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もしも、呪術高専に身を置きながら“五条悟”という名を知らない者がいるとすれば、その人間は確実にモグリである。呪術高専三年にして、等級は特級。数多の呪術師を輩出する名家“御三家”のひとつ“五条家”の現当主を務め、五条家相伝の術式“無下限呪術”、そしてこの世に唯ひとつしか存在し得ない“六眼”を持ち合わせる、名実共に“現代最強術師”。
その名は呪術高専のみならず呪術界の末端の末端にまで轟くほどで、“最強・五条悟”の名が非術師を食い物にする呪詛師たちの犯罪抑止に繋がっているという事実は、あまりにも有名だろう。
呪術高専に五条在り、とはよく言ったものである――かどうかはさておき、五条悟の特異性は、決して呪術師としてのただそれだけには止まらなかった。
結論から言えば、“天は二物を与えず”という凡人に数多の希望を与えることわざを、天才・五条悟は持ち前の長すぎる足で軽々と蹴飛ばしてしまったのである。二物どころか三物四物、お前は一体いくつ与えられたんだと、嫉妬よりも疑問が先に浮かぶほどの有り様だった。
イケメン、高身長、頭脳明晰、最強、エリート、金持ち、エトセトラエトセトラ。魅力的なモテる要素のオンパレードに、異性が放っておかないわけがない。
弱冠ながら地位も金も権力も女も全て手に入れた現代最強術師は、当然のようにヒエラルキーの頂点に君臨している。
とはいえ、どれだけ長所が多くとも、完璧な人間などこの世には存在しないもので。
「に、人間性に難がある……」
分厚い報告書を胸に抱えた伊地知潔高は、その細い背中を丸めつつ、ひどく緩慢な足取りで呪術高専の廊下を歩いていた。暮夜を迎え入れた長い廊下は心許ない照明灯に照らされ、風情どころか騒音と化した虫の鳴き声が絶えず響き渡っている。
今日の任務の報告書――否、一級呪霊祓除に伴い損壊させた建物三棟についての始末書を書き上げていたら、すっかり日が暮れていた。
こんなはずではなかったのだ。早めに帰宅して呪術史の課題に手を付けるつもりだったのに。呪霊生態学の小テスト対策をするつもりだったのに。傀儡呪術学のノートをまとめるつもりだったのに。しかし今さら嘆いたところでどうにもならないのだが。
「壊したのは五条さんでしょ……」
肩を縮こませた潔高は、悲哀たっぷりに呻いた。
呪術師ではなく補助監督志望として呪術高専に在籍している潔高だが、学生という身分故に術師として任務には参加しなければならない。しかし、今回の任務は特殊だった。今日潔高が全く等級違いの任務に同行したのは、将来補助監督として従事するにあたっての経験を積むためである。
補助監督が如何にして呪術師をサポートするのか。一年にしてそれを肌身で学ぶ絶好の機会を与えられたわけだが、伊地知潔高の運の尽きは、その呪術師というのが最強を冠する特級術師――五条悟そのひとだったことだろう。
例えるなら、原付の免許しか所持していないにも関わらず、ぶっつけ本番で大型戦車に乗って敵軍三個中隊を撃破しろと命じられたようなものである。無理だ。無理無理。絶対無理。
右も左もわからぬ一年の潔高に、碌なサポートなど出来るはずもない。先輩補助監督の後ろで始終メモを取りつつ、コガモの如く右往左往していただけなのだが、天上天下唯我独尊男と悪名高い五条悟が、“一年だから”だの“ただの見学だから”だのという至極真っ当な言い分に耳を貸すわけもなく。
「始末書?伊地知が書いてよ。僕、そういうの得意じゃないんだよね」
