった空気を全て吐き出すように独り言ちると、五条悟はやや緩慢な所作で蛇口のレバーを持ち上げた。白い泡に溺れた食器を断続的な流水にくぐらせながら、綻ぶようなの花笑みを脳裏に思い浮かべた。

「ご馳走様でした。明日のリクエストなんだけど、叶うなら牛肉が食べたいな。牛丼とかすき焼きとか、今日みたいに甘辛いお肉をお腹いっぱい食べたい。五条くんの味付け、大好きだから」

 網膜にくっきりと灼き付いた、翳りも衒いもない無垢な笑顔が悟の手を止める。はたと我に返った悟は「……マジで重症」と苦い顔で自虐すると、手際よく洗い物を済ませていく。

 繰り返される記憶の再生は半ば無意識だった。去り際の光景を飽きもせず回想し続ける自分に心底呆れたが、しかし脳髄は悟の意思に沿う素振りを一向に見せず、紅鏡にも似た朗らかな笑顔を反芻している。

 悟は蛇口のレバーを下ろして水を止めると、濡れた手を軽く振って水滴を落とした。ハンカチで水気を拭いながら、胸の内で燻る疑問を堪え切れず吐き出した。

「ていうか“好きな人”って何。アレどういう意味」

 が口にしたその単語が広義的な意味だと頭ではわかっていても、そこに何か特別な意味を持たせたくなってしまう。どうしようもなく期待していた。から嫌われていない、むしろ好意的ですらあるという確信を得たからこそ。“好きな人”がにとって特別なたったひとりに向けられた言葉だったら――そう願わずにはいられなかった。

「……あークソ。マジで他の奴に盗られたくねぇな。どうすっかな」

 後頭部を掻きながら本音を吐き捨てたそのとき、無機質な着信音が響き渡った。尻のポケットに突っ込んでいた携帯が小刻みに振動している。「こんな夜中に誰だよ」と低い文句を垂らして取り出せば、硝子からの着信だった。

 悟は胡乱げに眉を寄せると、薄っすらと緊張を孕んだ指で通話ボタンを押した。

「もしもし、こんばんは。五条くんですか?」

 それは硝子の声ではなかった。鼓膜を叩いた澄んだ声音に悟の躯体が張り詰めると同時に、身体を廻る呪力を頭部に集中させて呼吸を整えた。他者の呼びかけに応じることが呪術的に深い意味を持つことを、悟は深く理解していたから。

「五条くんですか?」
「うん、そうだよ。どうしたの?もう俺が恋しくなっちゃった?」
「いいえ、恋しくなったというか……五条くんにお礼が言いたくなったんです。今日は本当にありがとうございました。ちゃんと伝えておきたいなと思ったので」
「あれ?さっき傍受の可能性って言ってなかった?」
「はい。だから家入さんに携帯をお借りしたんです」

 ひどく滑らかなの応答に耳を傾けつつ、食堂の壁時計に蒼の視線を這わせた。たった一言感謝を伝えるためだけに、この夜半に硝子を叩き起こしたとでも言うつもりなのだろうか。悟は軽薄な口調を崩すことなく、との会話を続けた。

「そんなに喜んでもらえるなら作った甲斐があったってもんだよ。明日はのリクエスト通り、鶏肉料理にするから期待してて」
「やった。楽しみにしてますね。こんな夜遅くにごめんなさい。おやすみなさい、五条くん」
「ん、おやすみ」

 通話が切れたことを確認すると、すぐさま悟は切迫した表情で携帯を操作した。着信履歴から家入硝子の名を探し出すや、一瞬の躊躇もなく電話を掛けた。数回のコール音が響いたのち、呻き声にも似たひどく気怠い響きが悟の耳朶を打った。

「……あのさぁ今何時だと思ってんの?人が気持ち良く寝てんのにやめてくれる?しかもコレ予備の携帯――」
「お前いつもの携帯どこへ置いた」

 逸る気持ちが地を這うような低音を絞り出した。しかし硝子は悟の気迫に一切怯むことなく、不機嫌極まりない怪訝な声を返した。

「はぁ?どこって――あれ?」

 眠気の混じった響きが急に途切れ、代わりに何かを物色するような小さな音が次々と届いた。沈黙から一分も経たぬうちに、硝子が電話口で呆然と呟いた。

「ない。なんで」
「……やっぱりな」
「やっぱり?……何?話が全然見えないんだけど。私の携帯の場所知ってんの?」
「一日経っても見つからないならゴリラに新しいの支給してもらえ。いいか?命が惜しいなら絶対探すなよ。じゃあな」
「ちょっと待って五条――」

 悟は一方的に通話を終えると、電源を切ったばかりの携帯をきつく睨み付けた。強張る右手に掴んだそれに焦点を固定したまま、硝子の携帯を盗みを騙って悟への接触を試みた何者かに強い警戒心を抱く。

「……一体何のつもりだ?」



* * *




 何かが唸るような低い音がずっと耳元で聞こえていた。意識の浮上と共にゆっくりと目蓋を持ち上げると、五条悟はベッドサイドに置いた黒のスマホに指を伸ばした。

 に手料理を振る舞い始めた翌日に買い替えたそれの背面には、正方形を重ねたような刻印が浮かんでいる。この際だからとガラケーを卒業しスマホデビューを果たしたわけだが、想像以上に使い勝手が良かった。料理の待ち時間に悟のスマホを散々操作し尽くしたが「わたしもスマホにする」と真面目くさった顔で言うほどに。

 真新しいスマホに視線を這わせた直後、血相を変えた悟が飛び起きた。長方形の画面に表示された名は、担任の夜蛾でもなければ級友の硝子でもない、たった一度も電話を掛けてきた試しのないそのひとだったから。

 眠気の吹き飛んだ脳髄を回転させつつ、悟はスマホを耳に押し付けた。あたかも眠気を含んだ甘ったるい語調を装い、欠伸混じりの挨拶から紡いでいく。

「……おはよ。何?朝飯も作れって言うの?」
「おはよう五条くん。そうしてくれるならうれしいけど、今はちょっと時間がないかな」

 やや口早に言うと、は一拍置いてはっきりと告げた。

「遺体が出た」
「あぁそっか。今日火曜か」
「わたし今すぐバイク借りてくるから、駐輪場集合で――」

 しかしそこで言葉が途切れた。急に黙り込んだことを不審に思った悟が胡乱な声を投げかけた。

?」
「……ううん、やっぱり食堂に集合しようかな。せっかくだから五条くんに朝ご飯作ってもらいたいかも。死ぬ前にお腹いっぱい食べておいてもいい?」
「…………は?死ぬ?」

 頓狂な響きで紡がれたその質問には答えず、は翳りを含んだ静謐な声で滔々と告げた。

「罪禍の証明をする時が来た」

 悟が疑問を抱く暇もなかった。は抑揚に欠けた機械的な語調で続けた。まるで世界の終焉を予言するかの如く。

「五条悟のバックアップが遂に完成したんだよ」