天使にも似た満面の笑みで押し切られてしまった。いや、あれは堕天使か。
正直言って、根暗な潔高は陽キャの頂点に立つ五条がどうも苦手だった。しかし五条のほうはといえば、幸か不幸か潔高のことを悪く思っていないようで、事あるごとに何かと絡んでくる。
先輩だから邪険にできないというより、五条相手にそんなことしたくなかった。後が怖い。まだ死にたくない。だからといって、「伊地知って何で抜いてんの?オススメのAV貸してあげよっか?」などと人前で平然と訊いてくるような、情緒とデリカシーが死んだ男の相手を可能にするコミュニケーション能力は、残念ながら持ち合わせていない。
となれば潔高に残された選択肢はただひとつ。“とにかく角が立たぬようにその場をしのぐこと”、それだけだった。
しかし五条の逆鱗に触れぬよう接するだけで、胃がキリキリと甲高い悲鳴を上げる。ただ漠然と“なんかスゴイ先輩がいっぱいいるなぁ”と思っていたころの自らの肩を掴んで、「いいか潔高よく聴け五条さんには極力近づくな視界に入るな息を殺せ己の存在を抹消しろ」と必死で説いてやりたい気分だった。
神が丹精込めて作ったとしか思えぬ、あの圧倒的な麗貌に決して騙されてはいけない。人間性に大いに難がある五条悟は、とにかく厄介だし面倒だし最悪なのだ。捻くれた性格世界選手権などというものがあれば、五条がぶっちぎりで優勝だろう。おめでとう五条悟。貴方こそ殿堂入りに相応しい。
ともあれ。
「……はぁ。お腹空いた……」
残業中の夜蛾教諭に始末書を提出した潔高は、腹と背がくっつきそうなほどの飢餓感を抱え、来た道をとぼとぼと引き戻っていた。
慣れない始末書に手間取ったせいで、夕飯時はとっくに過ぎている。疲労の蓄積した頭がひどく重く、視界に映るのは年季の入った床ばかりだ。
長時間にわたって酷使された脳髄が、過分なほどの糖を求めていた。いつ腹の虫が大声で叫び出してもおかしくない。
空腹を紛らすように前方へ視線を滑らせたそのとき、潔高の足が緩やかに止まった。
「……あれ?」
一階廊下の突き当たり、すでに閉まっているはずの食堂の扉が薄っすらと開いている。漏れる一筋の光に誘われるようにまっすぐ歩を進めれば、重量感のある甘辛い匂いが鼻腔を強く焦がした。
――……コレって、牛丼の匂い?
とうとう腹の虫が小さな唸り声を上げた。潔高はへこんだ腹を抑えてさらに前進する。
高専生の誰かが夜食に牛丼でも作っているのだろうか。真夜中も迫るこの時間帯にヘビーな物を食べるなぁと思いつつも、食欲を強く刺激する香りに釣られた潔高は、扉の隙間をそうっと覗き込んだ。
すると。
「五条くん、スマホすごくいい」
「でしょ?だから言ったんだよ」
ちょうど視線のその先に、黒のスマートフォンを両手で操作する女を見た。凛と澄んだ横顔だけで、その女がすこぶるつきの美女だということがわかる。
象牙色に脱色した長い髪をポニーテールにした、真っ赤なルージュが艶やかな女だった。ぴったりとした黒のTシャツにスキニージーンズというシンプルな出で立ちだが、だからこそ肉欲的な曲線美がくっきりと映えている。
呪術高専に入学して半年ほど経つが、こんな女は一度も見たことがなかった。しかしながら潔高を最も驚かせたのは、全く見覚えのない美女が深夜の食堂に不法侵入していることではない。女の黒縁眼鏡から覗く知的な眼差しが、潔高に始末書を押し付け空腹に至らしめたあの男――最強・五条悟に向けられていたことだった。
――み、みみみみ密会っ?!こ、こんな時間に?!こんな時間だからこそっ?!
五条が異性にモテるのはもはや一般常識だが、夜更けの高専に堂々と女を連れ込むほど手癖が悪かったとは知らなかった。絶対いい匂いがしそうなあの美女を、得意の口八丁手八丁で口説き落としてきたのだろう。潔高は女をじっと見つめた。
まあ、なんというか、ちょっと羨ましくはある。包み隠さず本音を言えば、ちょっとどころかめちゃくちゃ羨ましいのだが。
嫉妬まみれの感想はさておき、潔高は女に対して心から同情していた。五条悟の悪魔のような本性を知らないのだ。情緒もデリカシーも死んだ男に捕まるなんて男運が悪すぎる。
「お待たせ。おかわりはたっぷりあるから、好きなだけ食べてよ」
言うと、稀代の性悪男は女の目の前に巨大などんぶりを静かに置いた。これでもかと盛られた褐色の肉の山に、潔高の口の中でじゅわっと唾液が広がる。どうやら五条は女のために、手作りの牛丼を振る舞っているらしい。
――……あの五条さんが、料理を?
疑問を覚えた潔高は隙間に眼鏡を押し付ける。五条が対面に座ると、小さな微笑を湛えた女が「ありがとう」と言ってスマホを手渡した。
「わたしもスマホにする。そろそろ機種変したいと思ってたんだ」
「マジ?じゃあ俺と色違いにしよ」
「やだ。わたしも黒がいい。黒にする」
「なんで。俺もやだよ。ここは白だろ。お揃い感出ないじゃん」
「えぇ……五条くんとお揃いは嫌だな……」
「そんな言い方しないでよ。ちゃんに恋してる悟君が傷ついちゃうでしょ」
五条が滑らかに紡いだ茶目っぽい台詞に潔高が瞠目すると同時に、女は肩を震わせながら楽しげに笑った。ムッと険しい表情になった五条を見やると、噛み締めるように繰り返した。
「ちゃん。ちゃんかぁ」
「……なに」
「ううん。それが五条くんのやり口なんだなって。女の子と距離を詰めるには最適だと思うよ」
「……あのさ、そういうの、わかってても普通は言わないもんだよ?こっちはちょっとでも意識してもらおうって、らしくもないこと――」
「いただきまーす」
「俺の話聞いて?!」
あっさりと視線を逸らした女はすでに箸へ指を伸ばしていた。ひとつ嘆息した五条は頬杖を突くと、「ホント、俺に微塵も興味ないよね」と小さく独り言ちる。
その瞬間、時間が止まったような気がした。
潔高は呼吸も忘れて大きく目を瞠った。恋愛経験に乏しく、恋愛沙汰に疎い潔高でもわかる。
抱え切れぬほどの愛おしさが滲み出したとしか思えぬ、その柔らかな声音。黒いサングラスの隙間から垣間見える、凪いだ海にも似たひどく優しげな双眸。普段の軽薄さが全く感じられない、ただ慈しむような微笑。
信じがたかった。天上天下唯我独尊という言葉が世界で最も似合うあの五条悟が、目の前の女に本気で熱を上げている。
潔高は一歩も動けなかった。五条悟に出会って初めて、天才でも奇人でも変人でもない、ただのひとりの男としての、実に人間らしい五条の一面を見たせいで。巨大などんぶりを片手で軽々と持つ女をそっと撫でる、その蒼穹の穏やかさに息を呑んでいた。
――あの五条さんも、普通に恋とかするんだなぁ……
五条に対して今まで一度も感じたことのなかった親近感を、潔高は今日この瞬間初めて感じていた。確かめるように視線を真横に滑らせ、女を見つめる。
最強を冠する男の恋のお相手が、山盛りの牛丼を「美味しい」と幸せそうに頬張るあの美女だという、揺るぎない事実。
高専中に触れ廻ってやりたい気分だった。もちろん普段の仕返しとして。とはいえ、馬に蹴られるのは御免だが。
幸せを噛み締めるように牛丼を食べ進めていた女が、ふと何かを思い出した様子で視線を持ち上げた。
「そうそう、さっきの話の続き。“こい”って言えばね、五条くんは鯉って食べたことある?わたし、京都高専の池で捕まえて食べてみたんだけど」
「………………なんて?」
呆気に取られたらしい五条が、潔高の心の声を代弁してくれた。いつも飄々としている五条がそんな反応を見せるのは意外だった。五条に対する親近感がさらに深まるのを感じながら、潔高は息を潜めて聞き耳を立てる。
「……えーっと、まだちょっと理解が追い付いてないけど、その話詳しく教えてくれる?気になりすぎて絶対眠れそうにないから」
「そんなに?」
「そんなに。で、何?鯉を池で生け捕りにしたって?」
「池だけに?」
「いや駄洒落が言いたいわけじゃなくて。そもそも観賞魚なんか食うからイジめられるんじゃない?ちなみに何匹食ったの?」
「全部」
「だと思ったよ」
「あと池に棲みついてたミシシッピアカミミガメとアメリカザリガニも全部食べたよ」
「それもうただの外来種駆除じゃん。そっか……京都高専の生態系はに守られてんだな……」
「でもギンブナはまだちょっと残ってるかな」
「おいコラやめろ。在来種を食うな。生態系を脅かす外来種筆頭は間違いなくお前だよ」
口早に言い放った五条は女をきつく睨み付けた。
「池はの生け簀じゃないから」
「池だけに?」
「池だけに!」
ぎゃんと強く吼えられた女は、しかし全く堪えた様子もなく牛丼を頬張った。眉を吊り上げていた五条があっという間に呆れた苦笑を浮かべる。ほどけたように花笑む女の横顔は幸せそのもので、容易く毒気を抜かれるのも無理はない気がした。
と、そのとき。
五条が女に手を伸ばした。危機を感じたらしい女がどんぶりを抱きしめるように自らのほうへ引き寄せれば、「バーカ。そっちは取らねぇよ」と五条が悪戯っぽく笑った。
胡乱げな女の口元に指を添わせ、そこに付いていた小さなご飯粒をさらりと掬う。ごく自然な所作で指先に移ったそれを舐め取ると、瞠目する女に向けて呆れ返った声音を投げた。
「どうしてそんなもんまで食うのかね、この馬鹿舌は。こうやって美味い料理作ってる俺が馬鹿みたいでしょ。信じらんねぇよ」
「背に腹はかえられぬ故」
「……今の、どういう流れで武士なったの?」
「なんとなく」
「あ、そう……まぁ、たしかにの言うことも一理あるかもしれないけどさ、だからって暴食にも限度があんだろ。高専来るまで何食って生きてたんだよ」
「…………」
「……ねぇなんで真顔で俺のこと見つめんの?待って?何?それどういう意味?怖いからやめて?」
ふたりの会話に耳を傾け続ける潔高の瞳は、次第に女に釘付けになっていた。胸に湧いたひとつの疑問が、あまりにも大きくなりすぎていたせいで。
早くもどんぶりを空にした健啖家におかわりを差し出した五条は、イスに腰を下ろしながら不満たっぷりに抗議してみせた。
「つーかスマホの話だよ、スマホの。別にお揃い感出しても良くね?」
「出す必要ある?」
「ある!あります!だからお願い白にして!白にしてください!」
前のめりになった五条の必死の懇願に、女は「どうしようかなぁ」と気のない返事を返した。その明眸はすでに湯気の立つ牛丼だけを見つめているが、その素っ気なさとは裏腹、どこか満更でもなさそうに見えるのは気のせいだろうか。
「……誰なんだろう、あの
意図せず疑問が唇から滑り落ちたその瞬間、五条の鼻先がこちらを向いた。まるで扉の僅かな隙間を射抜くように、青よりもなお蒼い碧眼と視線が絡んだような気さえした。
「ひっ」と潔高は身を強張らせると、急いでその場から立ち去った。